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次の日、アーヴは姿を見せなかった。
もしや何かあったのでは、と不安に思い、ライザックを探したが、あいにくと見つからない。
もう夜まで待つしかないのか、と思ったが、ふと夕刻の時間になり、昨日のテラスが思い浮かんだ。
「誰か・・・・」
レティーシアはついてきてくれる人間を探したが、ぼんやり考え事をしているうちに帰ってしまっていた。シンファ以外はシグルンの女官はレティーシアと顔も合わせてくれないため、一方的にやってもらうならともかくこちらの用でわざわざ呼び出してまでは使いづらい。
部屋から勝手に出るな、とはこの間言われたばかりだが、ライザックの方針で部屋の見張りもつけられなくなっていた。
それはレティーシアが彼の言葉を守るという信頼のようでほんの少し胸の中がくすぐったい。
「・・・まあ、ちょっとライを探しにいくだけだし」
ほんの少し部屋の延長レベル、元々王族専用の外から人は入れない中庭を見に行って戻ってくるだけだ、とレティーシアは言いつけを破り一人で部屋から出た。
アーヴのことがあまりに気になり、気がそぞろになっていた。
荒れていた中庭は、いまや花もつぼみをつけ、木々も整然と枝葉を伸ばしている。
すべてが元通りとはいかなくても、少しずつ様相をとりもどしていた。
ライザックが興味なさそうにレティーシアとここを歩いていたことを思い出し、その割に人を使って手を入れていたことがおかしい。
(あのテラスも・・・)
昨日、ライザックがいたテラスは家族の思い出が深かった。
母が生きていた頃、よくあのテラスで竪琴の名手だった母親にたくさんの歌を教えてもらった。
残念ながら竪琴の才能はなかったけれど、レティーシアは歌うことだけは得意だった。
両親だけでなく、音楽には不精な兄ですら、褒めてくれた。今はもう誰一人いないけれど。
(・・・・やば・・・・)
懐かしいことを思い出していたら、つんと鼻の奥が痛くなった。泣きそうになり、慌てて首を振る。
するとまた笛の音が聞こえてきた。
とても近くに聞こえる。やはりテラスの方からだ。
レティーシアはそっと白皙の小さな丸屋根に向かった。
少し急な坂道を登ると、まぶしいまでの夕日が目をさす。
そういえば、昔はよくここで夕日が沈むのを見ていたと思いだした。
記憶よりも余分な木々がなくなっているせいか、夕日の全体の姿を捕らえることができた。
(すっごい綺麗・・・)
ふと曲が変わったのがわかった。
それにレティーシアは心が弾む。
レティーシアが一番大好きな、明るい曲だった。
日の沈む丘で、母が竪琴でよく弾いてくレティーシアいた。
(あれ、でも・・・この曲は・・・)
レティーシアはすぐ近くにまで迫ったテラスへ視線を向けた。絶対に音源はそこだ。
そしてやはりライザックの姿がある。というか彼しかいない。
草木の生い茂る側から近づいたレティーシアは、目を見張った。
横笛を吹いていたのは、ライザックだった。
無骨な指だと思うのに、長いそれは滑らかに動く。
そして流れる音は明るくて弾んでいて・・・。
曲名はリューシュ・レミオ。昔の言葉で、「夕日の娘」。
母が夕日と同じ色の瞳をもったレティーシアへ、作ってくれた曲だ。
「・・・どうして?」
はっとライザックの手が止まった。夢から覚めたように、辺りが静まり返る。
レティーシアに気がついたライザックは少し、バツの悪そうな表情を浮かべた。だがそれも一瞬のことで、黒塗りの横笛を横に置くと、レティーシアを睨んだ。
「なぜ勝手に部屋から出た」
苛立っている冷酷な表情だった。
しかしレティーシアは怯まずテラスの階段をゆっくりと上った。
「どうして、ライがその曲を知ってるの?」
「・・・別に」
「その曲は母様が作ってくれた曲だよ。何で他国のあなたが知っているの?」
ライザックは答えない。
レティーシアは強い苛立ちを覚えた。
「・・・っここに、入らないで・・・!」
「何?」
「ここは私の・・・家族の大切な場所だから!私だけの思い出のっ!だから他人のあなたに踏み込んで欲しくないっ!」
急に穢された気がした。何もかもを。
とっくに自身は汚れているのにおかしいだろうと自分でも思いながらそれでも思考が黒く塗りつぶされた。
幸せだった頃を壊したのが、すべてライザックのような気さえしてきたのだ。
それは、昨日から彼に対する複雑な気持ちやアーヴやシンファ、周りの声がごちゃまぜになっていたせいかもしれない。
とにかく唐突に負の感情があふれ出てきた。
(私は狂ってなどいない!まだまともに判断している!できている!私はただ国のためを思っただけで、ライに狂わされて絆されてなんかいない!)
男に堕とされたプライドが、責める機会を得て嬉々として言葉を紡ぐ。
「出てってよ!父様や兄様だけじゃなくて、母様の思い出すらあなたは奪うつもりなの?」
「・・・・・・・」
「それは母様が私に・・・くれた曲なんだからっ。あなたなんかに、弾いて欲しくない!兄様やアリオル様だけじゃなくて、父様も手にかけたと噂のあるあなたなんかにっ!」
レティーシアの言葉に、ライザックがぎゅっと拳を握り締めたことを彼女は知らなかった。
「・・・お前は、そう思うのか?」
地の底から響くような低い声に、興奮したレティーシアはひるまなかった。
「わからない。違うと思っていたいけれど、そう言っていたアーヴが・・・来ないの。あなたが何かした?」
それがますます火に油をそそぐことになるとは知らずに。
「俺が・・・?そうだとしたら?父君のことも本当だとしたら?」
「っ。そうしたら、私はあなたを許さない!恨んで、憎んで・・・絶対に、一生許さない・・・どんな手を使っても復讐するわ!」
「・・・お前は、俺がそんなことをすると思っているんだな?」
ライザックが目を眇めた。
それに一瞬背筋が震えたが、ここで引き下がるわけにいかない意地があった。
レティーシアはキッと彼の瞳をにらみ返した。
「あなたが何も本当のことを答えないからでしょう?私を力づくで従わせた人間を本気で信用しろと?」
「そうか」
ライザックの声は驚くほど静かに聞こえた。
それだからこそ、レティーシアは少しだけ冷静になる。
紫の瞳に、傷ついたような色が見えた。
(え・・・?)
だがそれはすぐに静かな燃えるような怒りに取って代わる。
「結局、無理だということだな。どれだけ、丁重な扱いをしてやっても、お前は俺に心を許したりしない。そういうことか」
「・・・っ痛い!」
ぎゅっと腕を掴まれて、レティーシアはその力の強さに悲鳴を上げた。腕が折れそうだ。
顔をしかめ抗議しようとすると、顎を掌で掴まれ、噛み付くように、唇をふさがれた。
「・・・ふ、う・・・う・・・っ!」
嫌だと逃げようとしても、身動きすらままならない。
呼吸さえも奪われ、大きな手が少し動けばくびり殺されるのではという恐怖にまで発展した。
ずっとそんな恐怖は忘れていたのに。
死んでもいいと思っていたのに、本能的に死への恐怖が胸にせりあがった。
「・・・・ぁ・・・」
凍える瞳を、顔を離したライザックにむけると、彼は苦い舌打ちをした。
「そんな目で見るな」
「・・・」
「やめろと言っている」
やめろと言われても、レティーシアは視線を外すことくらいしかできない。しかしライザックはそれが気に入らなかったらしい。
ぐっと手のひらに力が入り、あまりの痛みに生理的な涙が溢れた。
「何をどうしても結局お前の頭にあるのは、不信と恐怖だけなんだな」
吐き捨てるように言い、どん!と思い切り突き飛ばされる。背中に白い柱が当たって、そのままタイルにうずくまる。ぶつけたところがジンジンと痛かった。
だが、ライザックこそがもっと痛そうな表情を浮かべていた。
「・・・結局、お前まで、俺をそうとしか見ないんだな。お前だけは違うと思っていたのに」
「え・・・?」
まるでレティーシアにだけは分かって欲しかったかのように、言う。レティーシアは地面にへたり込みながら、彼をじっと見上げた。
数秒見つめあった後、ライザックはさっと背を向けて、テラスから出て行こうとした。
「だが俺は・・・お前がどう思おうと、手放す気はない。それくらいならもう壊れて仕舞えばいい」
そんな呟きを残して。
レティーシアはぞっとしてしまった。
後姿を見送りながら、彼女は自分の膝を抱える。
ライザックの怒りとそれでも薄れぬ執着を怖いと思った。
だけど、ライザックの瞳が、声が、苦さを含んでいるように思い出され、彼が今までしてくれたことを思い返し、ずきんと胸が痛んだ。
その日の夜、熱にうなされていたときを除き、出会ってから初めて夜の訪いがなかった。
そしてその日から、ライザックの態度は完全に変わって、いや出会った時に戻ってしまった。
***
「・・・痛・・・」
本の重みを受けた瞬間、ずきりと手首が痛んだ。レティーシアは服の上から手首に触れる。
そこには縛られ、擦れた痕が赤く残っているはずだった。
ため息が口をついて出る。
ライザックの不信を表すように、レティーシアはクリデミア人と会うことを許されなくなった。問えば許可してくれていた彼を先に疑ったレティーシアを責めるかのように。
アーヴは無事だった。
遠くから姿を見つけることができたから。“姫様に会わせてください”と訴えかける声が聞こえた。
(・・・どうして・・・?)
どうして何もしていないのなら、言ってくれなかったのか。挑発するように皮肉気な笑みを浮かべたのか。
なぜ色々なことを思わせぶりにして、何も教えてくれないのか。
不満はとぐろを巻いて胸に居座り続けたが、いつも思い出すのは傷ついたようなライザックの瞳だ。
最近の彼はろくに目をあわせようともしない。他愛のない話も口に乗せない。
ただ突然、思いつめたように部屋を訪れ、抱きしめてくる。逃げ出さないように手首を戒めて、「俺のものだ」と、言い聞かせるように呟く。
もはやそれしかまともな言葉を言わない。
嫌だ、と言えば言うほど、彼の苛みはひどくなる気がした。
(別に、もう逃げる事はあきらめているのだから・・・)
だが、何故まるで恐れているかのような執着の仕方を再び見せるのか。
追い詰めるような尊厳を無視するやり方が嫌で、拒絶を繰り返してしまうレティーシアにも問題がないとは言えないが・・・。
(いや・・・縛らなければいいとか、そういう話じゃないけど・・・)
好いていない相手に無理やり抱かれるのは嫌だ。
それは誰だってそうだろう。
けれど、あんなに強引じゃなければ、レティーシアとて苦痛を与えられたいわけではないし、受け入れられないこともない。
事実、ライザックが丁重に扱っていたときは強固に暴れたりはしなかったし、話もしていた。
はぁ・・・とまたため息がついて出た。
「・・・私が悪い・・・のかな・・・?」
信じられず、ライザックの気持ちを踏みにじったから。
だけど、彼を許すのはいまやとても難しいことに思えた。
また囚われた生活に戻ってしまって、レティーシアは沈んだ気持ちのままじっと窓の外を見つめた。




