316.第二王子は覚えていた。
セドリック・シルバ・ローウェル
神に全てを与えられてしまった俺の名だ。
産まれた時からの、記憶がある。
…産まれる前の、まだ目すら見えぬ筈の時の記憶も。
誰もがそれを当然のようにあると信じて疑わなかった。
初めて言語を習得した日のことも色鮮やかに覚えている。
乳母が俺の言動に、目を皿にした数も覚えている。
常人には〝忘れる〟という機能があることを知ったのは、産まれてから六年一ヶ月と三日後のことだ。
〝神子〟と仰々しい異名を与えられたのは、二歳になったその日からだった。
神の如き才に溢れ、神に愛されし子として持て囃され続けた。…まるで、信仰深いチャイネンシス王国への当てつけかのように。
言語を自由に習得した頃には、俺は既に多くの大人に囲まれていた。
〝記憶〟はできる。だが、〝理解〟ができなかった俺は
何の疑問も抱くことなく、奴らの玩具と化していた。
〝神子〟という異名が浸透した頃、最初にバートランド摂政に目をつけられた。
…初めは、単なる王族としての話し方や挨拶だけだった。あの時はまだ真面目に俺を教育する気があったのか、今でもわからない。だが、それをすぐに習得すれば一気に奴らの歯止めは外れた。
俺は課せられる知識を、全て余すところなく命じられるがままに吸収していった。頁から文字の羅列、俺に課したバートランド摂政の手の皺の数まで鮮明に覚えている。
珍しい玩具に夢中になり過ぎた連中が、俺の食事や生活管理を疎かにして、俺自身が熱に浮かされた数も体調を崩し寝込んだ数も覚えている。
王族であるにも関わらず、飢餓で城内で死に掛けた王子など、歴代でも俺しかいないだろう。
当時国王であった父上に知られることを恐れたバートランド摂政は、権限を乱用してダリオ宰相から俺の目付け役を奪い取った。妻も子もお前の城での居場所も奪うことができるぞと脅された時の、ダリオ宰相の顔は…今でも忘れたいと思う。
そうして特別な教育と銘打ち、幼い俺は静かに奴らの手で殺されていった。
知識を蓄え吐き出すだけの玩具となり、意識を失うまで記憶し、そして披露する。…それだけが俺の存在理由だった。
それまでの俺の中の知識では、それが〝常識〟だった。
国の式典などで会う兄君についても、父上や母上と同様に特別な感情はなかった。血が繋がり、順通りに行けば国王となる第一王子。…〝凡人〟だと。
そして〝神子〟と呼ばれる俺の方が次世代の王に相応しいと。毎日、連中は俺の隣で口遊み続けた。
ただひたすらに老害共に弄ばれ続ける日々。
その地獄から俺を救い出してくれたのが、…兄君だった。
『ッやめろ!貴様らッ…!俺の弟に何をしている⁈』
当時、それまで殆ど何の交流もなかった俺を、兄君は躊躇いも無く助け出してくれた。
意識は朦朧としていたが、あの時のことも鮮明に覚えている。何度感謝しても足りぬほどの大恩だ。
第一王子の兄君により、バートランド達の暴挙は明るみにされ、俺はやっと人間らしい生活を確保された。
兄君に救われた日から六日経っても、何の感情も湧かず、知識を吸い上げ吐き出すだけの道具だった俺は兄君の傍以外身の置き所も、…何をすれば良いかもわからなかった。
ただ、他の大人に会えば再び拘束され、強制されるという恐怖だけが残った。
兄君と同じ空間にいる時だけが、唯一心安らぐ時間だった。人の形をした道具だった俺に言ってくれた言葉は、今も魂に刻み込まれている。
『俺達は、兄弟だ。理由など要らん、いつでも頼れ。俺は生涯お前の味方だ。……今まで、辛かっただろう』
そう言われた瞬間、今まで殺し続けていた感情が込み上げた。
喜びと、…そして今まで俺が〝辛かった〟のだという事実をあの時初めて理解した。
それまで当然のように受けていた仕打ちが異常だったことも、苦痛も、俺自身が何処かで誰かに救いを求め続けていたことも、あの時に初めて理解した。
人の温かさも、心も、愛情も、人間らしさも全て兄君が俺に与え、教えてくれた。
奴らに止められていた時間が動き出し、あの時ようやく俺自身の針も回り始めた。
それからはずっと兄君に付いて回った。勉学で忙しかった兄君にとって俺の存在など迷惑以外の何物でもなかっただろうに、兄君は嫌な顔一つせず俺を受け入れてくれた。
兄君だけが、俺の世界の全てとなった。