ニヒロ
ニヒロ
ニヒロは比較的綺麗な部屋にいた。何不自由ない部屋だ。来たる試験に向け、もうひと頑張りである。ニヒロはふと参考書の全体をパラパラと眺めた。くゆる視界に単元に分けられた、いかにも効率重視な作りがうつる。
数ヶ月前からコツコツとニヒロは学習してきた。怠った日などあるだろうか。この試験に合格し、医者の家の跡を継ぐ。ニヒロが親に託され、産み落とされた理由そのものだ。
思えば、俗世にありふれた快楽を貪った試しがあっただろうか。自由には常に責任があり、ある程度の束縛にはその範囲を担った自由がある。
ニヒロは切り替えるようにコーヒーを一口。そして、書き殴った過程に目を通した。その時だった。顔をふと挙げたニヒロの目の前に老紳士がいた。ドアが閉まり切っており、音もなく部屋に入ってきたのを見るに只者ではないとニヒロは焦った。
老紳士は舐めるようにニヒロを見つめ、その困惑する表情を溶かすようにこう告げた。私は悪魔であると。
ニヒロは意外にもその告白を受け入れた。老紳士は続けた。私はずっとお前が努力する様を見てきた。だがしかし私は悪魔。お前の試験の顛末などわかりきっている。どうだ。知りたいか。
ニヒロは答えた。私は自分の人生を自分で選び、意義を見出す者だ。
老紳士はゆっくりと時間をおき、呆れて言った。人生がお前に意義を問いかけているのではないのか。そもそもお前自身の選択など、この閉ざされた生活圏にあるはずもないだろう。
どうだ。お前の試験の結果を書いた紙をこの部屋のどこかに隠した。探してみろ。だがしかし、結果を知ったお前の記憶だけはここで消させてもらう。お前はお前の人生を自分で選び意義を見出すようだからな。
ニヒロは席を立ち、何不自由ない部屋の中、ただ紙を探し回った。コーヒーが干上がり、取れぬ染みとなった頃、夜が明けていた。
ふとニヒロは部屋を見渡す。老紳士は居なくなっていた。
ニヒロは参考書をすべて捨てた。勢いで椅子と机すら捨てそうになった。
ニヒロは明け方の空を眺めながら外を歩いた。鼻歌まじりにニヒロは思う。過去が自分に影響しているようにきっと未来も自分に影響を与えているのだと。ニヒロは結果を知ったのか。彼自身も覚えてはいない。ただ、そこには不変の事実が刻まれていたはずだ。
ニヒロは電柱の下で一服した。心は晴れ晴れだ。煙は夜の闇にそっと浮かんだ。