MISSION63 戦いの果てに……
殺伐とした冷たい空気が格納庫を包んだ。
翔とウリエルは20メートルの間合いで互いを見据え、ただ待つだけだった。どちらが先に動くかを……
「翔……」
心配そうに光が翔の手を握る。彼の手のひらは汗に濡れ、どこか筋肉に緊張の粒子が混ざっている。恐怖……人間を超越した相手に対する恐怖ではない。彼女を傷つけてしまうかもしれない恐怖のほうが彼の中では大きかった。
「光。あの小型機の裏にいてくれ。絶対に出てくるな」
「でも」
「良いから隠れてろ」
翔の言葉にはいつもと違った。あの時に自分を犯そうとした男に対して発したような声だ。戦士の声。今から戦おうとする戦士の声だ。
「うん……でも、約束して……絶対にクララを殺さないで勝ってね」
もしここで翔が彼女を殺すようになったら、彼は一生その傷を負って生き続け自分を責め続ける……彼はそういう人間だ。そうなって欲しくない。その一身で光はそう願った。
「わーってる。絶対に助けるから……クララを……」
光はその言葉を訊いて頷くと翔の言ったセスナの裏に隠れた。
「さて……」
光もいなくなった。M4カービンを足元に捨て、翔は右腕をぐるりと回して腰のホルスターからM12拳銃を抜いた。
「クララ、一緒に日本へ帰ろう。こんな所、早く出ようぜ」
「……それは承服できない。マスターの命令は絶対」
「命令?」
「風宮翔の抹殺が私の任務」
ナイフの切っ先のように鋭く冷たい目。あの温厚なクララとは一瞬だが別人に見えた。
「物騒だな…どうしてもダメか?」
刹那、ウリエルが駆けた。P90をフルバーストの銃声が格納庫に響く。
「クソ、やっぱ強行手段か!!」
翔は右にある名前もわからない民間のヘリコプターに横っ飛び、それを遮蔽物にしM12を発砲する。もちろん当てるつもりはない。相手の弾切れまで威嚇に使うための発砲だ。
外装の鉄板に当たって飛び散る火花。ライフル弾並みに強力な弾薬を使うP90だが、さすがにヘリの装甲板を穿つことは出来なかった。
「くそ……間合いは?」
翔は遮蔽物から少し顔を出し、クララとの間合いを計る。ざっと10メートルか。
「くっ」
翔が覗き込んだわずかな隙をついて、ウリエルは発砲。翔の顔を銃弾がかすめ、血が一筋頬を伝う。
「チャンスはねぇのかよ?」
カランカラン。金属の落ちる音。薬莢の落ちる音より太い音。弾倉を捨てた音だ。彼女は今装填中。ならこの隙に攻める他ない。
「よし!!」
翔はウリエルのもとへ駆け出した。装弾の終わったウリエルは片手持ちで翔に銃口を向け、引き金を絞ろうとした刹那、翔は身をかがめ前転。放たれた銃弾は翔にあたらず床を穿つだけ。ウリエルに肉薄した翔は右手に握られているP90を彼の左手を支点に右手で挟み込み、彼女の手首を捻って弾き飛ばした。
そのまま翔はウリエルの右手を左手で取って右手で抑えた肩を取って大外刈り。
今だ!!
翔はタクティカルベストにあるナイフの鞘にねじ込んだペン型注射器を取り出し、彼女の首元を狙う注射器の中身は鎮静剤。これが彼の狙いだ。眠らせて、保護するのだ。
しかし、クララは翔の腹部に鋭い足蹴りを入れる。
「がっ」
不意の蹴り。翔は腹筋を何とか固められたが、彼女の蹴りは鋭すぎて一瞬だがたじろぐ。その隙にウリエルは立ち上がり、猛攻を始めた。
蹴り、拳。喧嘩慣れした翔を嵐のような連撃で圧倒する。
蹴りや拳自体は筋力で劣る女性が繰り出す物と変わらないが、柔軟な体故にその“威力”は高かった。
防戦一方。
翔は拳を突き出そうとするが堪え続けた。反撃したい衝動に駆られるが、その度に人工島で見た彼女の笑顔が脳裏によぎる。
優しい笑顔を持っていた彼女が無感情で冷たい機械のような瞳で自分の前に立ちはだかる……。
「クララ!!」
翔は右ストレートを手のひらで捕らえ、自分の近くに手繰り寄せた。
顔が近い。こんな近くで彼女の顔を見たのは久しぶりだ。
顔の輪郭やパーツ……何もかもがクララだ。瞳を除いたら。
「クララ……」
「私は、クララなどではない。マスターの作った兵器」
痛みが走る。肉体ではない……翔の心に。こんな抜け殻のクララを見ていると。
「忘れたのかよ……俺やお前の大切な仲間だったペペリヤノフと交わした約束を!!」
ペペリヤノフ?約束?
その単語を聞いてウリエルの網膜の裏に意味の解らない映像が頭痛と共に現れた。空、戦闘機とスホーイの編隊。名前もわからない男の笑顔。
「らない……そんなモノ……私は知らない」
「クララ!!」
「その名で……私を呼ぶな!!」
感情の死んだ声が初めて激昂の色が宿った。ウリエルの膝蹴りを鳩尾に喰らった翔はダウンした。
「クララ……ぁ!!」
――――もう良い。クララは死んだ。ここにいるのはクララの抜け殻だ。殺してしまえ。殺してしまえ!!
彼の脳の奥に蠢く殺意は彼にそう訴える。殺意にしたがって彼女を殺せば傷つかないですむ。そっちの方が楽で良い。
「違う!!」
翔は否定した。自分の殺意と彼女の放った言葉を。
「お前はクララだ!!山村クララ。俺の掛け替えのない大切な友達なんだ……思い出せよ!!」
翔は立ち上がった。口にあふれる血を吐き出して、開手で構える。
――――俺は何の為に立ち上がるんだ?
決まってるだろ?クララのために。
決意に燃える瞳――ウリエルの猛攻は再び始まった。
無抵抗でボロボロの抹殺目標。それを殴るたびに、妙な感覚が胸を覆った。拳を振るうたびに網膜の裏に過ぎる暖かい日差し。だが、それは彼女の脳裏に鋭く痛む。
「クララ!!」
その名が呼ばれる度に不快感が走る。理由もない不快感……それは体の細胞、脳が拒絶しているのだろう。
殺したい。一刻も早くこの男を殺したい。体が騒いでいるのに、上手くいかない。
「一体……何なんだ……お前は?何故戦わない?」
ダウンしても、立ち上がりうとするターゲットにウリエルは問うた。ボロボロになっても立ち上がり、反撃もしない彼は不愉快そのものだった。
「出来るかよ……お前と殺し合うなんて……大切な友達とさ……」
ウリエル四つん這いになるあの男の横腹を蹴り、仰向けにさせた。そして、馬乗りになってナイフを抜き、止めを刺すことにした。
――――ここで終わりか……情けねぇや
翔には抵抗する力も残っていなかった。出来ることは自分の死を待つだけ……
「翔!!」
光の声。あぁ……こいつの声を聞くのも最後か……
「やめて!!クララ!!翔を……」
「……光、逃げろ……そして、生き続けろ……俺の分も」
翔はセスナの前に今にも駆け出しそうな光に顔を向け、笑った。
「いやだ!!」
「光……」
「翔のいない世界なんて……私、欲しくない!!みんながいる明日が良い!!」
彼女は涙を浮かべる。だが、時間は待ってくれない。
白刃が閃いた。重力に糸に引かれるようにナイフは翔の喉に落ちていく。
翔の世界が止まった。そう、思った。
「え……?」
ナイフの刃は翔の喉を突き破らず、あと一ミリの所で静止していた。そして―――切っ先は震えていた。
「クララ……?」
翔はナイフから目線をウリエル本人へと移す。彼女は必死な様子で翔の喉にナイフを刺そうとしていた。だが、動かない。
「――――私は、クララではない……私はウリエル……マスターの作った兵器だ……!!」
「なら、どうして手が震えてる?兵器なら俺を殺してみろよ」
「私は……ウリエル……マスターの兵器だ!!」
「お前は兵器なんかじゃない……クララだ!!山村クララ!!人の頭にボルシチこぼすようなドジだけど、敵にも優しく出来る優しいクララだよ!!」
その言葉を訊いてウリエルはもう一度ナイフを振り上げた。
切っ先が振り下ろされた刹那だった。ウリエルの脳裏にまた、自分の覚えに無い映像がめぐり始めた。
殺風景な部屋とあの男。あの男は笑っていた。暖かい日差しが心地良かった……。自分でも解らない。解らないのに体が温かくなっていく。
―――知ってる……
あの男の笑顔。あの男が誰で、自分が誰なのか……
「あ……あぁああぁああぁぁぁああぁあぁああぁ!!」
脳が粉々になるような激痛が走った。脳をめぐる膨大な情報。ナイフを手から離し、頭を抑え彼女は苦しみだした。
「クララ!?」
翔の上に跨ったウリエルは上を向いたまま沈黙した。
「……くん……」
「え……?」
沈黙を破ったのはウリエルの冷たい機械みたいな声ではなかった。紛れも無い……クララの声。感情の宿ったクララの声だ。
「翔……くん……?」
「クララ……お前!!」
その目、ナイフのような目は春日差しのように暖かい瞳に戻っていた……クララだ。彼女はクララ。
「翔……くん……ご……ごめんなさい……」
クララは泣き出してしまった。涙が翔の頬に落ちる。
「何で謝ってんだよ?」
「だって……翔くんに……私、こんなひどい事……」
「気にすんなって……好きでやったことだから……それより、立たせてくれ……」
「あ、うん。ごめんね」
クララは翔から降り、彼に手を差し伸べて立たせた。
「帰ろう、日本へ」
「うん……翔くん……?」
乾いた火薬の爆ぜる音が沈黙で包まれた空気を切り裂いた。
「く、クララ?」
胸からの鮮血。噴水のような血が吹き出て、クララは翔の目の前で倒れゆく。
何も解らなかった。
乾いた音がしたらクララが倒れた。頭が真っ白。声も出なかった。
「いやぁ……いい茶番が見れたよ」
出口でもある通路からあの白人の『マスター』と呼ばれた男がこの場に現れたのだ。その手には硝煙が吹き出ているベレッタM92Fが握られていた。
「いやぁ~まさか記憶が戻るとはね~人間脳は不思議なものだ」
マスターは歌うような口調で翔の前に現れ、唖然とする彼の額にに銃を向けた。
「ウリエルも死んだ。次は君の番だ……でもね、正直言うと私は君を殺したくないんだ」
マスターは一言区切って、銃口を額から外す。
「楽にね」
照準は右足に合わせられ、マスターは引き金を絞った。
「ぐっ!!」
足の焼けるような痛み。翔はその場に膝をついた。
「さて、どう責任取ってくれるかな?」
膝をついた翔の前に立ったマスターはそう言うと、彼の顔を蹴飛ばした。
「この研究に私は20年もの年月を捧げた……なのに君はそれを一日で不意にしてくれた……」
一見、冷静そうに見えてもマスターの腹の中にあるどす黒い怒りは爆発し、ことの原因でもある少年を蹴り続けた。
「学会の連中を見返そうと、その一心で日々を生きた私の邪魔ばかり何故するんだ?ええ!?」
マスターは翔の頭を踏みつけて問うた。
「……ざけんな」
「……んん?何だい?」
怒りが絶望を塗り潰した。怒りは殺意に……翔はさっきまで封じ込めた凶悪な感情を爆発させた。
「ふざけんじゃねぇよ……ふざけんじゃねぇ!!」
翔は頭を踏みつけているマスターの足を掴み、思いっきり弾き飛ばした。
「わっ!!」
翔の思わぬ反撃にマスターは無様に尻餅を付いた。翔はその上に跨った。
「はは……久しぶりだな……」
「人をこんなに殺したいって思ったの……母親が殺されて以来だ」
翔はそう言って拳を振り上げた。怨みと殺意のこもった一撃。それは彼のメガネと鼻を砕き、鼻血があたりに飛び散った。
「ひぃぃぃ」
情けなく泣き喚くこの男のせいで光は危険に晒され、由衣は死に、クララは撃たれた……
そう思うと憎しみが込み上げる……。殴りたい。殺したい。凶暴で獰猛な何かが自分の細胞に訴えかける“殴れ”“殺せ”と……。
殴って殴って殴りまくった。
「ダメ……翔……くん……マスターを殺しちゃ……」
胸を撃たれたクララは這いつくばって、悪鬼の表情で殴り続ける翔を止めようとした。人体強化の賜物だろうか……。
「やめろ!!こいつを殺させてくれ!!」
「ダメ……翔くん……彼は法で裁かれるべき……お願い……」
クララの必死な目……翔は目に負けて拳を振るうのをやめた……。
「クソ……クソッタッレ!!」
翔は泣き叫んだ。悔しくて……悔しくて……。