212.交渉王子は思っていた。
…帰りたいと、心から乞い願う。
ただひたすらに満ち足りていた、あの時に。
「セドリック‼︎また教師から逃げ出したな⁈」
国王に去年即位したばかりの兄貴が、庭の木で昼寝をする俺に下から怒鳴り散らす。俺と同じ金色の髪を前髪ごとビッシリと後ろに流した頭を上げ、鋭い焔色の眼差しを俺に向けている。
「フン!俺様には必要ない、勉学などせずとも俺様はこの存在だけで充分に価値がある。」
俺が鼻歌交じりにいつもの返事を返せば、兄貴が俺の木を思い切り蹴飛ばしてきた。ドン、という振動と共に突然木が揺れ出し、思わず目の前の枝にしがみつく。
「ッなにをする!木から落ちてこの俺が怪我でもしたら」
「いっそ怪我でもして部屋で大人しくしていろ馬鹿者‼︎そうすれば良い歳した王子に教師が逃げられる心配もなくなる!」
「俺様のこの端整な顔に傷がついたらどうするつもりだッ⁈」
知るかさっさと降りて来い!と怒鳴る兄貴に仕方なく身を起こす。
よく見れば宰相のダリオまで騒ぎを聞き付けて兄貴の背後に控えていた。昔は遺恨が残っていたが、それ以上に何度も俺に詫びてくれた、人の良い宰相だった。俺に詫び続けた数が千を越えた時から、心は開かぬまでもあの時のことを今は許せるようになった。
このまま飛び降りても良いが、兄貴に捕まれば再び教師のもとまで引き摺られてしまう。枝から立ち上がり、少し上の位置にある城の窓へ手を伸ばす。少し遠いが、飛び上がればなんとか届くだろう。そう考えている間も兄貴が「逃げるな‼︎」と俺を下から再び怒鳴った。やはり多少無茶してでも逃げた方が良さそうだ。
「はい、掴まって。…あまり無理をしてはいけないよ。」
突然窓から手を伸ばされる。
見上げれば白い髪をさらりと揺らした男が細縁の眼鏡越しに金色の瞳を向けて俺に笑い掛けていた。
ヨアン・リンネ・ドワイト。
同年の兄貴と違って線も細く中性的な顔立ちのせいで一見優男にも見られるが、我がハナズオ連合王国の片翼であるチャイネンシス王国の国王だ。
「流石、兄さんは兄貴と違って話がわかる。」
ヨアン…兄さんの手に掴まり、そのまま飛び上がって窓から城の中へと入り込む。
「ヨアン‼︎セドリックを甘やかすな‼︎」
兄貴の怒鳴り声が、窓から追うように追撃された。慣れた様子で兄さんが窓を閉める。同時に兄貴の怒声がくぐもり、窓がパタンと音を立てた。
「セドリック。あまりランスを困らせ過ぎてはいけないよ。まだ国王の仕事も慣れてきたばかりなんだから。」
にこにこと笑いながら俺を窘める兄さんに、生返事を返しながら俺は近くの椅子に腰掛ける。
「兄貴は大袈裟過ぎるんだ。俺様は勉強などせずともこの美しさがあれば充分だというのに。」
「セドリック、君ももう十七になるのだから。…それに、もう勉学を避ける理由もないだろう?」
柔らかい声で諭され、思わず黙り込む。兄さんは、俺が勉学を避ける理由をずっと前から知っている。
父上と母上に育てられた覚えのない俺にとって、兄貴と兄さんだけが俺の唯一の理解者であり、家族だ。
兄貴が王位を継承してからは、前王の父上と母上は歴代の王と同じく表舞台から退いた。もともと育てられたことどころか干渉されたことすらない放任の両親に情はない。国内に身分を隠して滞在しているが、居場所を知るのは国王の兄貴のみ。そして、…恐らくもう会うことはないだろう。婚姻どころか例え俺達が死んでも式に参列はしない。己が公務にしか興味の無かったあの人達と俺達は、それほどまでに血の繋がっただけの他人だった。
兄貴が俺の面倒を見てくれるようになってから十三年。
兄貴の友になった兄さんが、時折俺の面倒を見てくれるようになってから九年。
あの時のことは一度だって忘れたことはない。
兄貴と兄さんが居たから、俺は今こうして在れる。
兄貴も、兄さんも、そして俺も自分の今の立場に心から満足している。
このままで居続けられれば、ずっと俺達は笑っていられる。
「せめてマナーや教養だけでも学んでみたらどうかな?今は国内だけだけど、その内ランスが国を開いたら国外でも社交界に関わる機会も増えるだろう。その時に恥をかかないように…」
「必要ないな。俺様が歩けば誰もが目を奪われ跪く。この美貌さえあれば何をやっても許される!」
兄さんの言葉を、いつもの言葉で搔き消す。
兄貴と兄さんは、将来的にハナズオ連合王国に国外の交流も増やして行こうとしている。
いつまでも閉篭もる訳にはいかない、世界の情勢は変わり続けていると昔から兄貴は俺達に言っていた。
「セドリック…それは君が国内しか知らないからだよ。国外に出れば、君が礼儀を尽くさなければならない相手も必ず居る。…僕やランスより偉い人にもね。」
「兄貴と兄さんは国王だろう?ならば、あっても対等だ。なに、心配はない。そんな相手がいれば笑みくらいはくれてやる。」
誰でも俺が笑めば喜び、女は頬を紅潮させる。マナーなど所詮は上の相手がいればこそだ。
「そういうことばかり言うから…。」
兄さんは溜息混じりに呟くと、困ったように眉を下げながらふと扉の方を見た。気がつけばドタドタと不穏な足音が近づいてくる。
「やっぱり、もう少しキツく言った方が良さそうだ。」
数歩下がり、手を掛けると扉を小さく開けた。キィ…と軽い金具の音とほぼ同時に「ここかッ⁈」と雄雄しい声が轟いた。
「セドリック‼︎今日こそ本当に机に縛り付けるぞ‼︎」
パタン!と兄貴が部屋に乗り込んでくる。鼻息荒く駆け込んできて、もう一度窓から逃げようとしたら既に進路を阻むように兄さんが俺の前に立ち塞がっていた。
「大体お前は!昔から俺が追いかけてもヨアンが説いても‼︎いい加減に俺もヨアンもお前の面倒ばかりは見れないぞ⁈」
「見なくて良い‼︎兄貴達こそ公務はどうした‼︎国王はそんなに暇なものなのか⁈」
「お前が大人しく学べばこんなことをする必要はない‼︎」
忙しいのがわかってるなら手間をかけさせるな馬鹿者!と兄貴に頭を掴まれる。やめろ髪が乱れると怒鳴れば更に強く髪を乱された。
俺が暴れた拍子に兄貴の服下に隠したペンダントが一瞬こぼれた。すかさず兄さんが慣れた手つきで兄貴の服の隙間にそれを放り込む。
兄貴が好きだ。
「セドリック、ランスも君を心配しているんだよ。そのままじゃ将来的に摂政や宰相すら任せられないからね。」
「必要ない!摂政と宰相ならばファーガスとダリオがいるだろう⁈俺は俺であるだけで充分に価値がっ…」
「そういう子どもみたいな考えから改めないと。今は若くて美男子でも五十年後にはどうするつもりだい?」
「俺は五十年後も美しいに決まってる‼︎」
「人には老化というものがあるんだよ。」
そんなことは知っている‼︎と俺が叫ぶと兄さんは溜息混じりに兄貴へ合図をするように頷いた。
次の瞬間、背後から思い切り兄貴に腕ごと使って首を締め上げられる。俺が命の危険を感じ、負けを認めて教師のもとへ戻ると声を漏らすとやっと解放された。
「神の名の下に誓えるかい?」
クスッと笑いながら兄さんが俺と兄貴の様子を眺める。そのままテーブルに寄り掛かり、首元のクロスのペンダントを握って見せた。
「神が俺様より美しかったら誓ってやる!」
兄貴の首絞めからの八つ当たりに兄さんへ怒鳴りつける。すると、兄さんは笑顔を壊さないまま俺の両頬を左右に引っ張った。「神を冒涜しちゃいけないよ」と柔らかく言われ、何度も頷いてやっと許された。
兄さんが治めるチャイネンシス王国は、我が国と違って信仰深い国だ。神に祈り、歌い、そして感謝する。連合国となりながらも、互いの国としての形をそのまま残しているのも、サーシス王国とチャイネンシス王国との文化の違いが激しかったことが大きい。
文化も信仰も何もかもが違う二国だが、昔コペランディ王国からの侵略を受け、自らを守る為に昔から争い合っていた隣国同士が統合し、一つの国となってその侵略を退けたのは百六年前の話だ。
チャイネンシス王国の国王である兄さんも信心深く、俺や兄貴も子どもの時からチャイネンシス王国に訪れる度に何度も兄さんが祈る姿やその行事を目にして来た。
俺も兄貴も、神だの祈りだのは未だ信じられないが…神に国の平和を祈り続ける兄さんの姿は嫌いじゃなかった。
「セドリック。…もう、…大丈夫だから。」
教師の待つ部屋に戻る直前、また逃げないようにと俺に付き添った兄さんがそう声を掛けた。
苦笑にも見えるその笑みは、金色の瞳だけが柔らかく微笑んでいた。
「………わかってる。」
兄さんから目を逸らし、そのまま俺も部屋に戻った。
兄さんが、好きだ。
兄貴と兄さん。
この二人が幸福なら、それで良い。
子どもの頃から俺の傍に居てくれたのは…守ってくれたのはこの二人だけだった。
このままで良い。
ずっとこのまま国は良い方向に回っていく。
そう、思っていた。
我が国にコペランディ王国の使者が足を踏み入れてきた、あの時迄は。