五の章 ツクヨミの策、ホアカリの動揺
どこにあるのかわからない島、オオヤシマ。そしてそこにある二つの国、ヒノモトとヤマト。兄と弟が相争うという、悲劇が起きていた。
アキツはオオヒルメを何とか説得しようとしていた。
「大叔母様、このまま二つの国が争いを続ける事こそ、ヨモツを動かす起こりとなりましょう」
しかし、オオヒルメは頑として譲らない。
「何をどう言い繕うと、ならぬ。禁呪は許さぬ。例え、お前が命を賭けてヨモツを封じようとも、為すべき事ではない」
「大叔母様……」
オオヒルメとアキツの双方の憂いが、ツクヨミにはよくわかった。彼は堪りかねて、遂に口を開いた。
「恐れながら申し上げます」
オオヒルメとアキツはツクヨミを見た。ツクヨミは頭を下げたままで、
「言霊師一族に伝わる秘法がございます。その秘法であれば、ヨモツは動かぬかと」
「それは真か、ツクヨミ?」
オオヒルメは身を乗り出して尋ねた。アキツもツクヨミをジッと見ている。
「はい。但し、術具が要ります」
「何じゃ?」
オオヒルメはアキツと顔を見合わせてから尋ねた。ツクヨミは顔を上げて、
「アメノムラクモでございます」
「何と!」
ツクヨミの言葉に、オオヒルメとアキツは驚愕した。アメノムラクモとは、ワの国に代々伝わる秘剣である。正統後継者のみが持つ事を許される物なのだ。
「その剣は、今はここにない。ヒノモトのホアカリが持っておる」
オオヒルメは悲しそうに呟いた。ツクヨミは、
「存じ上げております。その剣、取り戻しに行こうと思っております」
「お前がか?」
オオヒルメは再びアキツと顔を見合わせ、尋ねた。ツクヨミは頭を下げ、
「はい。私が、ヒノモトより取り戻してご覧に入れます」
「それは……」
アキツが口籠った。ホアカリが持っていると言うのは建前で、本当にアメノムラクモを持っているのは、ホアカリの妃トミヤの兄であるナガスネなのだ。ホアカリならば、話も聞いてくれようが、ナガスネではその話すらできない。ヤマトではイワレヒコが乱暴者のように言われるが、ナガスネの狼藉に比べれば、イワレヒコなど子供の悪戯程度であろう。
「ホアカリは我が血に連なる者なれど、ナガスネは違う。ツクヨミ、命を落とすやも知れぬぞ」
オオヒルメの忠告にツクヨミは微笑んで、
「お気遣い痛み入ります。しかし、私は言霊師でございます。その昔、オオヤシマで並ぶ者なき一族と言われた者の末裔です。策がございます」
「策、とな?」
オオヒルメは眉をひそめた。
ヒノモトの国。オオヤシマの西半分を治める、ホアカリを王と戴く国である。
ホアカリは、弟ウガヤと違い、凡庸だ。義理の兄に当たるナガスネに唆され、戦を起こしたものの、それを後悔しているのだ。しかし、狡猾なナガスネが怖くて、何も言い出せない。秘剣アメノムラクモも、ナガスネが勝手にワの国の城から持ち出してしまったのだ。それが自分の屋敷にあるのが、どうにも恐ろしくて仕方がない。
「ナガスネはおるのか?」
王の座に着いていながら、ホアカリはビクビクしていた。ナガスネは実質的なヒノモトの支配者なのだ。ホアカリを王位に就けているのは、方便に過ぎない。それはいくら凡庸なホアカリにもわかっている。彼が曲がりなりにも粛清されないのは、ひとえに妃であるトミヤのおかげだ。傍若無人なナガスネも、トミヤにだけは気を遣う。彼が何より恐れるのは、トミヤが悲しむ事なのだ。そのトミヤが愛しているホアカリは、ヤマトとの争いに勝つまでは非常に大事な存在であるが、ヤマトを滅ぼしてオオヤシマを支配できれば、どうでもいい存在になってしまう。
「ホアカリ様はお隠れになりました」
いつそのような目に遭わされるかわからないのだ。
「ナガスネ様は、戦場でございます」
家臣達も心得たもので、ホアカリが何を聞きたいのかわかっている。
「そうか」
ホアカリはナガスネがいないと知ると、妃トミヤのいる部屋へといそいそと出かける。
「陛下」
「トミヤ」
二人は好き合って添った。だから、本当に仲睦まじい。トミヤも兄ナガスネの野望を悲しく思っている。誰か二人の間に立ち、取りなしてくれる人がいないかと日々思っているほどだ。オオヒルメやアキツがその第一候補であるが、ワの国を全く畏敬の対象としていないナガスネには、二人の威厳は通用しない。
「戦はいつ終わるのですか?」
トミヤは悲しみに溢れた瞳で夫を見た。ホアカリは、トミヤの心がわかるので、その目を直視できない。自分の不甲斐なさも感じているので、何も言う事ができない。
「申し訳ございませぬ。お忘れ下さい」
トミヤは夫が苦しんでいるのを知り、頭を下げた。しかしホアカリは、
「構わぬ。私とて、戦を何とかせねばならぬと思うておる。不甲斐ないのだ、己が」
「陛下」
トミヤはそんなホアカリの純真さが好きだ。悲しいまでに真っ直ぐな心の持ち主。
「兄上が陛下を苦しめておるのです。私がお話し致します」
堪りかねたトミヤが進言する。しかしホアカリは首を横に振った。
「それはならぬ。ナガスネはこの国の事を思うておるのだ。あの者には、野心はあれど私欲はない。だからこそ、私も戦に賛同した。しかし、今となってはその戦そのものが間違うておる気がする。如何にすれば良いのか、思案しているのだ」
「陛下」
二人は抱き合い、互いの温もりを感じ合った。
磐神家。武彦が帰宅し、バイトに出かける支度をしている。
「只今」
そこへ姉美鈴が帰って来た。
「お帰り、姉ちゃん」
「おう、今からバイトか?」
「うん」
「頑張れよ」
「姉ちゃんは?」
「今日は休講。久しぶりに休めるんだよん」
美鈴は嬉しそうだ。多分飲み明かすつもりだろう。
「飲み過ぎないようにね」
「私はいつでも適量しか飲まない!」
その適量が普通じゃないんだよな。と武彦は思った。
「あ」
その時、また声が聞こえた。
『私の声が聞こえる方、答えて下さい』
また始まってしまった。武彦は憂鬱な顔になった。美鈴がそれに気づいた。
「どうした、武? 顔色が悪いぞ」
「あ、うん。また変な声が聞こえてさ……」
「変な声?」
この前もこいつ、そんな事言ってたな。美鈴はふと数日前の事を思い出した。
「病院に行った方がいいぞ、武。手遅れにならないうちにさ」
「そうかな……」
武彦はフーッと溜息を吐いた。美鈴はあまりにも武彦が深刻な顔をしているので、
「休んだ方がいいぞ、バイト。姉ちゃんが付き添ってあげるから、病院行くか?」
「だ、大丈夫だよ」
姉ちゃんと一緒に病院に行く方が憂鬱だと思う武彦。
「行って来ます」
武彦は玄関を出た。美鈴は、
「本当に大丈夫なのかな、あのバカ……」
と呟いた。
ツクヨミはアマノイワトを出て、ヒノモトに向かっていた。アキツも同行している。
「アキツ様、やはり私一人で行きます。お戻り下さい」
ヤマトとヒノモトの国境付近まで来て、ツクヨミはもう一度言ってみた。
「いえ。私も行きます。行かねばなりませぬ。この国の災いを取り除くのが、我が務めなのです」
「はい……」
アキツは決して退くつもりはない。ツクヨミはそれを感じて、遂に彼女を説得するのを諦めた。
「ここより先は、両軍が対峙する所です。とても危うき場です。お気をつけ下さい」
「はい」
アキツがスッとツクヨミに貼り付くように歩く。ツクヨミには、軍隊よりアキツの方が脅威であった。彼女の身を案じているので、同行しないで欲しいというのも本音だが、それ以上にアキツがそばにいると、術をうまく使えないかも知れないと思うのだ。
「ツクヨミ殿……」
アキツはツクヨミが緊張しているのを感じ取り、声をかけた。
「は、はい」
ツクヨミはアキツを見た。アキツは顔を近づけて、
「心安らかに。そうすれば、うまくいきます」
「はい」
心が安らかにならないのは、貴女がこれほど近くにいらっしゃるからです。ツクヨミはそう言いたかった。
その頃、ヤマトの国にはイワレヒコが戻っていた。
「姉上、お久しゅうございます」
イワレヒコは皮肉混じりにイスズに挨拶した。イスズは震えながら、
「ご無事で何よりでございます」
と返した。イワレヒコはニッと笑い、
「さて。戦場での疲れを癒して頂きたい」
と言うと、ドスンと部屋の中央に胡座をかいた。
「はい」
イスズは琴を取り出し、弾いた。彼女は楽師と呼ばれる。楽器を奏でる事により、様々な効果を生じさせるのだ。とりわけ、イスズの琴は癒しの効果が大きく、軽い怪我ならその音で治癒してしまう。
「相変わらず姉上は琴の名人。聞き惚れる」
イワレヒコはそう言いながら、琴を奏でるイスズに近づいた。
「はっ」
イスズは一瞬のうちに組み伏せられた。イワレヒコはイスズに馬乗りになり、彼女の服の裾を捲り上げた。
「このイワレヒコ、いつ戦場で命を落とすやも知れませぬ。そうなる前に、姉上に我が子種を宿したい」
「……」
虚を突かれ、イスズは何も言い返せない。身体も硬直して、反抗できない。もはやこれまでかと思われた時、
「イワレヒコ、おるか?」
ウガヤの声がした。イワレヒコは舌打ちして起き上がり、
「只今参ります」
と部屋を出た。イスズはようやく硬直が解け、起き上がった。
「ツクヨミとアキツが?」
イワレヒコの大声が聞こえて来た。イスズはハッとして戸口に駆け寄り、聞き耳を立てた。
「ツクヨミとアキツが、ヒノモトに赴いたらしい。国境の伝令からの報告じゃ」
ウガヤの声が聞こえた。イスズはハッとした。
(ツクヨミとアキツ様がヒノモトに?)
「何をするつもりか、あの二人」
イワレヒコの苦々しそうな声が聞こえた。




