306.冒瀆王女は願う。
「だっ…大丈夫ですか…⁈どうか、しっかりっ…!」
動転したまま、彼に呼びかける。私の背後に控えてくれるアラン隊長とカラム隊長も目を丸くしたままだ。騎士団長から我が軍の勝利を映像越しに聞いてから
肩を震わせたままの、ヨアン国王に。
報告を聞いて、すぐに私はチャイネンシス王国全土に援軍と勝利の報告を伝えて欲しいと兵士とヨアン国王に許可を求めた。けど、…彼は未だ信じられないかのように目を見開いたまま放心してしまっていた。
震えた右手が胸元のクロスを強く握り締め、息を忘れたかのように口が開いていた。「ヨアン国王陛下…?」と尋ねると、ゆっくりと彼の左手だけが意思をもったかのように動き、兵士を促した。
震えた声で「兵と、鐘を…」と命じられた兵達が礼をしてすぐ足早に駆けていく中、彼はパタリと下ろした左手をソファーの淵に垂らした。
「っ………れた…?…」
ぽつり、と声が聞こえた気がした。
口の中だけで殆ど消えて誰も聞き取れなかった。もう一度、彼の名を呼ぶとさらりとした白髪を流しながら、私の方へと顔を向けた。
ヨアン国王は、何故か食い入るように私を見つめていた。そして、数秒経った後は透き通るような白い肌がみるみるうちに紅潮し、喉を鳴らし出した。開けたままだった口が食い縛るように閉じられ、細縁の眼鏡が僅かに曇った。蒸気で曇らされたそれに気づいた瞬間、ヨアン国王の目に涙が溜まっているのに気づく。
次第に眼鏡の奥から頬に伝う涙がそのまま溢れ、金色の瞳が潤んで光った。
「…、………っっ‼︎」
「⁈ヨアン国王陛下っ…⁈」
突然ソファーから立ち上がった彼に、私はその場から手を伸ばす。足が動かない為、寸前で届かずに彼の背を追いながら空を切った。ヨアン国王はまるで発作でも起こしたかのように窓の方へと早足に駆け出した。兵士が念の為に彼の傍に付き、控えた。既に沈みかけた太陽と城下が合わさる光景を前に、彼の目から更に涙が溢れ出した。
割れた窓から風が吹き抜け彼の白髪を撫で、揺らす。
まるで、何かが見えているかのように窓の外へと手を伸ばし、そのまま空を切った手を、窓枠へと彼は強くかけた。
「ッ……ンスっ…!……リッ……‼︎」
上半身を乗り出す勢いで、窓の外を覗き込む彼は詰まらせた喉で何かを喘ぐ。誰かを探すかのように城下を見回し、激しく振られた顔から涙が雫となって溢れた。
ヨアン国王陛下、ともう一度呼ぼうとして今度はやめた。
…きっと、彼が一番勝利を信じられていなかった。
騎士団長の報告を聞く前から、恐らくずっと。
当然だ。彼は、つい二日前まで完全に諦めてしまっていたのだから。
ランス国王の回復とセドリックの言葉に動かされ、国民の前で立ち上がることを決めてくれた彼だけど…、…そんな簡単に心の整理や切り替えがつくわけじゃない。
まだ、彼は国王になって二年しか経っていないのだから。
いま考えれば、私との血の誓いも単に彼を追い詰めただけだったのかもしれない。
それでも彼は立ち上がり、自国を属州にしてしまう恐怖と戦い続けてくれた。
ずっとこの城で、変わり続けていく戦況を見つめ続け、…更には親友のランス国王や弟同然のセドリック王子まで戦場に出てしまった。
恐くなかった訳がない、辛くなかった訳がない、疑わなかった訳がない。…城を飛び出したくならなかった訳がない。
一人だけ、ずっと。…ずっと。
きっと、私達以上に気の遠くなる時間だったのだろう。
それでも、国王としてこの城で耐え続けてくれた。
言葉にならず、国王としての一つの重責から解放された彼が、震える両手を固く組み始めた。
窓枠に両肘をかけ、祈る手の下に自身の頭をくぐらすようにして俯いた。…神に祈っているのだと、私でもわかった。
組ませた手が震え、涙を零し続ける目を強く閉じ、中性的に整った顔を酷く歪ませていた。
力強く強張らせたその顔は、今まで見た中で一番男性的な表情だった。歯を食い縛ったその唇からは風の音で掻き消されてしまうほどに小さく微かで、至近距離にいた兵士達の耳にも届いてはいないようだった。
彼のその肩に触れられないのが、寄り添えないこの足がもどかしい。
…でも、同時に触れてはいけない気もした。国王と単なる第一王女という立場の差だけではない。
窓の外から神に祈る国王の姿はそれほどまでに神聖で、あまりにも神々しかったから。
フリージア王国は、…信仰がそこまで強くはない。王族の予知能力を始めとして、特殊能力を神の啓示と謳いはするけれど、チャイネンシス王国のように宗教的な信仰や風習は殆どない。
でも、今だけは少し…私も彼に倣うように手を結んだ。祈りはしない、でも願う。神に祈り続ける国王の背中を見つめ続けながら、ひたすらに。
この国の神が、どうかこれからも彼らと在りますように。
彼の支えになり続けてくれた存在が、どうかこれからも潰えませんように。
ー ガラァンッ…ァン…ガラァン…
暫く経ってから、突然鐘の音が響き渡った。何かに応えるかのような強い鐘の音に私達は顔を上げ、その美しい音色に耳を澄ました。
荘厳さに鈴のような軽やかさも併せ持つ鐘の音に肌を震わせた。
チャイネンシス王国の城に併設された教会の鐘だ。先程のヨアン国王の指示で兵達が鳴らしたのだろう。
窓の前で身動ぎ一つしなかったヨアン国王の背が、酷く震え出した。まるで本当に神の声が聞こえたかのように肩を竦め、祈る手が遠目から見てもわかるほど強く握りしめられていた。鐘の音に紛れて嗚咽のような声も聞こえ、どれほど彼がこの瞬間を望み、…叶わないと諦めていたのかがよくわかる。
国一番の教会が、国一番の鐘を鳴らす。
戦争の終結を皆に報せるその為に。
…まるで、高らかに自由を歌っているかのように。
勝利の報せを聞いた各陣営がチャイネンシス王国の城に集結し終えたのは、鐘の音が止み、完全に日が沈んだ後だった。