204.非道王女は目を疑う。
「…どういうこと?突然帰国するだなんて。」
私の部屋に入ってきた彼は、既にその表情を酷く歪めていた。俯き、重い足取りで私の前に立ち、歯を食いしばっていた。
「っ。…すまない…頼む、一度ハナズオに帰らせてくれ…‼︎」
「なりません。そんなことをしたら同盟がどうなるか、貴方だってわかっているでしょう?」
彼の言葉をはっきりと切る。私の言葉に彼が握り締めた書状がグシャリと音を立てた。それでも、と彼が言葉を漏らし、そして再び声を張り上げた。
「ッ俺はっ…帰らなければならないんだ…‼︎」
絞り出すような、声だった。下を向いて激しく首を横に一度振った彼が、私の方へ顔を上げれば既にその瞳の焔が揺らいでいた。
「……何があったの?」
尋常でない彼の様子に、思わず口の中を飲み込む。彼は何か言い澱むようにそれ以上は口を噤み、言おうとはしなかった。また、彼は何かを隠してる。
「…我が国との同盟は、どうするの。」
質問を変える。彼にどういう理由があれ、同盟交渉の途中で帰るなんて許されない。
セドリックは並びの綺麗な白い歯をギリッと鳴らし、強く目を瞑った。数秒の沈黙の後、彼は無理に動かすように口を開く。
「ッ…同盟はっ…、…今回は、白紙に戻して頂いて構わない。これから女王陛下にも、謝罪を」
「馬鹿なのッ⁈」
思わずまた声を張り上げる。
しまった、また暴言を吐いてしまった。もうやだこの人。
理由はわからないけど、何故同盟を白紙に⁈それが今、どういう事態を招くのかわかっていない訳がないのに‼︎
私の暴言に彼は何も反応をせず、目を瞑ったまま「すまないっ…」としか返さなかった。すまないなんかじゃ済まされない。これは彼だけの問題ではない。国と、多くの民が関わっている問題なのだから。怒りのままに私は彼の肩へ両手を伸ばし、掴んで揺らす。
「ふざけないで‼︎貴方個人の判断だけで許される事態じゃないの!ハナズオ連合王国を助けたいんでしょう⁈」
彼の耳が壊れるほどに至近距離で怒鳴り散らす。でも彼は私にされるがままに揺らされ、顔を俯けた。
「頼むっ…我が国へ帰らせてくれッ…今俺が帰らないとっ…!」
「勝手に飛び出して来て今更なにを言ってるの‼︎大体貴方の国ならちゃんとお兄様が」
「ッ兄貴が‼︎‼︎」
…堪らないかのように、今度は彼が声を跳ね上げた。
そこで私はやっと我にかえる。
気づけば掴んだ彼の肩は微かに震え、俯かせた彼の顔は、食い縛らせた歯を剥き出しに耳まで赤くなっていた。声を張り上げた直後、彼の肩が目に見えて震え出し、更には喉を震わす音もはっきりと聞こえた。
何を、やっていたんだろう私は。
我に返った途端に、自分が恥ずかしくなる。彼が本当はどんな人間か、前世のゲームをやっていた私が一番わかっていた筈なのに。彼が、自分勝手な理由で折角の同盟を放り投げる訳がない。
「……どうしたの?」
そっと、自分自身を落ち着けるように声を抑える。
私の問いに、彼はまだ声が出せないかのように首を横に振った。言えない、と全身からそれを私に訴え掛けている。
「帰らせてくれっ…頼む…!」
ただ、ひたすらに許しを乞う。…何か、国からの重要な話なのだろうか。彼の手に握られた書状がきっと、その全てだろう。国の機密情報なら、彼が私やフリージアの人間に言えないのは当然だろう。でも駄目だ、このまま同盟が駄目になってしまえば取り返しのつかないことになってしまう。
「駄目です、ちゃんと事情を話して下さい!」
「ッ‼︎」
私が断ると彼は次の瞬間、突然私の方へ手を伸ばしてきた。両肩を掴む私を引き離そうとしたのか、逆に私の両肩へその手を勢い良く伸ばし、
…直前で、止まった。
本当に、寸前だった。いつの間にかアーサーとカラム隊長が私の直ぐ後ろまで飛び出してきてくれていた。 セドリックの両手が止まったことで二人も同時に動きを止めた。
まるで、隷属の契約をしたかのような不自然な動きだった。一体どうしたのだろう、彼はそのまま私に伸ばした手でぎゅっ、と拳を握り、ゆっくりと降ろした。
『もう、お前には断りなく触れない。』
ふと、昨日の彼の言葉を思い出す。そうだ、彼は私にそう言ってくれた。…そして、今それをちゃんと守ってくれた。
俯いたままの彼がどんな顔をしているか、想像がついて胸が痛くなった。
きっと、彼は今なにかを抱えている。そしてそれを一人で背負おうとしている。
前世のゲームの中と、同じように。
「…セドリック。私は貴方が嫌いです、許してもいません。…許す訳にもいきません。」
彼の肩からゆっくりと両手を離し、俯く彼に語り掛ける。彼が小さな声で「ああ…」と私に返した。
「…でも、貴方の力にはなれる。」
彼の顔が俯いたまま、少し浮き上がった。息を飲み、私の言葉に耳を傾けてくれているのがわかった。
「約束するわ、セドリック。貴方が言うなと望むなら、私からは誰にも言わない。この場にいる人間しか知り得ない、そして言わない。…だから、話して。」
今度は彼は首を振らなかった。悩んでくれている、さっきよりも…少し話そうかと考えてくれている。
もう一度、私は彼に届くようにと言葉を重ねる。
「セドリック。私もハナズオ連合王国を…チャイネンシス王国を助けたいと」
「ッ間に合わないんだ…‼︎」
…吐き出すような、泣き叫ぶかのような声だった。
彼の叫びに私の言葉が打ち消されてしまう。でも、そんなことどうでも良いくらい彼の声が悲痛だった。
再び私へ顔を上げた彼の両目には既に涙が溜まり、溢れていた。涙を堪えようとしたかのように歯を食い縛り、顔を真っ赤にしていた。
「兄貴がっ…兄さんが…‼︎もう、…止められないっ…‼︎」
叫びが、想いが先行するように口から溢れ、呼応するようにぐしゃぐしゃの彼の顔から、目から、大粒の涙が溢れて床に滴った。
「だめだっ…もう…‼︎…兄貴、兄貴を、俺のせいでっ…兄さんまでっ…!」
言葉にした途端、パニックを起こしたように彼がボロボロと吐露していく。単語ばかりで、何を言いたいのかもわからない。でも、泣きながら、身体を震わせながら、堪えながら話す彼は確かに
〝助けて〟と、言っている気がして。
「お願い。ちゃんと話して。」
落ち着かせるように彼の腕を掴み、訴える。彼は既に感情に呑まれてしまったかのように喉を詰まらせ、呻いていた。頭を抱え、私に握られたもう片手に握られていた書状を震わせながら差し出してきた。…読んで良い、ということなのだろうか。
グシャリと握り潰された書状を受け取り、破かないように気をつけて開く。その間にも彼は両腕で頭を抱え前屈みのまま、今にも崩れ落ちそうなのを必死に堪えていた。その口から、もう歯止めが効かないように「俺が、…俺の、せいでっ…兄貴…‼︎」と噛み締めるような声が溢れていた。
しわくちゃの書状。恐らく先ほど届いたばかりのものだろう。手紙の日付は十日前のものだった。差出人はサーシス王国の摂政だ。てっきり彼の言葉から、彼の兄である国王からの書状かと思ったけれど…。
書状は急いで書かれたらしく、その丁寧な文字からも焦りの色が滲み出ていた。そして私はその書状の文面を見て、自分の目を疑った。十日前の日付が記されたそこには、短い文章からは飲み込みきれないほどの異常事態が書き込まれていた。
コペランディ王国の使者より期間を九日繰り上げ、チャイネンシス王国へ侵攻するという通告。
二日前にランス・シルバ・ローウェル国王が突然の乱心。
本日、チャイネンシス王国がサーシス王国との同盟を破棄、全面降伏の意思を固める、と。
どれも衝撃的過ぎて私の頭がうまく追いつかない。目が文面に釘付けのまま離れない。
でも、何よりいま…私が信じられないのは
「なんでっ…?」
思わず言葉が零れる。
おかしい、こんなの。何故、こんな風に全てがずれてしまったのか。だってそもそも
セドリックが我が国に助けを求めに来るのは、チャイネンシス王国に同盟を破棄された〝後〟だった筈なのに。