第2話 少女のままで
2011年 11月23日
この日、西部戦線でソビエト連邦軍と西部民主連合との最大の陸戦が繰り広げられた。いわゆる『ワルシャワの戦い』だ。総兵力10万人。機甲兵力6000と航空機1000機がワルシャワで砲火を交えた。
連合軍の防衛線を破らんとするソ連との戦いは一ヶ月近く続き、両者とも多大の犠牲を出した。
その犠牲者の中にアリスの兄、カーライル・フォン・フランベルクがいた。制空戦闘でソ連のエースパイロット『白狼』ロアニアビッチに撃墜されたのだ。
だが悲劇はそれだけでは終わらなかった。
ワルシャワの戦いの一環で行われたソ連のミサイル攻撃にウォルフが勤務するヴィットムントハーフェン航空基地が晒されたのだ。無論、近郊に住んでいたアリス達家族も無事ではすまなかった。父ウォルフは死に、母親のエヴァは爆風に煽られて頚椎を損傷して植物人間になってしまった……。
その攻撃の夜。アリスは青い目が赤くなるまで泣いた。幸せだった日々をいとも簡単に吹き飛ばされた悲しみと何もできなかった無力な自分への無情さで。
だけど悲しみが過ぎたころには涙の代わりにどす黒い煮えたぎった泥のような感情が胸に宿った。怒り。ソ連に対する怒りではない。戦争その物への怒りだった。
そして彼女は決意した。軍学校に入って戦闘機のパイロットになって『戦争』を殺す―――と。
軍学校は14歳から16歳の男女に専門的な軍事教育を施す軍の学校。アリスはそこで戦闘機のパイロットを目指すべく教育を受けることにした。
何故戦闘機パイロットか?理由は簡単だ。フランベルクだからだ。フランベルクは代々空軍の家系。父は持病の関係でなれなかったが、祖父も曽祖父も皆戦闘機に乗っていたからだ。そして兄のカーライルも。脈々と流れるパイロットの血が道を決めたのだ。
だが戦闘機パイロットの世界への門は狭い数十名に一人がなれない。体力も学力も秀でる必要がある。故にアリスはそれに向けて努力し続けた。学力は高かったがひ弱だった体を鍛えた。彼女を突き動かしたのは紛れもなく戦争への怒りだったかもしれない。
座学や日々の鍛錬に耐え、初等訓練を2年に及ぶ初等訓練を修了したアリスはパイロットの証でもある『ウィング・マーク』を手に入れた。
2013年 5月1日 10時15分
アメリカ ミラマー航空基地
戦乱で荒れ果て訓練兵が使用できる滑走路がなくなり、アリスを含める欧州の訓練兵たちは祖国を離れ、アメリカのカリフォルニアで6ヶ月の実戦訓練を受けるのだ。アリスは第一志望である第83航空隊『黒薔薇隊』に入るべく当時最新鋭であったEF-3000シュトゥルムの操縦訓練を行う事になった。
降り注ぐ日射の下。訓練用の副座型のEF-3000の前で准尉待遇の航空学生であるアリスは教官を待っていた。名前は明かされていないが凄腕だから気張って訓練を受けろと言われたから内心ビクビクしながらも人間好きな彼女はどこか楽しみに待った。
「フォン・フランベルク准尉か?」
「はい。アリシア・フォン・フランベ……」
アリスは背筋を伸ばし、背後に現れた教官らしき人物に敬礼するが言葉を失った……
「ヨアヒム・クルトマイヤー大尉だ。自己紹介はいらないか――――アリス」
あの青年だった。だが今の彼にはあの時に見せていた若々しさは無く、どこかやつれているような雰囲気をしている。
「君がパイロットか……時は矢の如しか。それより訓練飛行だ。早く機に乗ってくれ」
「はいです」
アリスはコックピットに身を沈めた。EF-3000のコックピットはユニバーサルデザインで同時期に開発された米国のF-28ワイバーンと日本のF-29雷燕と同一のものだった。アリスは覚えたての操縦マニュアルに従ってエンジンを点火けて、タキシング・ウェイを抜けて滑走路へ。
「トレイナー2、発進します」
『了解、離陸を許可する』
管制官が許可を下すと、アリスはスロットルを絞って機を飛行速度にまで加速。身が軽く強力なエンジンを持つEF-3000はふわりと浮かび、中空へ舞い上がった。
「すごい……パワーです」
手に伝わる怪物の振動。訓練機の比にならないような加速性能にアリスは驚嘆の声を漏らした。高度3000メートルまで一分もかからないような上昇性能。
「とりあえず私の指示通りに飛んでくれ」
「はいですっ」
アリスはクルトマイヤーに言われるがまま戦闘機動をおこなった。EF-3000の旋回性能はロシアの高機動で名を馳せたスホーイシリーズに匹敵する。アリスは手綱を握りきれなかった。
「准尉……その程度か?」
飛行訓練を終え、基地に戻って息を切らすアリスに余裕な様子を見せながらクルトマイヤーはアリスに冷たく告げた。
「いえ……まだまだ」
「やめておけ。君には無理だ」
そのときのクルトマイヤーの目はアリスが見た中でも本当に冷たかった。本当に冷たく、ミラマーの暑さを忘れさせるほどだった……。
「そんなっ!!私は……」
「もう一度言う。君には無理だ」
あの優しかった青年とはとても思えないような冷たい表情でクルトマイヤーはアリスを突き放すのであった。そのツララはアリスの胸に深く突き刺さって心を深く抉った。
その次もまたその次もクルトマイヤーは態度を変えることなく厳しくアリスに当たった。だけどアリスは挫けずに食らいついた。時より思い出すあの優しいクルトマイヤーの姿を思い出すと胸が痛くなる。アリスは慕っている人に冷たくされる地獄のような3ヶ月を過ごした。
そんなある日、クルトマイヤーはブリーフィングルームにアリスを呼びつけた。
「アリス。どうしてキミはパイロットを目指す?私にこんな風に……」
この基地に来て初めて彼は彼女をアリスと呼んだ。
「それは大尉……いえ、クルトマイヤーさんが空を飛ぶ事のすばらしさを教えてくれたからです」
そうだった。クルトマイヤーとアリスは操縦席は逆でもこうやって一緒に飛んだ。戦争を憎む気持ちやフランベルクの血統―――それらよりもクルトマイヤーと飛んだ事が今の彼女の中には鮮明残っていた。
「私は大尉に乗せてもらった飛行機の事が忘れられずにいます……多分、カール兄さんもこの体験が忘れられずに……」
「やめてくれ……!!」
クルトマイヤーはうめく様な声を上げた。
「大尉?」
「そうさ……私がカールをパイロットになるきっかけを作った。そして、死なせた……私はキミまで死なせたくない……」
クルトマイヤーは震えていた。自責の念と彼の大切な部下でもありアリスの兄でもあるカールを死なせた悲しみで。そして彼はポケットから紙を出し、彼女に突きつけた。それは転属の伝達書簡だった。
「いいか、アリス。君は海軍の太平洋方面の航空隊再編計画の人員として召集されている。ここでパイロットを辞めれば君は戦地にいかずに済む。だから、パイロットを諦めてくれ……」
海軍の航空隊は常時戦地に身をおかないとならない、そして空母に勤務すれば難易度の高い着艦や海兵隊の上陸援護を行い死亡する可能性が高い……故にレベルの高いパイロットしか入ることができないのだ。
「私……諦めません」
「アリス!!」
「私はパイロットになって、この戦争を終わらせるって亡くなった父や母、そしてカール兄さんの墓前に誓いました」
動かしがたい決意?いや覚悟だった。16歳の少女ができるような瞳を彼女はクルトマイヤーに向けた。
「私はまだまだです。だけど、信じてください。あなたを悲しませるようなことはしません」
クルトマイヤーは沈黙した。そして
「わかった。アリス、君の覚悟は本物だ」
転属用紙を彼女に手渡し、踵を返して煙草に火をつけて部屋を後にしようとした。
「アリス」
ドアの一歩前で止まりクルトマイヤーはアリスを一瞥し
「君の腕も本物だ。シュトゥルムに振り回されたのは君が軽戦闘機向けのパイロットで無いからだ。君はアメリカの戦闘機向きのタイプだから」
「え……?」
「F-28に乗れば絶対に成長する。これは私が保証する、しかし過信はするな。過信は君を殺す」
ドアを開けて彼は去り際に
「風の導きがあらんことを」
祈りの言葉とともに、かつて見せたあのはにかむ様な笑顔を残して部屋を後にした。
彼がいなくなり暫くするとアリスの涙腺は突然緩んだ。彼は最後まで自分を思い続け、冷たい態度をとり続けた。だけど自分はそれに気付かずに憎みかけた―――そんな自分が悲しく、そして彼の重いが胸を暖かくした。
その後、アリスは海軍ようのF-28Aでの訓練に参加した。そこで彼女はメキメキと頭角を現し、今季の主席として第17艦隊、空母ジャック・グラフトン所属の第184戦闘攻撃隊ヘルハウンズに所属することになった。
そして彼と出会った。無愛想だけど優しいエドワード・エンフィールドに。
†
2016年 3月21日 午前10時21分
東京 駒込病院
「荷物、詰め終えたぞ」
「ありがとうです。エドくん」
今日は退院の日だ。エドに抱きかかえられ、車椅子に乗った春を思い浮かべさせる薄いピンクのカーディガンに白いブラウスを着たアリスはエドに礼を述べた。
「アリスさん、準備できましたか?」
「はいです」
付き添いに来た看護婦の井上はアリスの左手を手にとって、患者のリストタグをはさみで切り落とした。
「これで自由の身だね」
「はい。本当にお世話になりました」
「いや~寂しくなるよ」
井上さんには本当によくしてもらった。リハビリで弱音を吐いても黙って聞いてくれて優しい言葉をかけてくれた。
「エドくんも、アリスさんの事頼んだよ!!」
「はい。長い間、お世話になりました」
エドもこの2ヶ月、近く介護の勉強などに勤しみアリスを少しでも楽にしてあげようと頑張った。本当に彼には頼りっきりで何も返すことができない自分がもどかしく思えてしまう。
「じゃ、私はこれで」
「本当にありがとうございました。また逢いましょうね」
エドに連れられて廊下に出たアリス。白く殺風景だが愛着が生まれた廊下……どこか名残惜しいが歩みをとめる事はできない。
「アリスおねえちゃん……」
エレベーターに差し掛かったところで一人の男の子が寂しそうに彼女の名を呼んだ。
「ゆうくん……」
戦争で両親を亡くし自分も重篤な病に身を蝕まれている男の子、ゆうくん。彼の数少ない楽しみはアリスからパイロット時代の話を聞くことだった。
「いっちゃうの?」
「はいです。寂しいけどお別れです」
「……またあえる?」
「はいです。パイロットは絶対に約束を破りません。ね、エドくん?」
エドも静かな笑みを浮かべてうなずいた。幼いながらに彼も理解して泣かずにぎこちない敬礼をして彼女たちを見送った。
「また逢いましょうね――――ゆうくん。風の導きがあなたにあらん事を」
エレベーターの乗り際に病気と闘う小さな兵士にアリスは敬礼と祈りを捧げた。彼が生きて帰れることを祈って。
†
退院手続きを済ませたエドとアリスは病院の外に本当の意味で出られた。外は少し肌寒いが、程よい日が照っていてアリスにとっては快適な気温だった。
「アリス」
車椅子に座るアリスの肩に手を置いたエドの指した方向に彼女は目を向けた。
「わぁ……きれいなサクラです」
ソメイヨシノの並木がゲートの目の前で咲き乱れていた。戦火から運よく生き残ることのできたソメイヨシノ。アリスはその光景に目を奪われた。
「アリス、これからどうする?」
「とりあえずエドくんのお部屋にむかうのでは?」
「いや違う。これからの未来だ。戦争も終わったし、やりたい事無いか?」
「いえ……エドくんに迷惑をかけるので……何もいえません」
アリスはうつむく。介護だけでなく通院の為に病院の近場に部屋を借りてくれた。これ以上、わがままを言うことは出来ない。
「そうか……じゃあ、俺が言わせてくれ」
エドは一間置いて
「どこかの誰かがやりたいって言ってた喫茶店を開く。これが俺の目標だ」
「それって……」
「俺はその誰かさんに夢を実現してもらいたい。こんなに尽くしてんだ、俺のわがまま位きいてくれるよな?」
戦火に潰えた夢が再び息吹を返したようだった。アリスは神にこれほど感謝したことは無い。この最良の男性に巡り合せてくれたことを……。たわわに咲いた花が優しい雨のように降る中を二人は歩き出す。たとえ立てなくても、支えてくれるこの人がいれば何もいらない。
「大好きです」