第1話 空白
暗闇の中で、ただ一人そこに立っている。
顔を見上げると、周りと同じく真っ暗で誰だかは分からないが、そこに居る誰かはきっと自分の知り合いだと感じる。何か言っているようだが、何も聞こえない。
目の前の人物は何かを差し出してきて、その何かを無意識の内に受けった。
受け取った手の中を見るとそこには、文字盤が金色に輝いた、なんとも洒落ている腕時計があった。何故、こんな腕時計を……?と考え、目の前の人間が誰なのか、どうして暗闇の中にいるのかということを考え、はっと前を見ると、目の前の人間は消え去っており、何処に行ったのかと暗闇の中、目を凝らしたが、辺り一面真っ暗で何も見えない。
自分さえも飲み込まれてしまいそうな程の暗闇だ。
そんな暗闇に急に不安になり、誰かを呼ぼうとしたが、声が出ない。身体も自由に動かない。
ああ、これは夢だ、と思い、夢を醒ますには誰かが自分の手のひらを見れば醒めるよ、なんて言ってた事を思い出し、手のひらを見てみると……暗闇の中で目に入った不自然な赤。赤と言うよりも黒に近い色。
「……血、だ」
やっと出た声に喜ぶ暇など無かった。
何故なら足元にも大量の血が広がっており、その中央にうつ伏せで人間が倒れていた。
恐る恐るその人間を見てみると、先程、腕時計を渡してくれた人間だと理解する。
恐らくこの血の量だと死……。そう考えると足が竦む。しかし、気が付くとその血溜まりの人間へ向かって勝手に足が動き、その人間の身体を揺すっていた。
が、反応があるわけがない。
誰か助けを呼ばなくてはと思っても、この暗闇の中、誰か居るはずもなく、また声が出ない。
ひたすらにその人間を揺すっていると、うつ伏せになっていた身体がごろんと前を向き、先程まで見えなかったはずのその人間の目がギョロりとこちらを向いた。
「ひ……っ」
リリリリリリリリリ……
けたたましく鳴る電子音で意識が引き戻されていく。瞑っている瞼から少し明かりを感じられて、先程までの暗闇がやはり夢の世界だったことを感じて安堵する。
しかし安堵したことも束の間、けたたましく鳴る電子音が耳慣れない事に気が付いた。昨晩、こんなアラームを設定しただろうか、と考えても昨晩のことが一切思い出せない。
意識が急激に醒め、血の気が引いていくのを感じる。眠さなど微塵も感じられない。
ぱっと目を開けると、右側には水色のカーテンが付いた窓から朝日が射し込んでおり、眩しくて目が霞む。
「ここは……何処だ?」
当たり前のように自分は見知らぬベッドに寝ており、その部屋には何十年も前から当たり前のように自分が過ごしてきたであろうように机があり、小さなソファがあり、脱ぎ散らかした洋服が転がっていた。
「おい、嘘だろ。全然思い出せない」
昨晩、どんなアラームをかけたか、どころではない。この部屋がなんなのか、自分は何故ここに居るのかということすら分からないのだ。
友達の部屋で酔っ払って寝てしまったのだろうか、とも考えたが、机の上にある勉強しかけのノートの表紙には有馬 昴と、自分の名前が記されており、正面に飾られている写真には○○大学入学式と書いた看板の前で、年配の人の良さそうな夫婦のような男女の間で自分がにこやかに写っていた。
まずは、友達の家では無いという事が分かったが、また一つ疑問が出来た。
自分は両親の顔すら忘れている事に気が付いたのだ。
どう考えてもこの写真に写る年配の男女は自分の両親だろう。だが、見覚えが無い。しかもこの入学式すら思い出せないのだ。
思い出せるのは『有馬 昴』という自分の名前と、確か、数ヶ月前、22歳の誕生日を迎えたということだけなのだ。ただ、どのように22歳の誕生日を迎えたかということは一切思い出せなかった。
自分の身に何が起こったのか考えてみると、考えれば考えるほど何も覚えていないことを実感し、自分の部屋であろう見覚えのないこの部屋に恐怖すら浮かんだ。
何か情報を集めなくては、と思い部屋を探ろうとしていたところ、部屋の外から自分の名前を呼ぶ女性の声が聞こえくる。
「……ばるーー!すばるーー!!!早く起きなさい!大学に遅刻するわよ!せっかく朝ごはん作ったんだから早く準備して下に降りてきなさいーー!」
自分に記憶があれば、これは単なる日常風景の一部だろうが、両親の顔すら忘れている昴にはこんな些細な日常風景も恐怖でしかなかった。
どう返事すれば良いのかも分からず、呆然と部屋に佇んでいると、もう一度大きな声で名前を呼ばれた。
そのまま無視をするわけにもいかず、勇気をだして部屋の扉を開けると、やはり見知らぬ廊下の先に階段があり、その階段の下から何やら良い香りが漂っていた。こんなよく分からない中でも、その芳ばしい良い香りが鼻を掠めると、お腹の虫が騒ぎ出していた。
昴は、恐る恐る見知らぬ廊下を進み、階段を降りていくとリビングに続くであろう扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりとその取っ手を回した。
ギギギ……と、少し年季の入った木の擦れる音を響かせながら扉を開けると、ベージュのエプロンを付けた年配の女性がキッチンに立ってた。この女性は先程、机に飾られていた写真に写っていた女性だ。
「か、母さん……?」
自信はないが、きっとこの女性は母なのだろうと呼んでみると、女性は目を見開き、驚いたような表情をした。
「どうしたの昴? 母さんに決まってるでしょ。まだ寝ぼけてるの? それとも……もしかして昨日!」
「昨日、俺に何があったの?」
「 昨日、あんたあきちゃんと出掛けて帰ってくる時に自転車で転んで頭打ったって言ってたけど、まさか覚えてないの?」
そのまさか、だ。
驚く程に何も覚えていない。
しかし、言われてみれば後頭部が誰かに殴られたかのように痛く、痛む部分を触れてみると、大きく腫れ上がっていた。
なるほど、頭を打ったことで記憶を無くしている……?と、思ったが、ここでまた新たな謎が出てきた。
あきちゃんって、誰?
母と思わしき人物はなんの不思議もないように、その人物の名前を発していた。ちゃんが付くのだから、女性なのだろう。
一生懸命思い出せない頭で考えていると、母さんがとても不安そうな顔で覗き込むものだから、一旦考えることをやめた。人に心配をかけるのはあまり良いことではない。頭にこぶを作っているくらいなら、あとで病院に行ってみれば良いし、なんとかなるだろう。
「ああ、そうか、そういえばそうだった。俺、寝ぼけてただけだわ。ごめん、母さん、心配しないで」
「ええええ? 本当に大丈夫? 母さん、仕事遅れて行っても良いから病院、一緒に行こうか?」
そういえば母さんと思われる女性は、エプロンの下にスーツを着ていた。まさに仕事に行く前のようだった。
まさか仕事に遅れさせるわけにもいかないと思い、大丈夫だからと宥め、母さんが作ってくれたご飯を駆け込むように食べ、一目散に部屋に戻った。
部屋に戻ってきても、見覚えがない部屋なものだから落ち着かない。知らないソファに腰掛けるのはなんだか気が乗らず、部屋の中を行ったり来たりしていると、下から母の声が再び聞こえてきた。
「昴ーー! あきちゃんが昨日のこと心配して迎えに来てくれたわよ。早く着替えて、学校行って、病院にもいってらっしゃいーー!」
「お、おう!」
もうはや、あきちゃん登場だ。
慌ててそこら辺に散らばっていた洋服から適当なものを選んで、着替え、足早に階段を降りる。あまりに急ぎすぎて階段から落ちそうになると、母さんがとても心配そうな顔で見つめるので、本当に大丈夫だから、と強がって、少し重たい玄関の扉を開けた。
思ったより外は晴れていて、眩しくて目が開ききらない。細々と開く目に映ったのは、綺麗な長い黒髪をたずさえ、切れ長の大きな目にうっすらと桃色のアイシャドウをのせ、薄い赤の口紅をつけたとても美人な女性だった。
控えめに言っても美人な彼女に呆気に取られ、口をあんぐり開けていると、心配そうに覗き込む彼女の瞳にあほ面な自分が映り込む。そして彼女の瞳が大きく揺れた。
「ねぇ、大丈夫? お母さんから昴くんが昨日の記憶ないみたいって聞いたんだけど、ほんと? 私のこと、ちゃんと分かってるよね?」
「あきちゃん、でしょ」
付け焼き刃につけて知恵でそう呼んでみると、目の前の彼女は信じられないと言わんばかりに目を見開き、大きく息を吸い込んだまま、時間が停止したように止まった。
何か失敗してしまっただろうか。この子はまさかあきちゃんではないのだろうか。どうしようかと、悩んでいると彼女は何か決心したように口を開いた。
「昴くん、正直に言って。昴くんは私のこと、あきちゃんなんてちゃん付けで呼ばないの。やっぱり……記憶、ないよね?」
どう答えるべきか悩んだが、仕事に行こうとしている母を引き止め、心配かけるわけにもいかない。だが、このまま記憶がないままだと自分がどうして良いかも分からない。大学の場所はもちろんのこと、病院の場所すら分からないのだ。
今はこの目の前の女性に頼るしかない。そう結論づけ、素直に答えることにした。
「……実は、俺、今昨日のことどころか、自分の名前と年齢しか思い出せなくて、正直に言うと君のことも両親のことも、家のことも覚えてなくて困ってるというか……なんというか」
「嘘……?そんなに覚えてないの??」
「はい」
素直に白状した昴は、ひとまず家の前では昴の母に心配をかけてしまうからと気を利かせてくれたあきちゃんこと、春風 あき、に連れられ、昴とあきが通うという大学の中にあるカフェテラスの椅子に腰掛けた。
この道中であきから聞かされたことを整理すると、あきは昴と同じ大学に通う一つ下のゼミの後輩で、一年前から交際をしているということ。ちなみに告白はこの美人なあきからしてくれたらしいから信じられないし、忘れていることが勿体ない。
そしてあきと昴は昨日、自転車デートをしており、その帰り道で突然飛び出てきた子供を避けようとして慌ててハンドルを切ったところ、電柱にぶつかり自転車から落ちたという、なんとも情けない話しだった。
転んだ当初の昴はなんともないと言い、普通に会話も出来ていたことから、そのままあきと別れ、帰宅。あきは心配だった為、昴の母に事の顛末を話してくれていたようだ。美人な上に出来た彼女である。
「昴くん、本当に何も覚えてないんだ……」
あきは俯き、薄い唇を少し噛み締めつつ、小さな声でそう言った。
それは震えるような悲しそうな声色で、昴は心の底から申し訳なさを感じた。
あきの綺麗に整った横顔を見ていると、なんだか不思議とこの横顔を知っている気がしてきた。母の顔すら忘れているのに、美人は印象に強いのか覚えているのかもしれないな、と自分で結論付け苦笑いをした。
「本当に、ごめん。でもちゃんと病院行って、思い出して行くから心配しないで、ね?」
「……うん。でも約束して? 記憶戻ってくるように私が全力でお手伝いするから、戻ってきたらどんな些細なことでも教えて欲しい。分かってるふりとかは絶対にしないって、嘘つかないって約束して?」
「はい、約束します」
「よろしい!では、まず病院に一緒に行って、専門家にアドバイス貰ってこよう」
彼女が無理に笑って、明るく振舞っているのは痛い程に伝わってきた。
こんな苦しい表情は見たくないと思い、早く記憶を取り戻せるよう努力は惜しまないということを昴は心に誓ったのだった。
<<続く>>