十五の章 ナガスネの悲願、オモイの策略
ヤマトの国の長子であるイツセは、早馬で届けられた父王ウガヤの命令書を読んで驚愕していた。
「何という事を……。ツクヨミはいざ知らず、アキツ様を討てとは、父上はご乱心されたのか?」
イツセは計り知れない衝撃を受けた。
「城に戻る。父上と話さねばならぬ」
イツセは軍を率いて、ヤマトの国へと戻り始めた。
タジカラは、イワレヒコの身体が武彦に変わっている事を知らないため、イワレヒコが豹変したのを信じられないでいた。
「私を偽者と思うか、タジカラ?」
イワレヒコが尋ねた。タジカラは自分の心が見透かされたようで、ギクッとした。
「いえ、そのような事は思っておりませぬ。あまりに思いもよらぬお言葉故、驚いただけにございます」
タジカラは頭を下げて弁明した。
「ならば、軍を退くが良い。私も同行しよう」
「はは」
タジカラは救いを求めるようにウズメを見た。ウズメは只頷き、
「イワレヒコ様のお言葉通りに」
と言っているかのような目でタジカラを見た。タジカラは考えるのをやめ、立ち上がった。
「全軍、城に戻るぞ。支度致せ!」
タジカラの大声が遥か後方の兵にまで届いた。タジカラはイワレヒコを馬車に乗せ、自分達も乗り込むと、先陣となり、ヤマトへと戻り始めた。
『ツクヨミさん』
イワレヒコの中の武彦は、心の中でツクヨミに話しかけた。実は、ツクヨミが姿を消して、武彦の代わりにイワレヒコの声を真似て喋っていたのである。武彦は只口を動かしていたのだ。
『はい、たけひこ様』
『大丈夫なんですか、このままで?』
『大丈夫にございますよ』
『そ、そうですか』
ツクヨミの力強い言葉に、武彦はホッとした。ツクヨミは完全に姿を消していたが、何故かウズメが自分を見ているような気がしてならない。
(彼女も舞踏師と言う特別な存在。もしかすると、私の気を感じているのかも知れぬ)
しかし、見えてはいないとツクヨミは安心していた。
「全軍、支度整ったな」
タジカラが窓の外に気を取られている時、
「ツクヨミ殿ですね」
とウズメが小声で話しかけて来た。
「私が見えるのですか?」
ツクヨミは驚いて小声で尋ね返した。ウズメはクスッと笑い、
「見えはしませぬ。ですが、貴方の気は感じます」
「そうですか。実は……」
ツクヨミは慌てて説明しようとしたが、
「ご心配には及びませぬ。貴方の志は良くわかっております故。また後程」
ウズメはそう言うと、タジカラと話を始めた。
(やはりな……。ウズメ様なら、気づくとは思ったが……)
ホアカリは、斥候からの報告で、タジカラ軍が引き上げて行く事を知った。
「退いてくれたは良き事なれど、如何なる事が起こっておるのか、全くわからぬ」
ホアカリは尚も不安になっていた。
「ナガスネ様、ご到着にございます」
兵が告げた。
「陛下!」
ナガスネはスサノ、クシナダを伴い、玉座の間に入って来た。
「大儀であった、ナガスネ。タジカラは退いたぞ」
ホアカリがようやくホッとして言った。するとナガスネは、
「すぐに追い討ちをかけまする」
と出て行こうとした。
「待て、ナガスネ。追う必要はない。タジカラは戦上手ぞ。追い討ちはいかん」
ホアカリは強い口調で言った。ナガスネは仕方なく跪き、
「はは」
と従った。そして、
「うぬらは、出陣の支度をしておけ。折りを見てヤマトに向かう」
と小声でスサノに言った。
「はい」
スサノとクシナダは、ホアカリとトミヤに深々と頭を下げ、退室した。
「ナガスネ」
ホアカリが声をかける。ナガスネは顔を上げて、
「はい、陛下」
ホアカリはニッコリとして、
「良い機会じゃ。ヤマトと和議を結ぶ事はできぬか?」
「何と!」
ナガスネはホアカリの出し抜けの提案に仰天した。
「何を仰せです、陛下。そのような下手話は、ヤマトから申す事。こちらからではありませぬ」
ナガスネの顔が険しくなった。ホアカリは思わずトミヤに救いを求めた。トミヤは夫に頷き、
「兄上、そのようなお考え、お捨て下さい。このまま戦を続けては、民が苦しむばかりです。どうか陛下のお言葉に従い、和議をお進め下さい」
しかし、ナガスネは聞く耳持たなかった。
「如何に陛下のお言葉と言えども、それは聞けませぬ。陛下は長兄なのですぞ。弟君のウガヤ様の方から、そのような話が出て然るべきなのです」
「しかし、ナガスネ……」
ホアカリが異を唱えようとしたが、
「いいえ、私は和議など致しませぬ。何としてもヤマトを平伏させて、ホアカリ様をオオヤシマの王にするが、我が願いにございます」
ナガスネは涙を浮かべて力説した。ホアカリは困り果て、トミヤを見た。トミヤも兄の頑固さに唖然としていた。
(噂では、兄上はヨモツに魅入られていると言う……。それは真であったか?)
イツセの軍はヤマトの城に帰還して、玉座の間に向かった。
「何故戻って来たのか、イツセ!?」
ウガヤは激怒してイツセを問い質した。イツセは跪いて、
「父上、アキツ様を討つなど、天に背くと同じ大罪にございます。お考え直し下さい」
と諫言した。ウガヤはその言葉にますます怒り、
「戯けた事を申すな! アキツなど、もはや何者でもない! 我が行く手を阻む者は、全て死ぬるのだ!」
この人はかつて自分が尊敬した父ではないとイツセは落胆した。それは妃であるタマヨリも同じであった。
「これは申すまいと思うておりましたが、このままでは、ヨモツが蠢きますぞ。オオヤシマは今、悪しき気が覆い尽くしております。危うき事です」
イツセは殺されるのを覚悟で、ウガヤに言った。するとウガヤは、
「この腑抜けが!」
と剣を振りかざし、イツセに斬りかかった。イツセはそれをかわし、ウガヤから剣を取り上げて、右手をねじ上げた。
「血迷われましたか、父上! 心をお鎮め下さいませ!」
イツセは涙を浮かべて訴えた。
「放せ、イツセ! 国王に対して無礼であろう!」
ウガヤの怒りは、尋常ではなかった。イツセはウガヤを押えつけながら、オモイを睨んだ。
「オモイ、うぬは父上に何事かしたのか?」
「滅相もございませぬ」
オモイは平伏して答えた。しかしイツセに見えぬところで、ニヤリとした。
(オオヤシマが揺れている……)
イツセは恐ろしい未来を感じていた。
「イワレヒコ様、お着きにございます」
兵が伝えた。イツセはギョッとした。
「イワレヒコが? どういう事だ?」
彼は兵に尋ねた。兵は跪き、
「タジカラ様とご一緒にお戻りです」
とだけ答えた。
「如何なさいましたか、兄上?」
イワレヒコがタジカラとウズメを従えて玉座の間に入って来た。イツセはイワレヒコに斬られると思ったが、いつもの猛々しさがないイワレヒコに、少しだけ違和感を持った。
「父上がアキツ様を弑するとおっしゃったので、お諌めしていたのだ」
イツセはウガヤの右手を放し、イワレヒコに説明した。イワレヒコはよろけたウガヤを椅子に座らせて、
「父上、それはなりませぬ。アキツ様を弑すれば、オオヤシマはまさにヨモツのものとなりますぞ」
イワレヒコのその言葉に、イツセもウガヤも、そしてタマヨリまでもが驚いた。
「オオヤシマを覆う悪しき心が、ヨモツを蠢かせております。私は、アマノイワトでそれをはっきりと感じました」
「……」
ウガヤはイワレヒコのあまりの変わりように声もない。イツセも同じだ。オモイは、イワレヒコの変化にすっかり驚愕していた。
「イワレヒコ、ようやく其方もわかってくれましたね」
タマヨリが涙を流して言った。すると、
「えっ、か、母さん?」
とイワレヒコの中の武彦が、つい声に出して言ってしまった。
「は?」
ほんの一言だったので、他の者は聞き取れなかったようだったが、タマヨリとオモイにははっきりと聞こえてしまった。
『どうされたのです、たけひこ様?』
ツクヨミが語りかける。武彦は、
『ごめんなさい、ツクヨミさん。あの女の人が、僕の母親にそっくりだったので』
『そうなのですか』
ツクヨミも、その偶然に驚いたが、
『今後はお気をつけ下さい』
『はい、すみません』
アキツは亜希にそっくり。タマヨリは珠世にそっくり。武彦は動揺していた。
「……」
そんな武彦の動揺をオモイは見逃さなかった。
(イワレヒコ様が妙だ。一体どうしたのだ?)
彼はジッとイワレヒコを見ていた。