二、狼
生き物と対峙した時、目を合わせるなとよく耳にする。
では、既に合ってしまっている場合は、どうすればいいのだろうか。
(鈴?いやいや、熊じゃないし)
静かに距離を縮められる。
後退するたび、雪をふむ音が耳に入った。呼吸が浅くなる。
凍っては溶ける空気。
近づいてくる、狼の前足。
見える鋭い犬歯。
地響きのような唸り声。
枯れ草たちが嘲笑う。
五感で感じる全てのものが、心臓を締め付ける。
興奮からか、瞳に涙が溜まりはじめた。目の前の生物の輪郭が揺れる。拭うにも、視覚を塞げば、肉を裂かれるのは間違いなかった。
(どう、い、威嚇?)
萎縮した声帯から、大きな声など出るはずがない。
生き残る道はどこにある――――?
白くなった頭。一周回って、何か生み出せる気がしはじめる。
(そう、冷静。まずは冷静)
溜まった熱が頬を伝う。
もう少しだけ、水を飲んでおけばよかった。静かに生唾を喉へ流す。
酸素を多く取り込む。変換された二酸化炭素を吐き出すと、少しだけ脳が色づいた。
まずは敵を知る必要がある。そんな気がした。
どんな飼い犬よりも育った足。指が細かく分かれており、また爪はだいぶ長い。
地面をうまく掴めそうだ、とコソバは思った。人との共存を選ばなかった名残だろう。
ふと狼の特色を思い出す。
(他のはどこにいる?)
群れて獲物を仕留める――――
以前本で読んだことがあった。とても社会性の高い生き物で、血縁者でひとつの集団を構成する。一匹狼、という言葉はあるが、集団に属するまでの一時的なもので、結局どこかに入るらしい。
彼は今、そうなっているのだろうか。
狼の目撃例は多々ある。しかし、この辺りはあまりないと教えられていた。むしろ、警戒するべきは寝過ごした熊だと。
カバンについた鈴が鳴る。今のところ、意味は成していない。
(ないか、ないか……突破口!)
上唇に歯がはりつく。閉じて湿らせ、剥がした。
目を凝らす。
(ん……?あの、足って)
右前足に引かれた線があった。横向き、計三本。
以前、師匠が教えてくれたことを思いだす。獣打ち、と言われる人の特徴。
獣打ち――その名の通り、動物の杭を植え付けられたもの。打たれた杭の種類により、その種に化けることができる。
もしそうなら、相手は――――
唾を飲む。コソバはカバンの底を開けた。
緊急時、必要なものを取り出せるよう、底は錠前がついている。横にひねると簡単に開閉できた。
小袋を取り出し、前方に撒き散らす。
眼前が白く染まる。撒いたのはただの片栗粉であった。
わずかな粉塵が鼻をくすぐる。誘発されたくしゃみを噛み殺した。
靄の向こうで、何かが光る。
すると銀線が、空気を縦に切った。コソバは急いで、横によける。
(師匠の言った通り……!あってた、でも状況は、めっちゃ悪い――!)
右掌を宙に出す。着ている黒い外套の一部が集まってゆく。黒く長い棒が現れた。
今度は横に宙を切る。ひぃ、と蚊のなく声を出しながら、既で逃れる。腹を切られるところであった。
向こうの影がゆらりと揺れる。肩のあたりで、何かが靡いた。
刀はあちらの方に一度戻る。
顔の横で構えているのが見えた。
(突きがくる……!ああ、レンズはやく――!)
手元のものは、まだ完全体ではなかった。少しずつ、先の方に刃が出来上がってゆく。
伸びる白銀をかわす。姫毛がチリ、と落ちた。
刃の向きが変わる。こちらの首を断つ構えだ。頭を下げる。フードが外れ、冷えた空気が頭を撫でた。
手元の棒に刃がつく。三日月を半分差したようなもの、大鎌である。
相手はもう一度刃を構えた。腕をあげ、振り下ろす姿勢。
棒を突き出す。
金物同士が擦り合い鈍い悲鳴を上げた。
粉が消え、相手の姿が現れる。
(うわ、まじか……)
見たことのある制服だった。
男は力を緩めない。こちらを押しつづけ、コソバも負けじと押し返す。
汗が垂れる。歯を食いしばる。性差が如実に現れはじめた。
少しずつ後ろに下がってゆく。
(図書館だなんて運がないな――!)
図書館――あらゆる命を記録し、世界の安寧を保護する機関。どの世界にも、どこにでも姿を表す。
例えるならば、地球版、アカシックレコード。
黒い隊服に身をつつみ、各々得意な武器を所有する。目の前の男は、日本刀。ただの日本刀でなはい。見るだけでわかる、これの元は杭だ。
ずりずりと押されてゆく。雪がはげ、地の肌が現れた。靴の裏に雪が溜まる。
(にしても、なんでこんなとこに)
「――て、くれ」
(ん?)
「――殺して、くれ」
目が固まった。
(こい、つ――!)
心臓にひゅるりと冷たい汗が流れた。
鈍色の髪の男は呟き続ける。コソバはこの言葉を、過去に何度も聞いてきた。
知っている。
こいつは、殺されたいわけじゃない。任務で来たわけでもない。
コソバにそうするよう、仕向けられているだけ――――
どんどん押し負けてゆく。
男の表情はいっさい変わらない。蝋で固められたみたいだった。
唇を噛みしめる。どうするか、どうするべきか――――
考えに気を取られ、体が揺れる。左手の力が抜け、鎌が離れた。
隙ができてしまった。
向こうは逃すまいと、もう一度刀を振り落とす。
(やばい――!)
鎌を構える隙はない。
今、使わないでいつ使う――!
瞬時、足を意識する。
ふくらはぎに、布を超え、葉脈のようなものが刻まれた。
切先が届く寸前。
鎌を離さぬよう、強く握る。足に力を込め、跳ねて刃をかわす。
そうして男の後ろに着地した。
行き場をなくした刃先が雪に埋まる。
男は目だけをこちらに向けた。琥珀の瞳が、じっとこちらを見据える。
コソバは右眼を細めた。なんとも言えない顔をする。両手にもう一度、鎌を握りなおした。
ふくらはぎは、まだ線が残っていた。白く輝きを放ち、筋からはキラキラと輝く粒子が舞っている。
久しぶりにコソバの星脈は起動した。