三十六の章 武彦の本音、美鈴の不安
武彦は重い足取りで家に帰った。
「只今」
玄関の鍵がかかっていないという事は、姉美鈴が帰宅しているという事だ。今日はいつもより早い。
「お帰り、武彦。待ってたよ」
姉は感情が見えないような表情で武彦を出迎えた。
「あ、うん」
そのまま、まるで容疑者が連行されるような雰囲気で、武彦は姉について行く。
「朝の話だけどさ、何?」
姉はキッチンの椅子に座るなり俯いたままの弟に切り出した。武彦はビクッとして、
「う、うん……」
と顔を上げ、姉を見た。そして、意を決した。
(頭がおかしくなったと思われてもいい。とにかく、全部話そう)
彼は隠し事をしている事の方が辛かったのだ。
武彦は、異世界の住人であるアキツに呼ばれて、「オオヤシマ」という国に行った事、そのアキツが幼馴染の都坂亜希に瓜二つな事、自分の魂が降ろされたイワレヒコの姉イスズが、美鈴にそっくりな事、二人の母タマヨリが、母珠世にそっくりな事を話した。
「それで?」
姉は全く信用していない顔をしていた。それは最初からわかっていたので、武彦はそれほど悲しくはなかった。
「それで、オオヤシマにヨモツって言う闇の国が侵攻して来て、アキツさん達が危ないんだ」
「危ないのはあんただよ、武!」
とうとう美鈴は怒り出して立ち上がった。武彦はここまで我慢してくれた姉に感謝したいくらいだった。
「どうしちゃったの、あんた? そんなバカげた話を姉ちゃんに聞かせて、どういうつもり?」
全く正当な疑問だ。武彦には何も言い返せない。
「やっぱり、もう一度病院に行こう、武。姉ちゃんがついて行ってあげるから」
「僕は狂ってなんかいないよ、姉ちゃん!」
武彦は生涯で一番大きな声を出した。美鈴も弟の大声に驚いて椅子に座ってしまった。
「本当の話なんだよ。嘘でも妄想でもないんだ」
「……」
姉は言葉を失っているようだ。武彦は続けた。
「こんな話を信じろって言うのは無理かも知れないけど、本当に本当の話なんだよ。僕はおかしくなっていないよ、姉ちゃん」
姉はジッと弟を見た。その目は悲しみに満ちていた。涙が溢れそうになっている。
「わかった。今日はバイトを休め、武。母さんが帰ったら、もう一度その話をしろ」
「うん……」
姉は理解をしてくれたのではない。自分には手に負えないと判断し、母に委ねる事にしたのだ。
「姉ちゃんは出かけるけど、お前は家にいろよ」
「うん」
姉の言う通りにするしかない。
しばらくして、美鈴は大学に出かけた。武彦を見る目は、相変わらず悲しそうだったが、母の携帯にメールで事情を伝え、母に任せる旨を書くと、後ろ髪を惹かれるようにして玄関を出て行った。
武彦も、コンビニの店長に電話し、具合が悪いので休むと嘘を吐いた。
(昨日もバイト行けなかったのになあ)
気が重くなる。母はどんな顔をするだろう? 姉は母に何と伝えたのだろう? 母も自分の事をおかしくなってしまったと思うのだろうか? 不安だった。
「?」
携帯が鳴る。亜希からだ。武彦は何だろうと思い、出た。
「武君、大丈夫?」
亜希は部活の帰りにコンビニにより、武彦が病欠だと知って驚いたらしい。
「ごめん、ちょっといろいろあって、休んだんだ」
「脅かさないでよ」
亜希はそう言ってから、
「今一人?」
「うん、一人だよ」
「遊びに行っていい?」
亜希からそんな事を言われたのは、小学校以来だ。
「い、いいけど」
「じゃ、今から行くね」
何だろう? 亜希が来るのはかまわないけど、その間に母が帰って来ると、話がややこしくなりそうだ。武彦は逃げ出したくなった。
「今晩は」
亜希が玄関から入って来る。
「上がって」
「うん」
いつになくドキドキする。今までは、亜希が怖くてドキドキしたのだが、今日は違う理由でドキドキしているのだ。
(可愛いよなあ、亜希ちゃんて)
改めて、靴を揃えている幼馴染をマジマジと見てしまう。
「な、何よ、武君?」
亜希は武彦の視線に気づき、振り返った。
「あ、ごめん。どうしたの、急に?」
「誰もいないって言うから、心配だったの。武君てさ、具合悪くても言わないタイプだから」
武彦の事を心配して来てくれたのだ。
「具合悪いっていうのは、嘘なんだよ。だから大丈夫だよ」
「どうして嘘吐いたの?」
当然の疑問だ。今日は返答に窮してばかりいる武彦である。
「いや、何となく……」
頭を掻いて、笑って誤魔化す。亜希はフウッと溜息を吐き、呆れた顔をした。
二人はキッチンに行き、向かい合って座った。さっきまで美鈴が座っていたところに亜希が座る。
(どうしよう? 母さんが帰って来たら、亜希ちゃんには帰ってもらおうかな?)
でも、ある意味では「関係者」である亜希にも、真実を打ち明けた方がいいかも知れない、とも思う。
(でも、かあさんはともかく、亜希ちゃんには絶交されそうだしなあ)
「学校でも様子が変だったから、やっぱり具合が悪いんじゃないの? さっきからボンヤリして……」
亜希の声にハッとする。
「ほ、ホントに何ともないんだよ。元気だよ」
そう言えば言うほど嘘に聞こえそうだ。
「そう?」
亜希はムッとした。武彦は胸が痛んだが、まだ迷っていた。
(母さんだけに話して、それから考えよう)
しかし、母の対応次第では、武彦は入院させられてしまうかも知れない。
(どうしたらいいんだろう?)
堂々巡りである。その時、
「只今」
と母の声がした。
「あれ、おばさん、今日は早いね」
亜希が立ち上がる。武彦も慌てて立ち上がり、
「そ、そうだね」
と言うと、素早く玄関へと向かった。
「あ、武君!」
亜希もそれに続いた。
「あら、亜希ちゃん、いらっしゃい」
「お邪魔してます」
母と亜希が笑顔で挨拶し合う中、武彦は気が気ではなかった。
「おばさんが帰ったのなら、安心ね。じゃあね、武君」
「う、うん」
「あら、もう帰っちゃうの、亜希ちゃん?」
何故亜希が来ていたのか知らない珠世は、キョトンとした。
「はい。お邪魔しました」
亜希はニコッとして手を振り、玄関を出て行った。それを見届けてから、
「隅に置けないわね、武彦」
母がニヤッとして武彦を見る。
「そ、そんなんじゃないよ」
武彦は慌てて否定する。母はすぐに真顔になって、
「美鈴が妙なメールを送って来たから、母さん、今日はシフトを変えてもらったのよ」
「え?」
どんな大袈裟な事を書いたのだろう、姉は? 武彦は頭が痛くなりそうだった。
「さ、話を聞かせて、武彦」
母はキッチンへと歩き出した。
そして武彦は、気が狂ったと思われるのを覚悟で、美鈴に話したのと同じ事を、珠世にも話した。珠世は呆れて怒り出すかと思ったが、反応が違った。
「そうか。ひいお祖父ちゃんの血を一番強く引いていたのは、あんただったんだね」
「は?」
珠世の言葉に、今度は武彦が、
(母さん、ショックでおかしくなったのかな?)
と思ってしまった。