スッと入って、ポン。
思えば、私は昔から入り込みやすい人物であった。
物語を読んで、登場人物になりきってしまいがちというか…モブでも何でも、キャラクターに乗り移ってしまうとでもいえばいいのか。頭の中で…物語の登場人物がどんどん動き出し、勝手に話をし始めるというか。物語を読むたびに、物語以上に頭の中で物語が広がるとでも言ったらいいのか。
「あなたの音読は、なんだか怖い。」
国語の授業で、しばしばいわれた、この評価。セリフの部分が、どうしても流し読み出来ない。通常の音読は、ただ淡々と読み上げるだけになりがちなのだが、どうしても…セリフが読み流せない。感情がなぜか籠ってしまい…悲しいセリフにはタメが入るし、怒りのセリフは荒々しくなってしまう。
なぜだ、なぜなんだ。出席番号の日付の日は、非常にビクビクしていた。音読を当てられたら、また教室のあちこちでくすくす笑いが起きる。
「かぎかっこ」が曲者だと気が付いたのは、高学年のころか。
この、「」が付いていると、登場人物の言葉であるという認識が頭の中で広がってしまい、おかしな読み方になってしまうのである。視覚が発声に影響を与えていることに気が付いた私は、国語の教科書の「」を、ことごとく塗りつぶした。そして、音読の悲劇は幕を閉じたのである。
「ねえ、昔、音読めっちゃうまかったよね?」
中学に入って、幼馴染に声をかけられる。うまかった?いやいや、笑われてただけだろう。
「あれって演技の才能だと思うんだよね、ねえねえ、演劇部入ってみない。」
演技などてんで興味はなかったものの、誘われたので、顔を出してみることにした。手渡されたのは、台本。場面と、セリフが連なる紙面。…ざっと目を通すが、なんだろう、違和感がハンパない。
「ちょっと読んでもらっていい??」
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小屋の前、主人公とヒロインは並んでいる
「見たぞ、お前は…」
悲しげに立ちすくむ、主人公、一歩前に踏み出す
「何も言わないでください」
「言わせてもらう!」
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――――――――――――
「」の連なる台本は…。
場面についての描写はあるものの、それは場面ではなくて、場所の様子。登場人物の動き方の注釈。物語の場面は、その中にはなかった。セリフは、物語の背景、流れ、気持ちを…読ませては、くれなかった。つまり、物語に入り込むことは、できなかったのである。その、結果。
「めっちゃ、へたくそ…!!!」
大勢の前でセリフを読みあげた私は、期待の新入部員を見つめる皆さんに多大なる沈黙を与えてしまった。静まり返る教室に響いた、私を推薦した幼馴染の一言が…耳に痛い、痛すぎる!!大根役者とは、私の事らしい。
演技はダメだが、大道具を作ることに非常に興味を覚えた私は結局演劇部に入部し、トンカチを片手に日々邁進し、舞台は完成されていく。演者は舞台で物語を視覚化しする。そうか、この物語は、こういう画面で、こういう感情で、こういう流れで…。しかし、台本ではどうにもこうにも入り込めない。台本の物語は…いつまでたっても、私の中に、入ってこなかった。…舞台としては、大成功を収めたけれど。
演劇部に入って分かったことがある。私は物語に入り込むことはできるけれども、セリフが連なるだけの会話には入り込めない、という事だった。場面を読んで、場面に入り込むことができた時、私は「」のセリフを登場人物の感情のままに読みあげることができるのだ。
高校性になり、文芸部に入部した友人から、声がかかった。
「ねえ、私の書いた物語、読んでみてよ。」
ずいぶん荒っぽい文章に、感情的なセリフが並ぶ物語だった。一方的な感情がぶつかり合う、場面の見えない物語…。
「音読、してみてもいい?」
「いいよ!」
私は、友人の物語を声に出して読んでみた。…大根役者の本領が発揮される。この物語は、私が入り込めない物語なのだ。
「私の物語を読んでもらっても、いいですか。」
文芸部の、部員が私に声をかけた。セリフの少ない、少し難しい物語という、印象。しかし…場面は、これでもかというほどに私をこの物語の中に誘う。数少ないセリフが、重みを増す。これは、入り込んでしまう、物語だ。一行のセリフに込められた、場面、感情、物語の流れ。
「音読、してみてもいいですか?」
「はい。」
文芸部の部員の物語は、文芸部の部室を静まり返らせた。私の音読は、38人を魅了したのである。魅了する物語を書き上げた文芸部の部員と、その物語を読みあげた私は何とも言えない顔でお互いを見つめ合っていた。
「なんか、入っちゃった、ええと、ごめんなさい。」
「ええと、すごくて、すごくびっくりしちゃって…。」
「ちょっと!語彙力のない感想を言わないように!!!」
私がいい音読をする作品は、よく書けている作品という認識が文芸部の中に広まった。いつの間にか、文芸部の読み専になっていた私は、ずいぶん、ずいぶんいろんな作品を読ませてもらって…ずいぶん、ずいぶん大根役者っぷりを披露したが、たまに人をドン引きさせるような読み上げも、確かにしたのだ。
セリフの違和感があることもあった。口調、擬音、くせ…違和感のある部分はすべて大根役者が顔を出す。何度書いても、何度読んでも大根のままだった作品もあれば、短くて意味不明なのに涙が出てしまうような作品もあった。
先日、あのころ読んだ物語を、目にする機会があった。部室を静まり返らせたあの作品。音読するときは、何度か読み込んでから声に出すのだけれど、あの作品は…一度読んだら、スッと入って、ポンと声に出た作品だった。素人の私が一瞬で引き込まれた作品は…プロの目にきっちりと留まったようだ。
このところ、私も物語を書いているのだけれど。
音読をしてみたら、どうなるだろう?
私の頭の中には、文字にしていない物語の部分が多少なりともあるから…きっと大根が顔を出すに違いない。いや、まてよ。物語の世界が私の中にすでにあるから…それがサクッと前に出てくるのでは?
…読んでみない事には、始まらない。自分の物語を声に出して読んでみる。
録音して聞いてみると…信じられない、棒読みの声が聞こえてくる。背景も、情緒も、感情も、何一つ伝わってこない、ただの文字を読みあげる声。そこに物語など、存在していない。
…大根役者は健在な様子だ。
いやいやいやいや…。仕方がないな、自分の頭の中で繰り広げられる物語は、やや漠然と広がる世界で…読むことで入り込む世界とは違うのだ、うん。誰かの世界に入り込むのと、すでにある自分の世界を引っ張り出すのは、土俵が違うだろう。目で文字を読む時点で、書かれた物語はただの文字列として認識されてしまうのだよ。私の頭の中に広がる世界は、私の中でしか広がることができない、壮大な物語であって、文字化するなど不可能に近くて、そのあたりが今回の棒読みにつながっているに違いなくてだね。
私の物語を、私が文字にした時の、私の技量不足というわけでは、ないと…。
自分の書く物語が、拙い物語だと、思いたくない、私がいる。
自分の書く物語が、入り込めない物語だと、思いたくない、私がいる。
自分の書く物語が、表現力に乏しい物語だと、思いたくない、私がいる。
…何度も何度も作品を読ませた友人も、きっと同じことを思ったのだ。教室を静まり返らせるような朗読をさせたいと願い続けて…いくつもいくつも物語を書いた、友人の姿が目に浮かぶ。何度も何度も物語を書き直して、私に読ませた友人の姿が、今もなお、目に浮かぶ。
友人の物語が、スッと入ってポンと出たのは、ずいぶん寒い、雪の日の事だった。
自分の中にある物語を、私が文字にした物語。確かに私の中から飛び出して、文字になったはずなのに、スッと入ってこない、物語。私が文字にすることで、私の中の物語がスッと入らなくなってしまっているのだったら。何度でも書き直して…あの頃の友人のように、何度でも挑戦したらいいのだ。
…私は、自分の書きあげた物語を、手直しすることを決めた。
いつの日か、私の書いた物語が、スッと私の中に戻ってくることができたなら。
きっと、ポンと言葉になって、物語を物語ることができるはず。文字列の読み上げではない、物語り。
私の中にある、私の物語は、私が書き上げなければならない。頭の中に広がっていることで満足していては、大根役者の出番しかやってこない。
スッと入って、ポン。
私の目指すものは。
…スッと入って、ポン。