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遅々とした話ですが、レティーシアの不幸と試練が続きます。切りどころがわからなくて長くなってしまいました・・・夜にもう一話投稿予定です。
胸に浮かんだ疑問は消えないままでも、叔母や従妹が離れた寂しさを埋めてくれたのはライザックだった。
沈みがちだったレティーシアを、少しずつ他人と会わせるようになった。シグルンの部下や、クリデミアの貴族たちとこれからのこの国の話をすることも許された。もちろんライザックが側にいることが前提だったので、いつの間にか昼間に顔をあわせていることも多くなっていた。
知りたいと言えば、暇をみつけていろいろな知識を授けてくれることもある。
ほんの数ヶ月前には考えられなかったほど、穏やかな日々だった。
だが、それがまやかしにすぎなかったことを、レティーシアはやがて思い知らされる。
***
「・・・・え・・・っ」
初めてその報告を聞いたとき、レティーシアの頭は事実を理解しようとしなかった。
最近になってようやくうちとけてきたシグルンの侍女が、痛ましそうに繰り返す。
「お父上にご不幸があった・・・と。ライザック様が至急お呼びでございます」
不幸、とはすなわち死を意味する。
さっと一気に血が引いて、めまいがする。
だが、その前に隣にいたアーヴが倒れこんだ。
「アーヴ!」
「・・・も、申し訳ありません、姫様。私は平気で・・・それよりもお早く・・・っ」
だからこそ、レティーシアは気丈に耐え、自分の足で侍女の後をついていくことができた。
だが、その間中どくんどくん、と心臓が嫌な音を立てて、吐き気がする。
歩いてはいるものの、その実感がなかった。
西の棟の入り口に、多くの兵とライザックの姿があり、それを見たら我慢できなくなった。
「ライ・・・っ、とうさま・・・父様に何が・・・・っ」
もつれる足で倒れ込むようにぎゅっと彼の服を掴んだレティーシアの手は震えていた。
真っ青になっている彼女をライザックが支えるように抱きしめる。
「何が、何があったの?どうして、急に、いったい何が・・・」
「気を・・・しっかり持て」
低くゆっくりと労りを乗せた声での残酷な言葉だった。
父は今ではたった一人近くに残った肉親だ。
その父が死んだとなれば到底正気でいられないことわかっているだろうな。
だが、ライザックの瞳、そして、何度か言い淀むようなためらう態度がから、何か深い意味合いを見て取って、レティーシアは必死で激情をおさえこもうとした。
そうしなければいけないと思った。そうでなければ本当のことを教えてもらえない気がした。
だから人前での口調に戻した。
「教えてください」
じっと背の高い彼を見上げると、ライザックはもう一度だけぎゅっとレティーシアを抱きしめると、肩に手を置いたまま彼女を放した。
「・・・何を聞いても後を追おうと考えたりするな。わかるな?」
「・・・・・・・はい」
「気が触れることも許さない。お前は・・・俺にもこの国にも必要な人間だ。覚えておけ」
「はい」
相当の覚悟をしろということだろう。
レティーシアは震えながらもそれでもまっすぐに視線を彼を見続けた。
もう何も知らないのはたくさんだ。
何も知らないで結果だけ受け入れろというのは、もうたくさんだった。
それを見て、ライザックは頷く。
レティーシアは大きく深呼吸をすると、ピンと姿勢を正し、しっかりとした声で尋ねた。
王族の生き残りとして、気丈に。
「父様は何故お亡くなりになったのですか?」
「・・・ご自害なされた」
「―――!?」
衝撃的な事実だった。
「・・・なぜ・・・。先の争いの責任を・・・?」
「おそらくそれもある。・・・・だが」
ライザックはそこで口ごもった。
もう一度レティーシアを見つめ、息を吐くとようやく言葉を発する。
「お前が弱くない人間だと信じて・・・渡そう」
彼は部下に何かを持ってこさせた。
羊皮紙のようだ。
それをレティーシアに渡した。
「・・・・父様の字?」
両手に収まる程度のそれにはレティーシアに宛てて一言だけ書かれていた。
“つらい思いをさせてすまない。許してくれ”と。
「どういうこと・・・ですか?」
「不要なことは伝えないよう徹底させていたが、誰かが、お前の境遇を父君に伝えたらしい。・・・娘の犠牲の上に命があると知った彼は、死を選んだ」
今度こそ完全に目の前が真っ暗になった。
一気に体から力が抜ける。
その場にへたり込みそうになったレティーシアをライザックがかろうじて支えた。
「・・・じゃ、あ、じゃあわたしのせい・・・で?」
「お前じゃない。俺だ。俺がお前から父親を奪った」
呆けたように呟くレティーシアを強く抱きながら、彼は言った。
「俺が元凶だ。お前のせいじゃない」
だから俺を憎め、と。
自分を責めず、俺だけを憎めばいい、と。
周りでライザック以外の人が何か言っている。
だが、レティーシアにはもう聞こえてこなかった。
ただライザックの言葉だけを自分の中で反芻する。
「・・・ライの・・・せ・・・?」
「・・・それでいい」
彼の手が身じろぎひとつしないレティーシアの頭を撫でる。
とても柔らかな優しさすら感じる手つきで。
しかし、人前でそのようなことをされても何の反応も返さない彼女は、いつものように憎しみをその瞳に映していなかった。
「レティーシア?」
ライザックのせいだと思えば、憎しみこそが沸いて気力を取り戻すかもしれないとした彼の思惑は外れた。
レティーシアは彼の腕を振り払うことすらせず、ただ立ち尽くす。
ライザックが訝しげにレティーシアの頬に触れ、軽く指で叩くと、彼女はようやくのろのろと顔をあげた。
「・・・・・がう・・・・」
「何だ?」
声を発したことにほっとしてライザックが問いかける。
レティーシアはいつもと違い感情のない瞳のままで、それでも言葉を続けた。
「・・・違う。・・・あなたのせい、じゃない・・・違うんです」
一度声にして勢いがついたのか、レティーシアがしっかりとライザックと瞳をあわせる。
「こうなる、運命でした。だから、あなたのせいじゃないです。・・・すべては父様がひきおこしたことだから」
「レティーシア・・・」
「ここにいるのがあなたでなければ・・・とうの昔に父様のお命はありませんでした。私も、他の家族もです。あなたはできる限りのことをしてくれた。だから、責める気はありません。温情でいただいた命を捨てた。これが父様の意志なら・・・私は受け入れるほかありません」
澱みない敬語口調は、まるで何かに操られてさえいるかのようだった。
ここ最近は生来のくるくると変わる表情を取り戻し始めていた彼女の面差しに浮かぶ表情すらないことが、更にそれを周囲に強く思わせた。
「父様は父様なりに責任をお取りになられたのです。・・・仕方のないこと、です。だから誰も憎みません」
いまレティーシアを動かしているのは幼い頃から叩き込まれてきた王族のプライドだった。
弱みを見せるな、利用されるな、漬け込まれるな。
弱いなら弱いながらも自ら立て。
王族が自らの救いだけのために支えを持とうとすれば、それは民を惑わせることにしかならない。
元々王権の弱いクリデミア王家で、わずか数年ながらも女王として王位についた憧れの先祖の言葉を思っていた。
絶望し、感情を殺いだ中で残っていたのは、その意地だけ。意地に従うことだけが今の彼女にできる精一杯だった。
仮にも王家を滅ぼしたシグルンの人たちの前で喚き、泣き崩れ、同情と嘲笑を得ることは、クリデミア最後の直系王族としてできなかった。
「・・・ごめんなさい。それだけしか・・・言えません」
レティーシアはそっとライザックの体を押し返した。
彼はそれに逆らわずに、レティーシアから手を離してくれる。
「部屋に戻っていろ。後はこちらで処理をする。呼ぶまで部屋から出るんじゃない」
「・・・・わかりました」
ライザックの言葉に、レティーシアはすぐに従った。
護衛に囲まれ、ふらつくかと思われた足取りはしっかりしたまま、来た道を戻っていく。
その細い背を見ながら、年若いシグルン兵がぽつりと言った。身分は低いが異国までついて来たライザックの側近の一人だ。
「気丈な方ですね。涙一つ見せず、父親の死を受け入れるとは」
ライザックの前でレティーシアに関して発言できるのは、彼と付き合いが元々ある人間だけだ。レティーシアに関わっても良いとライザックが判断した者でもある。
そうでない人間は無表情のまま「その目も口も不要だな」と平気で首を締め上げられる。
ちなみにライザックにそうされた人間は数日以内に姿を見なくなる。
なお、たとえレティーシアとの関わりを許可されている者であっても、ライザックがたまたま機嫌を損ねていれば、大した話でなくとも恐ろしい目つきで睨まれげっそりと気力が削がれるという恐怖体験をするため、ほとんどレティーシアのことを"言葉に乗せる"者はいない。
「・・・泣けないんだ」
しかし今は誰にともなく呟いた言葉にライザックの低い声が答えた。
「本当につらいときは、泣けない」
喋ったことに多くの部下が驚く。
それだけ言い置いて、ライザックは棟の中に入っていった。
**
アーヴや昔馴染みの侍女たちが真相を知りたがったが、とても自分の口から語ることはできないままレティーシアは自室に閉じこもった。
だが、心がつらくて壊れそうなのに、ちっとも泣けなかった。
泣き方を忘れてしまったように、涙がこぼれてくることがない。
「・・・どうして・・・・」
ただ胸にあるのはその言葉だけだ。
どうして、自ら死を選んでしまったのか。レティーシアに「すまない」と詫びるくらいなら、どうして生きていてくれなかったのか。
「父様が生きていてくれるだけで・・・よかったのに・・・っ」
レティーシアは手の中に握り締めたままだった羊皮紙を、ベッドの上にたたきつけた。
感情の高ぶりに、その仕草だけで息が切れる。
レティーシアはぺたんと絨毯に座り込み、顔だけをベッドに預けた。
「生きていてくれれば・・・それだけで、よかったのに」
たとえ会えなくても。
遠くから目にすることができるかもしれなかった。
いつか手紙を書くことくらい許されるようになるかもしれなかった。
だが、それももう叶わない。
『お前だけは逃げなさい』と言った最後の言葉と、『許してくれ』と詫びた遺書の文字が頭の中でごっちゃになった。
どちらもレティーシアの言葉に二度と応えてくれるものではない。
他の近しい肉親は守った。
そして遠くに行ってしまった。それは後悔していない。
だが、同じ王宮内、一番そばにいた父は、この状況のレティーシアを見捨てて一人で手の届かないところに行ってしまったのだ。
「・・・う・・・」
目頭が痛い。
ようやく涙が出るのかと思ったが、そうでもなかった。
泣ければこの悲しみも少しは薄れるかもしれないのに、何度瞬きをしても胸の痛みが雫になることはない。
「とうさま・・・・」
ぎゅっと投げつけた遺書をまた手の中に握り締めた。
苦しくて苦しくて・・・もうどうしていいのだかわからなかった。
それからどれくらい経ったのかわからなかったが、部屋の中が何も見えなくなるほど真っ暗になった頃に、外から明かりが漏れてきた。
扉が開けられたのだ。レティーシアに無断で入ってくるのは、一人しかいない。
「・・・・ライ」
「明かりぐらいつけろ」
ライザックが部屋のランプの光をつける。
オレンジ色の光が辺りを照らすのを、レティーシアはぼんやりと見つめていた。床に座り込んだまま呆けたようになっているレティーシアの前に、ライザックが片膝をついた。
「もう夜中だ。眠れないのか?」
「・・・・夜・・・?」
「そうだ。暗いだろう?」
「・・・・・暗い・・・」
レティーシアはうつろな瞳を動かした。そして外が闇に包まレティーシアいることにようやく気がつく。
「もう、夜・・・だね」
「ああ」
「・・・・・・・・父様のことは?」
長い沈黙の後に、レティーシアはぽつりと尋ねた。
その問にライザックは一瞬ためらったようだったが、率直に答えた。
「一応、公には病死ということにしておいた。後始末にあたった兵には箝口令を布いたが、口さがない噂が広まるようなことがないとは言えないな。御身柄の方はすでに神殿に移してある。後日葬儀を執り行おう」
「葬儀・・・」
その言葉に父が死んだことを改めて突きつけられた気がする。
また黙り込んでしまったレティーシアの頬に、ライザックの手が触れた。
「目が赤い」
「・・・・。でも、泣けないの・・・」
言われて初めてやたらと目が痛む理由を知った。
けれど、涙が零れ落ちることはないのだ。
「泣きたいのに、涙がこぼれない。こんなに・・・こんなに、悲しいのに」
ライザックの紫色の瞳が近くにある。
変わりにくい彼の表情からでもレティーシアを心配いるのだろうことがわかった。
ずきんと心が揺さぶられた。
どうして欲しいのか分からなかったが、ただレティーシアは素直に感情を吐露し続けた。
「苦しくて、気が狂いそうなほどなのに・・・涙が出てこない。私、どこか壊れたのかな・・・それとも悲しいって本当は思えてないのかな・・・だから泣けないの?心がおかしいの・・・」
「もういい」
黙れ、と突然唇をふさがれた。
各々つかまれた手を振り払う気力もなくて、レティーシアはただ受け入れただけになる。
だが、手の中にずっと握り締めたままの羊皮紙を取られそうになったときにはひどく抵抗した。
「やめてっ!」
「こんなものをずっと持っているからだ」
「やめてよ!父様の・・・最期の言葉なんだからっ」
奪い取られてレティーシアの目がきつい光を放つ。
だがライザックは完全に表情を消してひどい言葉を投げつけてきた。
「死んだ人間に囚われるな」
「な・・・・」
「お前の心を占めるのは俺だけでいい」
身勝手な言い分に、レティーシアは怒りを露にし、瞳が燃えるような輝きを取り戻した。
父の死を知らせたとき、彼が見せた労わりは、先ほどの心配そうな色は、偽りだったのだろうか。
憎めばいいと言われたからこそ、憎むことができなかったのに。
どさりとベッドに引きずりあげられた。
レティーシアは激しく抵抗する。
何度もライザックの肩や胸を拳で打ったが、ちっとも堪えてないようだった。
「やめて!父様がお亡くなりになったのにこんなことっ!」
「忘れさせてやる。好きなだけ泣けばいい」
「ふざけないで!」
つかみとられそうになった手を振り上げて、ライザックの頬に平手を打ちつけた。
ぱぁん、と乾いた音がする。
その行為にライザックは冷笑を浮かべただけで、レティーシアを解放する気配はない。
「・・・っこんな・・・あなたがこんなことをするから・・・!」
レティーシアは悔しさに唇を噛んだ。
じわりと涙が眦に浮かぶ。
・・・今まであれだけ泣きそうと思っても涙が浮かぶことさえなかったのに。
ただ、怒りでいっぱいのレティーシアはそれに気がつかなかった。
涙で歪んだ視界で、精一杯ライザックをにらみつける。
「それでいい。いつでもその瞳を忘れるな」
傲慢にライザックが言った意味を、レティーシアが理解することはなかった。
*
「・・・っう・・・ぅ・・・っく・・・・」
散々相手をさせらレティーシア、半分以上理性がなくなった頃に、レティーシアはようやく素直に泣けた。
レティーシアの赤い瞳からぼろぼろと止め処なくあふれてくる涙を、ライザックが唇でぬぐってくれる。
「つらかったな」
「・・・・・っ」
「今はいくらでも泣いていい」
溶けた頭の中に響いた優しげな声に、もっと涙が止まらなくなった。
「ぅえ・・・、え・・・っ、とうさ・・・ま・・・」
幼い頃の楽しかった思い出ばかりが脳裏によみがえる。
そうすると兄のことも思い出して、余計につらかった。
喉が引き攣るようにヒューヒューと鳴った。
ライザックが啄むように口づける。
「息をしろ、ゆっくりでいい」
「わたし・・・ひとりぼっち・・・・なっちゃ・・・」
「一人じゃない」
「と・・・さま・・・、にぃ・・・さま・・・」
「っ。・・・俺がそばにいてやるから」
だから一人じゃない、とライザックは何度も繰り返す。
「っ、あなたも、どうせどこかへ行ってしまうくせに・・・」
お前がいても仕方がないと常のレティーシアが憤っただろうが、人恋しさに苛まれている今のレティーシアはただ悲しげにこぼしただけだった。
「行かない」
「うそだ。こんな気まぐれいつまでも続くわけが・・・」
「気まぐれじゃない!俺は・・・っ」
「ひっ」
悲鳴をあげかけたレティーシアにライザックはぐっと奥歯を噛み締めた。
「・・・俺は、ずっとお前のそばにいる」
「・・・ほんとうに?」
「ああ。手放してなどやらない。・・・それくらいなら殺してやる」
恐ろしい言葉だったが、レティーシアは涙に濡れた瞳を何度か瞬き、それからうっすらと笑った。
「それなら、私、もうどこも行かなくてもいいね」
「・・・」
「また顔も知らない人に払い下げられるくらいなら、あなたに殺されたい」
自分とは違う体温をもつ背に初めて自分から腕を回した。
言われた言葉も、自分のしたことも、全部記憶には残らなかったけれど。それでもずっとレティーシアはライザックの温もりにすがりつき、やがて力尽きて眠りについた。
「・・・・・・顔も知らない、か」
そうだな、とライザックは、しとどに濡れたまつ毛を伏せて眠るレティーシアの頬を撫で、深く息を吐いた。