210.騎士と義弟は許し許さない。
「…なるほど、そういうことか。」
日が沈みきった夜更け。
カタン、と比較的真新しい椅子を足で鳴らしながらステイルは呟いた。
「俺も、まさか二日前の今日で姉君がセドリック第二王子を連れ歩くとは思わなかったが。」
腕を組み、唸るように呟く。
「…取り敢えず、…プライド様はセドリック第二王子のこと、まだ警戒してるみてぇだったが。…それでも」
『世界で一番貴方を嫌う私が、貴方の味方になってあげる』
「…やっぱ、突き放しきれねぇンだな。プライド様。」
プライドがセドリックに放った言葉を思い出し、アーサーは手の中のグラスを軽く傾けた。
ステイルが掛けている椅子とは別に、書き物用の机の前にある背凭れのない椅子に腰を降ろし、向かい合うようにしてステイルの方へ身体を向けた。
副隊長に就任してから部屋も変わり、ふた回り大きな部屋に移された。もともと、必要最低限の物以外置かないアーサーの荷は少なく、部屋を引っ越してからはガランと余計に私物が少なく見えた。
夜中、いつも通り摂政業務を終えたステイルは自室に戻ってからアーサーの部屋に訪れていた。
今朝からプライドがセドリックを連れた理由を、プライドの口からだけでなく傍に居たアーサーにも聞く為に。
「姉君はそういう人だ、それはわかっていた。……わかっていた、六年前から。」
六年前。
罪人のヴァルを隷属の契約に処し、助けを求める時は自分の元へ来るようにと命じた、あの時から。
彼女が、どんな相手であろうとも手を差し伸ばしてしまうのは。
「それでも、…姉君が許せないことが全く無い訳でもない。」
ステイルは自分に言い聞かせるように口にし、無意識に己の黒髪をかきあげた。
一年前にプライドがレオンを嵌めた弟王子二人を許せず、苦しんでしまったことを彼は知っている。
「あァ。…単に、俺がきっと許したくなかっただけだ。」
プライドに暴力を振るい、そして心優しい彼女を泣かせた。その事実だけがアーサーの中には未だに渦巻いている。
ステイルもアーサーの言葉からそれを察し、目だけで返事をした。ステイル自身、そのことは今も根に持っている。
「別に許す必要はない。…お前は、特に。」
「アァ?」
ステイルの言葉にアーサーは首を捻った。なんで俺が特になんだよ、と返しながらゴクリと一口でグラスの中身を飲み切った。
だが、ステイルは疑問には答えず「それよりも」と言葉を続けた。
アーサーは未だに自分宛の料理をセドリックが摘み食いしたことを知らない。今アーサーにそれを言ったら、セドリックへの殺気を彼が隠し切れないだろうという確信がステイルにはあった。
「姉君は、ちゃんとカラム隊長にも念を押してセドリック第二王子を迎えたんだな?」
ステイルの言葉にアーサーは一言肯定する。
「…でも、カラム隊長は一度も止めなかった。……俺もだ。」
視線を何処へもなく宙へ浮かし、独り言のようにアーサーは最後に呟いた。
あの時、プライドを止めようとすれば止められた。セドリックをプライドが押し倒した時に引き剥がそうとすればできた。それでも
止めようとは、思えなかった。
セドリックとプライドの姿を目の当たりにしたあの時、確かに自分は思ってしまった。
彼を、助けたいと。
彼がやったことは許せない。そして許されるべきことではない。自分達にとって、国にとって大事な人に無礼を働き、力を行使したのだから。
それでも、それとは別に。
許す、許さないとは違う次元がそこにあった。
ただ目の前で苦しみ、打ち拉がれた人に自分も手を差し伸べたいと思ってしまった。
「あの人の…プライド様の影響かもな。」
情けねぇ、許したくねぇ筈なのにと呟くアーサーはそのまま脱力するように天井を仰ぎ、背中を逸らした。その様子を無言で眺めながらステイルは考え、そして一言アーサーに返した。
「いや、お前は昔からそういう人間だよ。…昔から。」
俺と違って、と口の中だけで唱えたステイルは仄かに笑った。その笑みにアーサーが「そうか?」と疑問を投げかける。ステイルの笑み自体はアーサーには大分見慣れたものになっていた。
ステイルは伸びをするように椅子から立ち上がると、ついでのような口調ではっきりと言い放つ。
「別に良いぞ、お前もティアラも…姉君も。例えその中の誰が許そうと俺一人だけは許さない。ただそれだけだ。」
伸びきった背から力を抜くように息を吐くと、ステイルは適当に椅子に座り直した。足を組み、さっきより大分気楽な様子だった。
「昔から俺の意思は変わらない。姉君にはこれからも許すべきことでないことを俺は何度でも言葉で示す。…だが、最後に決めるのは姉君だ。」
勿論、お前もな。と人差し指をアーサーの脳天に向かい、撃つようにして指し示した。
「姉君も、ティアラもお前もそういう人間だ。…そういう人間は、なろうとしてなれるものじゃない。」
正直、そんな三人が羨ましいと言えば嘘ではない。
ただ、自分は決めた。九年前、確かに。
例え自分が黒に染まっても、純白なプライドだけは汚させないと。
「ジルベールもヴァルも、そしてセドリック第二王子も、俺だけは一生その罪だけは許しはしない。それがずっと昔からの俺の役目だ。」
眼鏡の位置を指先で直し、カチャリと音を立てた。自嘲は無い。むしろ、自分にしかできない役割だと思えば少し誇らしい。
「…すげぇな、お前は。」
そんなステイルの姿に、気がつけば声が出ていた。純粋な、嘘偽りない感想だ。ステイルが、何処までも真っ直ぐで心優しく在れるアーサー達が羨ましいように、アーサーもまたステイルのその芯のある強さが羨ましい。
横の机に片肘を置き、そのまま頬杖をついてステイルを眺めた。突然の褒め言葉にステイルは照れ臭さを隠すように眼鏡の黒縁を指で押さえた。
「流石、プライド様を支える次期摂政。」
ステイルが照れたことに気づいたアーサーが、少しからかうように本音を言う。だが、それに関しては照れる様子もなく「当然のことを言うな」と返し、ステイルは逆にアーサーに言葉を放った。
「お前だって姉君を守る近衛騎士だろう。」
ステイルの言葉にアーサーは軽く手を振った。お前ほどじゃねぇよ、とでも言いたげに。
「今の近衛騎士は俺だけじゃねぇ、四人も居る。お前みてぇな唯一無二の存在じゃねぇだろォが。」
騎士を軽んじている訳でも、近衛騎士が増えた事が不満なわけでもない。むしろ何より誇らしく、そして心強い。それでも、アーサーにとってステイルの在り方もまた眩しかった。
「二日前、セドリック第二王子ンとこ行く時もプライド様はお前の休息時間待ってたろォが。」
そんだけ必要とされてんだよ、と零すアーサーは少し自慢げにステイルを見た。摂政業務に携わってから離れる時間は増えたが、それでも変わらずプライドに頼られるステイルがアーサーには誇らしい。
「?なんだ、お前知らないのか。」
不意に、ステイルの目が丸くなった。言葉の意を汲む事ができず、小首を傾げながらアーサーは手前の水差しを手に取った。そのまま気を取り直すように空になったグラスへ水差しを傾ける。アーサーが答えを待っているのを察したステイルが、少し溜息混じりに改めて口を開いた。
「あの時、俺が午前の間に休息時間を取ったのはお前が近衛騎士の任をする時間帯だったから、…姉君からの希望だ。」
ザバァァァア…
アーサーの傾けた水差しの中身が勢い良くグラスを満たし、更にはそのまま溢れ出した。
おい、溢れているぞとステイルが声を掛けるが、アーサーは手が止まったまま瞬きすることすら忘れていた。思考が追いつかず、口も開いたままその目はステイルへ釘付けになっている。
「…アァ?」
「お前も姉君にとって特別で、必要とされていると言っているんだ馬鹿。」
仕方なく立ち上がり、ポカンとしたままのアーサーの横に瞬間移動する。そのまま水差しを変わらず傾けたままのアーサーから水差しを回収した。
ステイルに「わりぃ」と零しながら、やっと意識を取り戻したアーサーが机から更に自分の足元まで水が溢れていたことに気がつく。アーサーは足元に溜まった水を急いで手近な布で拭き取りながら、ふと今日のプライドの言葉を思い出す。
『傍に居て下さい』
「っっっ〜〜〜〜〜‼︎‼︎」
嬉しい、と。
まるでスイッチが切り替わったようにあの時の喜びが急激に噴き出した。
床の水を拭き取るままに顔を俯かせたまま、赤々と帯びていく顔の熱を抑えきれなかった。
傍に居て欲しいと、言ってくれた。
守るだけではなく、ただ傍にいるだけでもあの人の力になれるのだと。
そして、カラム隊長やアラン隊長、エリック副隊長という優秀な近衛騎士がいる中で、自分をわざわざ選んでくれた。
それだけじゃない、〝あの〟頼み事だってそうだ。
考えれば考えるほど、アーサーは嬉しくて堪らなかった。
拭き取り終えた後、水を含んだ布を片手にアーサーは立ち上がる。口元を隠し、俯き気味に誤魔化してはみるものの完全に顔は赤く火照っていた。
「…っとに、プライド様…ずりぃ。」
「知ってる。」
アーサーのあてようのない嘆きに、ステイルは笑いながら一言返した。
そのまま窓を開けて布を絞るアーサーを横目に、満足気に微笑んだ。「そろそろ俺は戻る。取り敢えずセドリック第二王子には変わらず目は光らせておけ」とアーサーに声を掛けると、忘れ物がないかを確認するように辺りを見回した。すると、唐突に窓を閉めたアーサーが「ステイル」と軽く声を掛けた。何だ、と顔だけを向けて振り返れば、まだ赤みも抜けぬままに歯を見せて自分へ笑いかけるアーサーがそこにいた。
「俺も、頼りにしてっから。」
相棒。と最後に付け加えるように笑まれて、思わずステイルは口元が綻ぶのを隠した。
「……それも、知ってる。」
眼鏡の縁を指で強く押さえ、顔ごと隠すように前を向き、ステイルはそのまま瞬間移動をした。
見慣れた自室に戻り、暫くは腰を落ち着けずにその場に佇み、窓の外を見上げた。
月がちょうど雲から顔を出そうと光を漏らしていた。
「…守ってみせる。」
…人を許すのは並大抵のことではない。
そして、許さないで居続けることも…時には酷く重苦しい。
だが、それでも俺はそうであり続ける。
プライドを、守る為に。
アーサーができないことは俺がやる。
俺ができないことをアーサーが、やってくれているように。
六年前の約束から、それは変わらない。
プライドが今もまだ純白で在り続けてくれるなら、俺がその分黒く染まろう。
彼女が許す者も、信じる者も、手を差し伸べる者も、俺だけは許さない。
彼女が〝優しさ〟を、俺が〝厳しさ〟を。
「…取り敢えず、絶対にプライドを泣かせたことだけは引導を渡す。」
息を吐き切りながらやっとベッドに腰を下ろす。ボフッ、と音を立ててそのまま倒れ込むようにして身体を預けた。
「あとはプライドへ乱暴な行為に口付けをしようとしたことか…」
指折り数えながら、ふと気がついて眼鏡を取った。机の上に移動させ、それから目を瞑る。口に出しただけで、再びその時の怒りが沸き出してきた。
正直、私情も入れればアーサーへの昇進祝いを台無しにしたことや、プライドと共に料理したティアラの頑張りを無駄にしたこと、プライドに手を差し伸べられたこと、更には謝罪程度でプライドとの仲を修復しようとしたこと、プライドに手を引かれて謁見の間に訪れたこと、その全てが腹立たしい。
それに、今日のプライドによる騎士団の演説。あの時に、セドリック第二王子からの問いに答えた俺へ、一人呟いた言葉を思い出すと怒りとは別に何やら胸がムカムカする。
『美しい人だな』
高台の下でプライドを待った俺との問答後、セドリック第二王子が口にした言葉だ。
騎士達に喝采を浴びたプライドに、奴はそう呟いた。
二日前、プライドに許しを乞う様子から見ても妙に嫌な予感がした。だからこそ間に入り、プライドにも許すなと釘を刺した。なのに今日は手を引かれ、そしてプライドに聞かせる訳でもなく呟くようにプライドをそう評した。
何故、プライドが褒められたというのにこんなに腹立たしいのか。それはわからない。
ただ、一つ。確信をもって言えるのは…
「俺は絶対に許さない。」
一人そう呟き、最後にステイルはベッドに潜った。
それが、セドリックの今までの行いに関しての言葉なのか。それとも、少なからず垣間見えた気がする彼の感情に対する言葉なのか。
そこまで考え、ぐっと力を込めて目を閉じる。自分の中に波打つ荒い感情を抑えつけるように別の事を考え始める。
自分にとって、なによりも心落ち着けるのは…
『秘密でお願いがあるのだけれど…』
「〜〜っ…。」
しまった…プライドのことを思い出そうとしたら逆に心臓が脈打ってしまった。
…あの時は、彼女の吐息に耳が擽られ、思考が真っ白になった。
あんな不意打ちで、間近に彼女の声に、…息に触れることになるとは。
プライドがあの男の手を引いて来た時は、またセドリック第二王子が近づいたのだと腹立たしくも思った。奴の事情を聞いた時もその苛立ちは残留したままだった。…というのに。
…また、話してくれた。頼ってくれた。
しかも今度は隠さず、すぐに。
その事実だけがこんなにも容易に心を満たし、温めてしまう。
「……大丈夫だ。」
速くなった胸の高鳴りが、また少しずつ緩やかになっていく。
鼓動の感触が、それだけで蟠った腹の内側を心地良く吐き切らせてくれる。
強く閉じた瞼の力を緩める。
一度、自然と深呼吸してしまえば嘘のように微睡んでいった。
いまプライドは、俺達の近くにいる。
だから、俺もアーサーも安心して構えていられる。
…だから、こうして在れる。
プライドの為なら、なんでもできる。