(6)
長いので分けました。夜にまた投稿します
「誰が入っていいと言った?」
地鳴りのような低い声だった。
怜悧なそれは、レティーシアに向けられるものよりも数段ぴりぴりとしている。
怒っていると思ったときの彼は、それでも理性で怒りを押さえ込んでいることをこの期に及んで知った。
遮光のカーテンがすべて閉められた部屋は薄暗い。
広い部屋の奥で、紫の瞳が冷たくまたたいているのをレティーシアはぞっとしながら見た。
触れられる距離にないのにガタガタと震えが走り、涙が溢れそうになる。
蛇に睨まれた蛙というのはこのことなのかとどうでもいいことが頭をよぎった。
ライザックがいま何をしていると言う訳でもないのに、とにかくガンガンと頭の中で警鐘がなる。
本能的な恐怖というものは底なしなのだと知らずともいいことを知った。
「出て行け」
「・・・・・」
恐怖で、声が出なかった。
それに従いたい思いはあるのに足も張り付いたように動かない。
するとライザックが舌打ちをして、苛立たしげな吐息を吐いた音が聞こえた。
恐ろしいまでの低い声が唸るような音となって届いた。
「出て行け。・・・殺すぞ」
自分も殺してやる、と言われた。
それでもその時は本気でないくせにと思えた。
けれど今はそんなことはないのだとわかる。
怖かった。
臓器が凍えるような、冷たい冷たい声だった。
負けたくないのに、涙が溢れた。
彼と対峙するのは凄いとシグルンの侍女は言うけれど、何のことはない、彼は常に手加減をしていたのだ。
どれだけ理不尽に怒っていようとも。
彼が部屋から出てくるまで近づかないと言ったフーシスの意図がよくわかる。
全てを拒絶していることがありありとわかった。
ひゅうひゅうと喉から変な音がする。
酸素を求めて唇を何度か開閉し、胸が忙しなく膨らんだり縮んだりした。
「いい加減に」
「・・・っライ・・・」
ガチャリとなにかを掴んだ音がして、怯えたレティーシアは精一杯喉を絞って、ようやく音を発した。それだけでぜいぜいと息が苦しく、冷たい汗がじとりと全身を包んでいた。
言葉を続けようとするのに、何も出てこない。
立っているのがやっとだった。
すると彼ははっとしたようだった。
「・・・なんで、お前がここに・・・」
呆然としたような声が届いた。
いつものライの声の響きに似ている。
そのことにほっとして、恐怖で金縛りにあっていた体から力が抜けた。
やはりそこにいるのはレティーシアの知っているライザックなのだと今更ながらに頭が理解したのだ。
レティーシアはまだガクガクとする足をそれでも必死に踏み出した。
「わ、私・・・あの・・・謝りたくて」
「謝る?何故?」
「ひどいことを言ったから。私、誤解していて・・・」
「・・・」
少しずつ近づくと、いくら遮光のカーテンがあってもさすがにまだ日がさしているとあって、彼の姿がはっきりと見えるようになった。
それと同時に、酒臭い匂いがした。
それもかなり強く不快さすら感じる匂いだった。
(・・・え、お酒・・・?お酒、飲むんだ・・・?)
そんな彼の姿を見たことがなくて、レテは何度か目を瞬いた。
確かに、テーブルの上には酒瓶が何本もおいてある。
先ほど投げられたのは、その瓶の一つだったのだろう。
触れられない距離で戸惑ったように立ち止まったレティーシアを視線で捕らえて、突然ライザックは笑った。
レティーシアが求めていたように可笑しくて笑ったわけではない。
自嘲的に声をこぼして笑ったのだ。
「俺も、酒に酔えたのか?」
「え?」
何を言っているのだろう、と首を傾げる。
すると一人、彼は続けた。
「こんな都合のいいことを夢に見るなんて、な」
「夢?都合?何言ってるの?・・・っ?」
突然素早く動いたライザックに腕を引っ張られて、レティーシアは座った状態だった彼に倒れこむ形になった。
全体重をかけられてもびくともしないライザックにぎゅっと抱きしめられる。
レティーシアの髪に頬擦りをし、耳元に吐息が掛かるほどに近い。肩から首筋を撫でる大きな手は優しく、しかし、体に回された反対の腕は痛いほどの力だった。
決して逃がさないとでもいうように。
「謝るなんて、お前が俺を許すわけ・・・ないのにな」
「・・・ライ?」
しかし、その言葉と、すがりつくようなライザックの様子に、レテはただ困惑した。
「許さない、当たり前だ。俺はまた間違えた」
レティーシアの柔らかな栗色の髪にライザックの唇が寄せられる。酷い酒の匂いが鼻をついたが、彼の口調は酔った様子もなくいつも通り淡々としていた。
「だが、どうしていいのかわからなかったんだ。許せなかった。俺といるとどんどん、また笑わなくなっていく・・・それなのに、初対面の奴には楽しそうに話しかけていた。俺には、よそよそしくなるばかりなのに」
怖かった、と彼は呟いた。
「どこかにいくんじゃないかと思った。やっと手に入れたと思ったのに。どこにもやりたくなかった。気が付いたら、同じことの繰り返しだ。俺は所詮、そんな人間だ。最低の、人間だ」
「ちがう、あれは」
単純に悲しそうな瞳をするライザックに、レティーシアは慌てて起き上がろうとした。
だが、彼の腕がそれを許さない。
すっぽりと包まれてしまう大きな体に押し付けられて、レティーシアはむぐっと言葉を失った。
「黙れ。夢の中くらい、大人しくしてろ」
そう言ってまた頬を寄せてくる。
完全に誤解しているが、今ここで口を挟んでももう仕方のないことだろう。
レティーシアは仕方なしに、だた彼に体を預けた。
するとライザックは満足そうに、レティーシアの髪をそっと撫でる。
年頃の貴族女性としては短くなってしまった髪の先まで指を通し、サラサラと重力に落ちるとまた髪に戻ってくる。
どこにも強引さのない優しい手つきだった。
「・・・大嫌い、か・・・。さすがにこたえたな」
(・・・あ・・・)
苦しそうな声に、レティーシアははっとなった。
「もう、二度と許さないだろうな。お前は俺に嫌気がさしただろう。一度目は同情で許しても、二度目はない。信じてないのか、といわれて返す言葉がなかった」
「・・・・・・」
「信じたいと思っても、俺はどうすればいいのかわからない。憤ると勝手にこの体が動く。それでは駄目だと理解したはずなのに、どうしても誰の目にも触れさせないところに閉じ込めて、俺だけを見ればいいと願う。自分でも愚かだと分かっているのに、その衝動が止められない」
意志のある人間だと分かっているのに。
だからこそ、その心から、笑ってほしいと願うのに。
まるで泣きたいかのような声だった。
だが、彼は決して泣いたりはしない。
そのかわりに渇望のままに、かき抱く腕がその力を増す。
「・・・いた・・・っ」
骨がきしむような痛みが走って、レティーシアは息を詰めた。しかし、それに耐える。
ライの心の痛みはもっと大きかったと思うから。
「・・・また、憎まれるだけ、か」
そう呟く彼の声を聞く方が、よっぽど痛かったから。
「それでも、この期に及んでも、逃がすことだけは・・・許せない。そうすべきなのに今更手放したくない。お前しかいらない」
するりとレティーシアの頬を彼の剣だこまみれの硬い掌が滑った。レティーシアが顔を上げる隙間ができ、促されるまま紫の瞳とかちあう。
「ああ、その目だ。たとえ憎まれても、嫌われても、お前だけは、いつも真っ直ぐに俺を見る」
「え・・・?」
その言い草は意外だった。
昔の思い出をはせているのではない、とレティーシアは直感的に悟った。
無邪気に慕っていた頃に、彼を彼とも認識できなかったときに、憎むとかそんな言葉が出てくるわけがないから。
レティーシアはされるがままの状況をやめた。
「どういうこと?あなたは・・・昔の私にこだわっていたんじゃないの?」
「昔?・・・そうだな、ここまで生きてくるのに、生きているのを自分で許すために、その思い出は必要だった」
「だったら!だったら、変わってしまった反抗的な今の私は、必要ないんじゃないの?あなたの求めているものとは、違うんじゃ・・・」
「誰がそんなことを言った?」
胸の中に巣食っていた不安をそのまま言い募るレティーシアの目の前で、ライザックの憂いを含んだ瞳が急に色鮮やかに染まった。
それは怒り、だったのかもしれない。
「誰が、お前に、勝手なことを言ったんだ」
誰かの名前を出せばそのままその相手に制裁が与えられるのだろう。背筋がまたヒヤリとする雰囲気だった。
「だ、だれでも、ない。私が、私がそう思ったの」
また彼の不興を買うことは恐ろしかったが、答えなければ前に進まない。
しかし彼はレティーシアに怒ったりせず、少し首を傾げただけだった。
「何故だ?」
「・・・だ、って、だって、ライは子供の頃の私を、気に入ってくれたんでしょう?だから私を望んだって」
「確かにお前は何一つ覚えてなかった。他の奴らと同じ、俺を嫌悪した。だが、それでも・・・お前は何も覚えていないくせに俺をまっすぐに見た。脅しても、穢しても、お前の瞳はいつも気丈に俺をにらみつけていた。憎んでいるくせに、怯えているくせに、それでも必死に俺を見続けた。逸らしたら負けだといいたそうに。いつだってお前はそうやって俺を見る」
きれいな紫の瞳がレティーシアの朱の瞳を覗き込む。
「憎んで当たり前なのに、お前は俺の孤独にも気が付いた。そればかりか、俺を許した。俺の代わりに泣いた。誰もが疎んだ俺の目を、また綺麗だと言った・・・。それがどれだけ、俺の救いになっているか、お前に分かるか?」
「え・・・」
「“嫌い”と吐き捨てた言葉でさえ、俺には初めて与えられたものなんだ。邪魔、目障り、存在自体が罪だと・・・人間として扱われたことなんてほとんどなかった。俺は好嫌の対象になりうるものじゃなかった。いてはならない存在だった。だからあのとき、痛む胸のうちで俺はどこか狂喜した。ああ、こいつは俺を人間としてみているんだと。・・・だから、俺はお前を手放したくない。お前といる間、俺は人間だと、そう、感じることができたから」
「・・・う・・・」
ライの独白に、ついにこらえきれなくなったレティーシアは涙をこぼした。ほろほろと白い頬を滑り落ちていく透明な雫をライザックが驚いたようにそっと撫でる。
「何故泣く?」
「ごめ・・・ごめん、なさい・・・」
そんな風に思っていたなんて知らなかった。
彼はただ、昔にこだわって、その呪縛から抜けれないだけなんだと。
だから、今のレティーシアが違うから、あのときと違うから、いつまでも分かり合えないし、信じてくれない。
昔を押し付けようとしているだけなんだと・・・ずっと勝手にそう考えていた。
ちゃんと彼は今のレティーシアを必要としてくれていたのに。今のレティーシアを守ろうと、今のレティーシアの願いを叶えようと、ずっとそう思ってくれていたのに。
「ライ・・・ごめんなさい」
私、分からなくて、ごめんなさい。
自分の価値観を押し付けようとしていてごめんなさい。
泣きながら何度もそう謝るレティーシアに、ライザックも何かおかしいと感じたようだ。
ただひたすら困惑した様子から急にはっとしたように顔つきを改め、まじまじとレティーシアを覗き込んできた。
「お前・・・まさか本物か?」
「うん。夢でもなんでもないよ」
そう言うと彼は気まずそうな表情を見せた。
本音を話してしまったことを、悔いているのだろう。
だがレテは逆に彼の背中に腕を伸ばして抱きついた。
頬を寄せた胸から速い鼓動が聞こえてきた。
冷たい血の通わない人間かのように思うときもあったが、憤ってレティーシアを抱く時すらこんな風に跳ねた鼓動をすると気がついたのはいつだったのか。
「ね、ライ。私の話も聞いてくれる?」




