オオヤシマ記 イワレヒコ伝

三十五の章 武彦の憂鬱、ツクヨミの戸惑い

　遂に神剣アメノムラクモを手にした磐神（いわがみ）武彦（たけひこ）。戦いはこれで動くのだろうか？

「ヤソよ、油断するな。あの者の持つ剣は、アメノムラクモぞ」

　相棒である雷の魔物ヤソマガツの元に戻った黒い炎の魔物オオマガツが囁く。

「アメノムラクモ？　聞いた事もなし。恐るる程の物か？」

「身をもって知るしかあるまい」

　自分の言葉を大袈裟と思うヤソマガツに、オオマガツはムッとした。ヤソマガツはすでにクシナダとウズメを追い詰めていたのだ。

「うう……」

　クシナダもウズメも、ヤソマガツの放つ雷（いかずち）を掠められ、傷ついていた。

「ヨモツめ……」

　ウズメは歯軋りしてヤソマガツを睨む。クシナダが、

「私の水は魔物には効きませぬが、ほんの一時（ひととき）、足止めができまする。その隙を突いて、仕掛けて下され」

「承知しました」

　ウズメは、クシナダが自分を犠牲にして彼女を先に行かせるつもりだとは思っていなかった。

　タジカラとスサノは、武彦と共にウズメ達のところへと急いでいた。

「ウズメ、無事でいてくれ……」

　タジカラは自分の迂闊さを恥じていた。

（ウズメとクシナダ殿を残して離るるなど、あるまじき事だ。何と愚かな！）

　スサノも焦っていた。

（クシナダの水を弾き、ウズメ殿の海神（わたつみ）すら受け付けぬとは、何という魔物なのだ）

「先に行きますよ！」

　武彦の馬が先行する。しかも、タジカラ達が追いつけないほどの速さだ。

『武彦よ、我を抜くのだ。我の光を身に纏い、魔物を斬るのだ』

「はい！」

　武彦は馬上で抜刀した。するとアメノムラクモが輝きを増し、武彦と馬をその光で包んだ。

「何じゃ？」

　武彦の放つ光に気づいたオオマガツは、

「アメノムラクモを持つ男が来るぞ」

「イワレヒコであろう。彼奴（あやつ）は愚か者よ。力にしか頼れぬ男だ」

　ヤソマガツは、まだ相手を見くびっていた。

「えい！」

　その隙を突き、クシナダが二体の魔物を水の縄で縛った。

「このような術、効かぬと言っておろう？　わからぬのか、愚か者め！」

　オオマガツが怒鳴り、水の縄を切ろうとする。

「させぬ！」

　クシナダは続けざまに水を放ち、オオマガツとヤソマガツを縛り上げた。

「ウズメ殿、早うホアカリ様のところへ！」

　クシナダは苦しそうな顔でウズメに叫んだ。

「ですが、クシナダ殿……」

　ウズメはその時クシナダの考えに気づいた。

「早う！　もうすぐお館様（やかたさま）が来ます。ここは大事ありませぬ」

「わかり申した！」

　ウズメは馬を駆り、その場から駆け出した。

「行かせぬぞ、女あ！」

　ヤソマガツは雷撃を放った。

「そのような事、許さぬ！」

　クシナダの水が走り、雷撃を吸収する。

「ぐ……」

　その衝撃はクシナダに伝わった。ガクッと膝を折る。

「死ぬるつもりか、お前は？」

　ヤソマガツが不思議そうな顔でクシナダを見下ろした。

「クシナダァッ！」

　スサノが雄叫びを上げ、炎の剣を振り回しながら駆けて来る。そしてその前を光に包まれた武彦が来る。

「オオよ、分（ぶ）が悪くなったぞ」

　ヤソマガツが呟いた。オオマガツは水の縄を断ち切り、

「もはや十分に時を稼いだ。我らの役目は終わった。行くぞ、ヤソ」

「うむ」

　武彦の斬撃が届く寸前に、二体の魔物はフッと姿を消してしまった。

「ああ！」

　空振りをし、武彦はグラッと揺れ、馬から落ちそうになった。

「逃げたのかな？」

『そのようだ。いや、逃げてくれたのだ。あのまま留まられれば、味方が幾人か死んでいた』

　アメノムラクモの冷静な言葉が聞こえた。

「そう、なのかな……」

　武彦は馬を下り、蹲（うずくま）っているクシナダに近づいた。

「大丈夫ですか、クシナダさん？」

　クシナダはその声に反応して顔を上げ、

「ありがとうございます、たけひこ様。大事ありませぬ」

と答えたが、顔は辛そうだった。

『武彦よ、クシナダに手をかざせ。お前には、癒しの力がある』

「は、はい」

　武彦はクシナダに右手をかざした。武彦の手の平から、緩やかで温かい光が放たれる。すると、雷撃で傷ついた彼女の美しい顔が元に戻った。更に雷撃の衝撃で弱っていた身体も、たちどころに回復した。

「？」

　何が起こったのか理解できないクシナダは、武彦を見上げた。

「もう大丈夫ですよ、クシナダさん」

　武彦はニッコリとした。クシナダは武彦の力で身体が回復した事に気づき、

「勿体のうございます」

と地面に平伏（ひれふ）した。武彦はクシナダの行動に驚き、

「そんな、やめて下さい。僕達は共に戦う仲間じゃないですか。当たり前の事をしただけですよ」

「たけひこ様」

　クシナダは武彦の優しい言葉に目を潤ませた。

「クシナダ」

　スサノが馬を飛び降り、駆け寄った。

「お館様」

　クシナダは目を潤ませたままで、

「たけひこ様が、お助け下さりました」

「おお」

　スサノは跪き、

「かたじけのう存じます、たけひこ様」

と頭（こうべ）を垂れた。武彦は照れ臭くて頭を掻いた。

「クシナダ殿、ウズメはどうした？」

　タジカラが追いつき、尋ねる。クシナダは立ち上がり、

「ホアカリ様のところへ向かいました」

「そうか。我らも急ぎましょう、たけひこ様」

　タジカラがそう言った時、武彦は自分に異変が起こっているのを感じた。

「あ」

　彼に限界が訪れたのだ。武彦は自分の世界へと戻ってしまった。

「おお！」

　いきなり魂が抜けたように倒れ伏すイワレヒコを、スサノとタジカラが支えた。

「たけひこ様が異界にお戻りになったようだ」

　タジカラが言った。スサノはクシナダを見て、

「イワレヒコ様のお身体をアマノイワトに運んんでくれ」

「はい」

　クシナダは微笑んで答えた。

「行くぞ、スサノ」

「おう」

　タジカラとスサノは、ホアカリを目指す死人の軍団を追った。

「は」

　武彦は目を覚ました。自分の世界に戻った事に気づくのに、時間がかかる。

（戻ったのか、僕）

　途端にオオヤシマの事が心配になる。

（大丈夫だろうか？）

「こら、磐神、ぼんやりするな」

　先生の声が聞こえた。

「す、すみません」

　武彦は慌てて謝った。ふと見ると、心配そうな都坂（みやこざか）亜希（あき）の顔が見えた。

「どうしたの、武君？　最近、また変だよ」

　休み時間に亜希が声をかけて来た。

「そう？　そんな事ないんだけどなあ」

「呑気ね、全く」

　亜希は心配しているのに何も感じていない武彦の事がもどかしいのだ。

「ごめん」

「別に謝らなくてもいいわよ」

　そう言いながら剥れる亜希の唇を見ているうちに、武彦は亜希とのキスを思い出してしまった。

「どうしたの？」

　亜希は急に赤くなった武彦に気づき、顔を覗き込んだ。

「き、昨日の事、思い出しちゃった……」

　武彦の呟きに、亜希もボッと赤くなる。

「バ、バカ！」

　彼女はクルッと背を向けて立ち去ってしまった。

「はあ」

　そして、姉美鈴に真相を打ち明けようと決意した事を思い出す。

「ふう」

　気が重くなる武彦だった。