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遅くなってしまいました。相変わらず重苦しさしかない感じですが、カタツムリ程度には変化が見えるかな…。
「・・・・う・・・ん・・・?」
ようやく目を覚ましたときにはもう太陽が高く上っていた。いつものように、たった一人ぼっちで目覚めを迎える。
レティーシアが呼ばなければ侍女たちは入ってこない。
“レティーシア様っ、いい加減起きてください!”
“今日は姫様のお好きな蜂蜜パンですよ”
たくさんの笑い声。明るい笑顔。
それを思い出して、レティーシアはベッドの上で膝を抱えた。
今は、もうすべて過去の話だ
。昔とは状況がまったく違う。
同じ場所にいても心は冷え切るばかりだった。
「・・・う・・・う・・・っ」
起きるといつも涙が出てくる。いっそ目が覚めなければいいと思うのに、どうしてだか人の体は目覚めを迎えてしまうのだ。
どんなにみじめでも死ぬわけにいかない。
そうしなければならないと何度も何度も言い含められたからだ。
生きているだけで何かの価値があると思いこみ、ほんの少しだけ前を向く気力が湧くのを毎朝じっと養う。
起きるたびに泣いて泣いて、ようやく悔しさだけでどん底の気分から這い上がり、どうにか人前に立てるようになってからドアを開ける。
「・・・いつもそうやって泣くのか?」
「ひ・・・っ」
しかしそのルーティンに突然声を掛けられて、レティーシアはベッドの隅で飛び上がりそうになった。
なけなしの英気を振り絞るその途中で邪魔をされたので、いつものような気丈さは保てなかった。
「来な・・・で・・・」
「何故、一人のときは泣く?」
ぶるぶると震え、拒否しているにも関わらずライザックは力強い足取りで近づいてくる。
恐怖に喉が鳴った。
しかし反抗的な態度を取らない弱々しいレティーシアを見るのは初めてのせいか、彼は数歩の距離のところで立ち止まった。
「・・・寂しいのか?周りに、知り合いがいない、からか?」
普段端的にしか言葉を発しないライザックが、言いづらそうに問いかける。
しかし、黙ったままでいると、ちっと舌打ちをされた。
ぐいっと手をひっぱって、抵抗するレティーシアを腕に収めた。
「いや・・・っ」
「一人で泣くな」
「や、や・・・だ・・・っ!おねが・・・だから、離れて・・・いやっ」
ぐっと間近で奥歯をかみ締める音があったが、恐慌状態のレティーシアはそれを気に止められない。
ただ必死でライザックの存在を拒絶する。
自分を貶めた彼がそばにいることが、今はなによりつらかった。
「・・・・俺を拒絶するな」
「いや・・・!来ないで!寄らないで・・・っ」
「その言葉だけは口にするな!お前は俺のものだと言ったはずだ!」
突然すさまじい勢いで激昂され、レティーシアは肩を跳ね上げ、息を止めると大きく瞳を見開いた。
生気をなくした赤い瞳からぼろぼろとただ涙が零れ落ちる。
はっとライザックは口をつぐんだが、レティーシアはまるで心が壊れてしまったかのようにまばたきもせず、何も言わずに瞳から雫をこぼし続けた。
ライザックの手が肩から離れたにも関わらず、レティーシアは呆然と宙を見上げたままである。
ライザックが眉を寄せ、誰かを呼びに行くべきか出口に視線を向けた。
息苦しいまでの鋭い視線がレティーシアから外れてると、レティーシアが突然立ち上がり、ふらっと窓辺に向かう。
「・・・おいっ」
とっさにライザックが支えていなければ、おそらくレティーシアはそのまま飛び降りていただろう。
レティーシアはなんの表情も浮かべてなかった。
ライザックは初めてここまでレティーシアが追い詰められていることを思い知った。
毎日よくも懲りずに睨みつけてくるんだな、と嘆息していただけの彼はひどく焦燥に駆られた。
反応を見せようとしないレティーシアを逃がさないように、ぎゅっと力の限り抱きしめる。
「お前だけは・・・俺を見てくれると思っていた。視線だけは合っていたと思っていたが・・・やはり無理か?だが、お前だけはどうか」
どうか、拒絶しないでくれ。
きっとその言葉はレティーシアには届かない。
それでも彼は呟かずにいられなかった。
しばらく一回り以上も小さな体を抱いていたライザックは、ようやくすっと冷酷な仮面に付け替えた。
そして冷ややかな瞳でレティーシアの面差しを見つめる。
「・・・お前に、報告がある。きっと俺への憎しみで・・・死にたくなど、なくなるだろう」
レティーシアは相変わらず聞いているのかいないのかわからない表情だった。だが、彼は続ける。
「お前の叔母の息子、従弟だな。あいつはシグルンに行くことになった」
「・・・・・・・え?」
ようやくのろりとレティーシアの首が動く。
「さすがに王家の男子はこの国に置いておくわけにはいかないと判断された。争いの火種になるだけだ」
「な、なんで?!どうしてっ?私はちゃんとあなたの言うとおりに・・・っ」
「俺が約束したのは命は助けてやるということだけだ。その後の処遇は、シグルンにいる王が決めること」
「そんな・・・っ!ケセンティアはまだ5歳なんだよ!それなのに、敵国に・・・っ」
「敵国、か。もう戦争は終わっている。今はシグルンがこの土地の領有権を持っている」
「でも、元王家の血筋の子をシグルンになんてそんなの・・・」
「ああ。体のいい人質だな」
あっさりと肯定すると、レティーシアはひゅっと息を飲んだ。
そして突然ぎゅっとライザックの胸倉をつかみあげる。
怒りで目の前が真っ赤に染まった気がした。
「嘘つき・・・!」
憎しみのままに、レティーシアははっきりと正気を取り戻し
た。
「俺が取り成してやらなければ殺されていた」
ぐっとレティーシアは息を飲む。
確かにそれはそうだろう。
王位継承権があった王子の命があるだけでも常識的には奇跡に近い。
けれど腹立ちは収まるものではない。
レティーシアはぱっと彼から手を離すと、戸棚にあった裁ちばさみを手に取った。
「そんなものでどうする?命を絶ったらもう俺は誰も助けてやらないぞ」
ふん、とライザックが鼻を鳴らす。
つまり、従兄弟を見捨てるということだ。ライザックの庇護がなければシグルンに行く前に殺されるだろう。逆に彼を利用すればシグルンに行ってからの待遇も少しでもよくなるかもしれないのだ。
レティーシアがすべきことは彼に縋り、歓心を買うことであり、それが正しく道だとわかっている。
だか、レティーシアは自分だけに与えられた不本意な価値を盾に抗うことを諦めなかった。
「あなたは私の髪が気に入っているみたいだったよね?」
「・・・何?」
ぴくん、とライザックが眉を上げた。
レティーシアはその目の前で思い切りよくざくりと綺麗な髪を切りとってしまった。
腰まであった髪が、一気に肩までに短くなる。
「あなたが私の約束を、守ってくれるという約束をどういう形にせよ違えたのだから、私にもこれくらい自分の自由にする権利は与えられるはずよね?私は私を傷つけてなどいないわ。あなたにとって私の価値はこれだけで下がらないわよね?」
「お前・・・」
突然の乱行と思い切りと正しくライザックの執着を見抜いているレティーシアに、ライザックは目を見張るしかない。
あんなに弱々しかったのが嘘のように、レティーシアは瞳を燃え立たせていた。
凛とした立ち姿は気品にあふれ、王女の顔だった。
「覚えておいて。私を手に入れたのなら、所有するのなら、命だけでなく生活も保障してあげて。あなたにとってそれだけの価値が私にはあると思ってるわ。その代わり私はもう絶望しないわ。うっかり死のうとするなんて行動にも出ないわ。交換条件よ」
栗毛が床に散らばる。この強気は賭けだった。
だかぼんやりと耳に残る拒絶しないでほしいというライザックの願いは本当だと思うのだ。
強い視線が絡みあう。
「・・・・降参だ」
やがてライザックが両手を挙げた。
その口元にはわずかに笑みが漂っている。
「その王子だけはどうにもならん。ただ、シグルンでの待遇は陛下に取り計らいを依頼はしてやる。俺のいままでの働きからある程度は聞き入れてくださるだろう。他の女性たちも生活は保障しよう。身売りなどせずとも生きられるように、なんならお相手を探してもいい」
その申し出は意外だった。
確かに後ろ盾を失った女性が何不自由なく生きていくには、おそらく裕福な階級との結婚しかないだろう。
ただ、亡国の王家ゆかりの者を受け入れる家があれば、だが。
「・・・・シグルンの者でなければ」
それでもレティーシアはあえて厳しい条件をつけた。
幼い従妹たちに望まぬ結婚を押し付けるのだから、せめて敵の夫だけはやめてほしかった。
こんな苦しい思いをするのは自分だけで十分だと思った。
「善処しよう」
「・・・・。何か決まったら、私に教えてくれる?」
「ああ。約束しよう」
レティーシアはようやく安堵に目を伏せた。
「だが、これ以上の我儘は許さない」
いつの間に距離をつめたのか、鼓膜を震わせる低い声がすぐ近くから聞こえてくる。
視線をあげると、はさみをつかんだままの手を掴み取られた。
ざんばらになってしまった髪の先に、ライザックが口付ける。
「美しい髪を・・・」
「あなたが・・・約束を破らないのなら、もう・・・しないわよ」
冷酷に見える紫の双眸が、ふと傷ついたようにみえたからかもしれない。
レティーシアはそんなことを口にしていた。
「・・・そうか」
ふっと男が笑った。嫌味でも諦めでもなく・・・安堵したように。
(どうして・・・そんな顔を・・・?)
不思議だった。
ただ戯れで元王女を愛玩しているだけなのに。
まるで心配していたような表情を見せるのは何故か。
死にたいと願うレティーシアをなぜ抱きしめたのか。
「・・・寝着のままずっとこんなところにいたら風邪をひく」
思い出したように、ふわりと彼が着ていた上着をかけられた。
「女官を呼ぼう。その髪も、整えてもらうといい」
そっと彼が一度だけ髪を撫でて離れていく。
向けられた大きな背中をじっと見つめて、レティーシアは何か重苦しい感情に囚われた。
どうしてだか、ライザックの紫の瞳がずっと脳裏から離れない。
常にレティーシアを真っ直ぐに穴が開くほどに見つめ、執着されていることに息苦しさを感じる。
確かに強引でひどい人だと思うのに、ほんの一瞬だけ憂いや安堵を浮かべると、その深い色合いにひきずられそうになる。
ぶるっと震えが走って、レティーシアは肩にかけられた上着ごと体を抱きしめた。
なぜか彼の匂いがするそれを気持ち悪いと捨てる気にはならなかった。