村の外れの祠にて
ある村の外れに、小さな祠がありました。その祠に参拝する人は今はいません。その祠の前に少女が座って呆けていました。少女はため息一つ吐きました。
「このまま、妾もこの祠も、忘れ去られてしまうのか……」
少女は憂えていました。彼女はこの祠に祀られている神様だったのです。
そんな目を伏せて憂いている神様に、小さな影が落ちました。少女が視線を上げると、小さな男の子が立っていました。
「お姉ちゃん、何してるの?」
少女は驚きました。彼女は神としては忘れられつつあり、姿も消えかけていたからです。
「待て、妾が見えるのか?」
「うん、見えるよ」
「そなた、歳はいくつじゃ?」
「五歳」
童の歳を聞いて少女は納得しました。七歳までは神のうち。忘れられかけていた神様であっても姿が見えることは不思議ではありません。しかし同時に、それは少女と童とが交流できる時間に限りがあることを示していました。だからこそ、童との時間を大切にしようと少女は思いました。そこで少女は言いました。
「せっかくここまできたのだから、一緒に遊んでやろう。そなた、竹馬は好きか? 一つこしらえてやろう」
「本当? やったぁ!」
純粋に喜びはしゃぐ童を少女は微笑ましく思いました。
やがて一対の竹馬が出来上がりました。少女が支え、童が足を乗せます。
「じゃあ、離すぞ」
「うん!」
少女が竹馬から手を離します。はたして童は、倒れることなく竹馬を立たせていました。
「おお〜」
少女は感嘆の声を漏らします。童は嬉しくなって、さらに歩いてみせました。少女は手を叩いて賛辞を送りました。
「すごいぞ童よ! 初めてでこううまく歩ける人はいない!」
童は少女に笑顔を向けて言いました。
「僕の名前は幸彦。幸彦って呼んでほしいな。お姉ちゃんの名前は?」
幸彦の純真無垢な問いかけに、少女の胸がちくりと痛みました。長らく訪ねる人のなかった祠です。まして最後に名前を呼ばれたのはいつのことだったでしょうか。それでも少女は努めて明るく答えました。
「幸彦というのか。良い名だな。妾はな、自分の名前を忘れてしまった。久しく呼ばれてなかったからな」
「えー! それは可哀想だよ! そうだ、僕が名前をつけてあげる!」
願ってもない申し出でした。これでしばらくは少女も神として存えます。
幸彦は真剣に考えます。やがて彼は一つの名前を絞り出しました。
「うーん、みゆき! どうかな?」
それは決して神様らしい名前ではありません。それでもみゆきと名付けられた少女は喜びました。
「みゆき! みゆきじゃな? 妾はみゆきじゃ!」
「やったぁ!」
幸彦も手を叩いて喜びます。みゆきはそんな幸彦に微笑みかけて言いました。
「ありがとう幸彦。お礼に明日からも毎日遊んでやろう。持ってきたいおもちゃがあればお手玉でもあやとりでも持ってくるがよい。作ってほしいおもちゃがあれば竹とんぼでも独楽でも作ってやろう」
「本当!? じゃあ、約束」
幸彦は小指をさし出しました。みゆきもそれに応えます。こうして二人は指切りを交わしました。
* * *
それからというもの、晴れた日は二人はいつも一緒に遊びました。幸彦がお手玉やあやとりを持ってきて遊んだこともあれば、みゆきが竹とんぼや独楽を作ってやったこともありました。渓流で魚獲りをしてびしょ濡れになったり、泥遊びをして泥んこになったりもしました。
しかし、幸彦は六歳になり、もうすぐ七歳を迎えます。みゆきは幸彦の成長を喜びはしますが、同時に寂しくもありました。
ある日のこと、シャボン玉を飛ばす幸彦にみゆきは優しく語りかけました。
「幸彦は、もうすぐ七歳じゃな」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、もうすぐ会えなくなるな」
「え!? やだ! ずっと一緒がいい!」
シャボン玉を置いて幸彦はみゆきに抱きつきます。そんな幸彦の頭をみゆきは優しく撫でました。
「そう寂しがるでない。そなたも大人になり、忙しくなり、いずれ妾のことを忘れる。それは仕方のないことなのじゃ」
「忘れないよ」
幸彦は強く言い切りました。
「みゆきの姿も、声も、みゆきとの思い出も、全て胸の中にある」
それを聞いてみゆきはほろりと涙を溢しました。
「ありがとう。その気持ちだけで、妾は神として存えられる」
みゆきは幸彦を抱きしめ返しました。二人はその日別れを惜しむように、日が完全に落ちるまで遊んでいました。
* * *
次の日から幸彦が祠に来ることはなくなりました。みゆきは寂しくはありましたが、幸彦の「忘れない」という言葉を希望として祠の前に佇んでいました。
祠を訪れる者はもう現れないーーそうみゆきは思いこんでいました。しかし、幸彦に代わるように一人の女が参拝するようになりました。
「そなた……」
みゆきは話しかけますが、彼女の耳には届いていないようでした。
女は毎日訪ねては、菓子や酒をお供えして祈りを捧げ、帰っていきました。みゆきは言葉の届かないもどかしさを感じながらも、寂しさが幾分か和らぐのも感じていました。みゆきと女との無言の交流はしばらく続きました。
* * *
それから数年が経ちました。みゆきが佇む祠を訪ねる若い男がありました。顔立ちは端正で、髭も整え、しかし目元には確かに幼い頃の面影が残っていました。みゆきは一目見て彼だと気付きました。
「幸彦っ! 幸彦ではないかっ!」
「みゆき様! よかった! 御姿はもう拝見することはできないが、御声はまだ拝聴できるのですね!」
幸彦は涙を流します。それを見てみゆきも涙を溢しました。
「敬語などやめておくれ! そなたと妾の仲ではないか!」
みゆきはそっと幸彦を抱きしめました。みゆきの熱が幸彦に伝わります。
「ああ、そこにいるのですね!」
「会いたかったぞ幸彦よ。すっかりいい男になりおって。さあ、妾の許から旅だってからのことを聞かせておくれ」
「私は父と都へ商売に出かけていたのです。その間にみゆきが消えてしまわないように母を残して毎日参拝するよう頼みました。商売は無事成功し、今、こうしてみゆきの許に帰ってくることができたのです」
「そうか。それはなによりじゃ」
みゆきは幸彦の頭を優しく撫でました。幸彦ははにかみながら続けます。
「それでみゆき。商売に成功したから、先立つものはある。そこで、みゆきのために社を建てたい。みゆきが忘れられてしまわないように」
みゆきはそれを聞いてはっと息を飲みました。そして幸彦を強く抱きしめてみゆきは言いました。
「ありがとう幸彦。この恩は決して忘れはせぬ」
その日は久方ぶりに再開したということもあり、また幸彦が成人したということもあって、夜更けまで酒を酌み交わしながら語らいました。
* * *
こうして数月が経った頃、祠のあったところには立派な社が建ちました。みゆきはその主神として祀られ、彼女を訪ねる参拝者の途切れた日はありませんでした。幸彦は神社の神主としてみゆきに使えました。その村は泰平になったということです。