五、目覚め
「ん……」
瞼を開けた。
ぼやけた視界が、だんだん輪郭を捉え始める。
目の前に広がるのは、丸く黒いシミとそれを覆うような曲線――木目だろうか。
天井、かもしれない。
首を動かす。
締め切られた障子。紙の向こうから、外の光が入ってきていた。
床は畳で、いぐさの香りが鼻を抜ける。
清潔感のある布団には、良さげな旅館でしかお目にかかれないシーツ。肌と擦れても、不快感は全くなかった。
障子の向こうから、なんとなく音がする。人の歩く、均整のとれたリズム。鳥の軽やかな声。ちょろちょろと流れる水。
少しずつ、自分のいる場所を把握した。
多分ここは誰かの家だ。
そして俺は、ここに泊まっている――?
「……っ、頭、いた」
掠れた声でつぶやく。
頭蓋骨の裏から、誰かが頭をたたいてくるような。押さえて左側を下にし、体を丸めた。
額に汗がうかぶ。
眉間にしわが刻まれる。
考えようにも、痛みが邪魔をして、それどころじゃなかった。
畳を通して、枕をすり抜け、誰かの足音が伝わる。
目を上げる。それは、こちらに近づいていた。どんどん音が大きくなっていく。
呼吸が浅くなる。鼓動が、わずかに速くなる。それに合わせるように、痛みも襲う。
「失礼します」
静かな声だった、森を流れる小川のような。
障子が開く。
その人は桶を持っていた。中にはタオルが数枚入っている。
黒い外套を見にまとい、フードを深く被っていた。ゆかり色の短い髪が揺れる。
目がぶつかった。
一瞬固まる。そうして、彼女の顔色が変わってゆく。
「えっ、あっ、だっ、だいっ、へぇ……っ!」
その人は膝をつき、桶を床に置いた。行き場のない彼女の手が、わなわなと揺れている。
痛みはまだ止まない。汗も止まらない。とりあえず、こういう時はアレがいる。アレさえあれば――
喉を絞った。
「み、水……」
願うように向こうを見る。
彼女の動きは一度止まって、
「――水ですね!」
膝がはなれた。彼女の走る音が耳に入った。
◇
ピッチャーと、予備のグラス。
その横に、彼女は鎮座していた。
時々、こちらに視線を投げる。どこか探っているみたいだった。
まじまじ見るのは気が引ける。かといって、様子を見ない訳にもいかない。先ほど、自分は目を覚ましたのだから。
(わかるけど、でも、居心地がなあ……)
見られることは好きではなかった。
理由はわからない。
(ま、でも、俺でもそうするか)
白樺はそうして水を飲み干した。
痛みの中、よみがえった記憶の断片。
その中にあったのは、自分の名前――白樺千澪。親がつけた、珍しい当て字の名前。
それから、図書館と呼ばれる組織にいたということ。
何を具体的にしていたか、さっぱり覚えていない。
あとは、何かに挟まれていたこと。とても臭かったと、鼻が記憶していた。
手元にあるのはそのぐらいだった。
コップを置く。彼女は白樺の一挙手一投足を追っていた。
気まずい空気が流れる。
意味なく左奥の壁を見つめた。
(何を話そう、あ、まずは名前か)
咳をする。唇をうちに曲げ、舌先で舐める。そうして口火を切ろうとした。
「――あの!」
向こうのほうがわずかに早かった。白樺の肩は揺れる。
彼女はうつむいていた。
膝に置かれた、握り拳が開かれる。丁寧に指先を揃え、前に出す。そうして額を畳と密着させる。
(えっ、土下座……?なんで!?)
白樺の目だけは、それを受け取っていた。
「危険な目に遭わせてしまい、申し訳ありませんでした!」
声が出なかった。
顔を上げず、彼女は続ける。
「せん妄状態を解くとはいえ、あのような愚行に走ってしまい、申し訳ありません。あの時は、たまたま奴がまだ復活したばかりだったから、のものを――」
何がなんだかわからない。話の筋が見えない。
「食べさせてしまい、本当に、本当に――」
白樺は口を割る。
「食べさせたって、な、なに」
「ですから、その――」
「――ま、まってタンマ。落ち着こう、互いに、うん」
白樺は息を吸う。
「あ、あの」
「ほんと、ちょっと待って」
遮るように言った。
情報が錯綜しすぎている。
せん妄、食べさせる、奴、土下座。
ピースが組み込めない。どこも繋がってくれない。
(――ダメだ、また頭が痛くなる)
額を抑えた。
白樺は落ち着かせようと思い立ち、ピッチャーをとる。グラスに注いで、一気に流した。
ぷは、と大きく息を吐き出す。
鼻の穴がいつもより広がった。肺の膨らみを感じる。それと同時に、ちくりと痛みが走った。右目だけが、半分閉じる。痛みが抜けたあと、また水を注いだ。
それも飲み干してから、グラスを置く。
彼女は申し訳なさそうに、こちらを見つめていた。何かいいたげのようであるが、それだけは避けるべきだと考えた。
口元を拭い、話しかける。
「まずは――自己紹介からしよう」
彼女の口から、情けない声が漏れた。