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ヤマダヒフミ自選評論集

ウィトゲンシュタイン哲学の活用

 ウィトゲンシュタインという人は独特なヴィジョンを持っていた。それは前期から晩年に至るまで変わっていない。それに関しては永井均も指摘している。


 ウィトゲンシュタインがどんなヴィジョンを持っていたかと言えば、「論理哲学論考」に代表されるような、哲学によって哲学そのものを消滅させ、その「残り」には生きる事のみがあるというそういうヴィジョンだった。


 実際、ウィトゲンシュタインは自分の弟子に大学教授になる事を勧めなかった。ウィトゲンシュタインの強力な影響で、生涯、缶詰工場で働いた人間もいたらしい。(グレーリングの本に書いてある)


 また、ウィトゲンシュタインもその例に漏れず、哲学と実生活とを行き来する人生だった。ウィトゲンシュタインにとって、ウィトゲンシュタインの哲学はあまりにも厳格なものだったので、「論理哲学論考」を書いた後、実際に哲学を捨てたのだった。(後で戻ってきたものの) そこにはウィトゲンシュタインの哲学に対する『真剣さ』があるが、我々がこれを真剣に受け取るという場合、そこにはウィトゲンシュタインの真剣さの意味そのものがわからないという事情がある。ウィトゲンシュタインの哲学を真に理解する、あるいはそれを研究するという時、何故、哲学教師というような安楽な場所に座して彼を研究できるのか、と自らを問う研究者というのはおそらくいない。そしてもしいたとしたら、彼はもう一人のウィトゲンシュタインとなっただろう。哲学を生と取り替えるとは、安息した生から哲学を弄ぶ事ではないが、その意味は我々には理解できないものとなっている。


 後期ウィトゲンシュタインは言語ゲームという発想を展開している。これは非常にわかりくにい考え方で、研究者でも意見が分かれるらしいが、漠然とした印象を書いておく。

 

 ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」一元論で、あらゆるものを捉えようとしている。だが、この「言語ゲーム」は通常の哲学のように、世界の『本質』を発見する為の試みではない。むしろ、そのような「本質」「真理」といった、哲学の歴史において絶対的なポジションを誇ってきた言葉を、世界内部の相対的な場所に置き換えようとする試みだった。そうなると当然、「真理」を解体し、無化する「言語ゲーム」という概念、ないし、そのようなゲームを行うウィトゲンシュタインという男は何者かという問いが起こるはずだが、ウィトゲンシュタインはこれには明瞭には答えていない。「論理哲学論考」の延長で言えば、これらは語り得ないものに分類され、我々がウィトゲンシュタインの哲学を通行して日常生活に到達すれば、それはもう不要となるようなものとして考えられていただろう。


 「言語ゲーム」という考えかたは、アインシュタインの相対性理論のように、『相対的』な発想である。ミハイル・バフチンがドストエフスキーの小説をポリフォニーと位置づけたが、それともやや似ている。


 相対的である、という場合、どこが問題なのか。先に言ったように、「真理」という発想は、絶対的なものであって、人間は常にこの観念に取り憑かれていると言っていいだろう。これは哲学者だけが持っている観念ではない。物理学者が「十年後には世界の謎は全て解けているだろう」なんて発言しているのを聞いた事があるが、「世界の謎が全て解ける」とはいかなる事かという思考の果てに哲学はある。


 「真理」の問題は、僕は、日常生活や我々自身にも深く当てはまると思っている。例えば人生における「正しい答え」「正しい選択肢」があるという前提を受け入れるからこそ、「正しい生き方」を教える諸々のノウハウ本が飽きもせず売られ、飽きもせずに買われるのである。そこで、「正しいという事で一体何を言おうとしているのか、それはどのような意味で使われているのか? どのような言語ゲームであるのか?」と、言語ゲームの見地から考えると、いわば、絶対的な答えは『横』から見られるものとなる。それは、確定的な答えではなく、「とにかくそのようにやっている」という事となる。


 「われわれの錯誤は、事実を『原現象』と見るべきところで、説明を求めるということ。すなわちかかる言語ゲームが行われている、と言うべきところで  (「哲学探求」より)」


 言語ゲームはそんな風に、世界を完全なる相対性の中に叩き込む思想であり、絶対的なのは「言語ゲーム」という考え方だけ、という恐ろしく巨大な思想だが、ウィトゲンシュタインがこの考えを遂行するにあたっていくつか障害となる事があった。それが私的言語であり、人間の「心」、内面の問題だったと思う。


 この問題に関しては僕もわかりきっておらず、考え中で、かなり難しい。ウィトゲンシュタインが「私的言語を認めない」というのは、永井均の解説を読んでも、正直よくわからない。ただ、ウィトゲンシュタインが私的言語を認めない方向に向かうのは、人間の内面、心というものが、絶対的なものとみなされてはならないという彼の思想から来ているのだと思う。


 そして、ここに似たタイプの思想家、パスカルとの分岐点があると自分は考える。パスカルは、「考える事」を人間の尊厳の最も高いものに置いた。パスカルは、周囲の人々と自分とを完全に切断し、彼自身、自分の思考の宇宙に彷徨う事になる。


 パスカルもウィトゲンシュタインも哲学史上の大天才なので、普通の人とは違う巨大な内面を持たざるを得なかった事は同じだと思う。問題はこれに対する解決法だ。

 

 パスカル、そしてキルケゴールは、自己の絶対的な内面に対して、鏡像のように、神という概念を配置し、そこに救いを見出そうとした。一方で、ウィトゲンシュタインは、神を哲学内部には導入しなかった。ウィトゲンシュタイン自身、宗教的な人物だったが、神という概念を利用はしなかった。


 ウィトゲンシュタインは自己の絶対的な内面を、世界の中の「行為」や「関係」「関わり」といった場所に配置させ、相対化させようと試みた。言語ゲームにおいて、独我論は語りえないものとして排除されている。この時、ウィトゲンシュタインは絶対的な自己の内面というものを、世界内部の行為・関係の水準に位置づけた。そう見たい。


 普通の人というのは哲学の事を考えないし、哲学について考えれば精神的不健康に陥ると言っていいだろう。「私」は他者との関係の側面に配置されているとか、社会の中の一つの役割であると考えるのが、健康な人の考え方だ。「私」が死ねば世界は終わる、世界とは「私」そのものである、なんて普通は思わない。「私」を世界の中の部分として感じる事、それによって、「私」には役割があり、社会・友人・家族といった関係性を保つ事ができる。


 が、ここに形而上学的な「私」が導入されると、話が変わってくる。実際、この問題を、健康な人々は解いたわけではない。単に見ない振りをしているだけと思われる。というのは、「私」が死ねば全てが終わりであるというのは明白であるのに、その「私」が社会の中で一つの役割を果たすというのにいかなる意味があるのかは、誰にもわからないからである。この「意味」が消失する点がまさに「死」そのものだからだ。


 少し脱線するが、この健康さが強引に死を克服しようとすると、必然的に全体主義、独裁制に昇華されていく。社会のみに意味があり、個人はただ歯車でしかない。個人は社会に尽くすものであると徹底的に教え込む事、これは、部分としての死を克服したかのような見かけを与える。だが、実際には社会は人々によって構成されているから、全ての人々が自己を犠牲にしてもなお残さなければならない社会などない。社会にのみ意味があり、個人には意味がないとする考え方は、我々に至福感を与えるし、死を乗り越えたかのような外見を与えてくれるが、少しすると、何故、我々は社会の為に命を犠牲にすべきなのか?という問いが戻ってくる。歴史とは人間の総体であるし、社会も人間の総体だから、人間がなくなっても歴史があったり社会があったりするわけではないだろう。


 とはいえ、自己犠牲的な要素は必要になってくるし、それが全くなくなっては社会が機能しない。だから、この先も、全体主義の為の種は残り続けるだろうし、時と共に全体主義はぶり返してくるだろう。


 しかし、そうはいっても、その反対の、絶対的な自我、内面というものを重視すると、自己というものが完全に世界から離れたものとなってしまう。これに関しては、パスカルやウィトゲンシュタインのような巨大な才能において顕著だと思う。彼らが世界に対して、人々に対して感じてきた疎外感というのは、巨大なものがある。(カフカを例にしてもよい) 問題はこの疎外感をどのように取り扱うかという話だ。


 パスカルは最終的に神に服した。「宇宙は物理的に私を包み込むが、私は考える事によって宇宙を包み込む」という極限的な思考はあまりにも孤独である。彼の孤独が極限的すぎるが為に、あるいは、彼の思考が現実や習慣・常識という重しから外れている為に、あまりに自由で、同時に孤独であって、そんな空間に人は長い間耐えられるものではない。だからこそ、パスカルは神に向かった。僕はそう見ている。


 パスカルやキルケゴールは神に向かい、マルクスやヘーゲルは歴史概念に向かったと言えるだろうが、それらはみな、疎外された巨大な才能が、自己ないし世界を規定する「必然性」をそれぞれに発見したのだと総括する事もできるだろう。で、僕にとっての問題はウィトゲンシュタインである。


 ウィトゲンシュタインはパスカルに負けず劣らず、あるいは他のどんな哲学者よりも、絶対的な、恐ろしく絶対的なものを求めた哲学者であった。そうでなければ、彼の哲学の全貌の「意味」がわからなくなる。何故、彼が哲学に生涯を費やしたのかが意味がわからなくなる。


 だが、同時に、ウィトゲンシュタインの哲学の内容はどうなっているか。彼はなんとしても、「真理」「本質」といった絶対的なものを彼の哲学で抑え込もうとしていた。その最後の答えは一体、どうなったか。


 「我々がドアを開けようと欲する以上、蝶番は固定されていなければならないのだ」

         

                               (「確実性の問題」より)


 この文章だけ見ても、意味不明であろうが、ウィトゲンシュタインは晩年の「確実性の問題」で何度か、「信じる」という言葉を使っている。


 「信じる」とは神を信じるという事ではない。それは例えば、「大地は存在する」のような事柄であったり「ドアの蝶番」であったりする。それらを信じる、とウィトゲンシュタインは言わんとしている。


 もちろん、普通の人はそれらを信じる、とは言わない。「明日、面接があるけど、明日も地球が存在しているかどうかわからないから、準備は明日でいいや」なんて普通は言わない。僕らは疑わない。ウィトゲンシュタインは一方、僕らが疑いもせず、信じもせず、意識すらしない事を「信じる」と言う。


 何故、そんな事にーー馬鹿馬鹿しい事にーー「信じる」とわざわざ言わなくてはならないのか、という事柄にウィトゲンシュタインという人間の全宿命が封印されている。それは我々にとってはすべすべした、単なる堅固な地表でしかないが、その地表に辿り着く為に、ウィトゲンシュタインがいかなる地獄を通行してきたかを知るものは、そこにあまりにも深いものがあるのを感じ取る。


 さて、ここまで個人的にウィトゲンシュタイン哲学を総括してきたわけだが、問題はこの哲学が僕にとっていかなる意味を持つかという事である。ウィトゲンシュタイン研究者でもなければ、アカデミックにいかなる関わりもないので、純粋に、形而上的に、ウィトゲンシュタインがいかなる意味を持つのか、自分に問わなければそれこそ意味がない。


 問題は、ウィトゲンシュタインの考えるように、人間の内面ーーこの場合僕自身の内面ーーを、世界との相関性に位置づけられるのか、という事だ。それは可能であるのか、というより、ここまでいくと正しいか否かという次元はすぎているので、それは、どのような意義があるのかという事だ。


 ウィトゲンシュタイン自身にとって、そのヴィジョンは初期から直感されていたのだろう。ここに彼の天才があると言ってもいいが、これを天才だと言うには、その天才の意味について考えてみなくてはならない。というのは、その天才が「我々」にとってどのように意味があるのかという問いは非常に難しいからだ。

 

 僕にとって、非常に面倒な問題は絶対的な事柄だった。今まで、文学とは何かという問題を一人で考えてきたが、多くの人にとって、文学者にとってもそれは問題ではなかった。大半の人にとっては、文学という制度、権威、金銭といった事柄で文学作品が担保されていればそれで十分だったからだ。その状況を疑問視して、自分は文学とは何かと自分で考えてみた。この考えが他人にとってどうであるかはどうでもいい。(お前の考察は薄っぺらいし、評論家にはなれないと言ってきた馬鹿がいたが、彼らに対して僕の言葉がどうであるかなど全くどうでもいい) 問題はこの問いを追う事そのものとは何か、という問いだ。


 ここで、僕が「確定的な答え」を出すとか、出さないとかいう事もどうでもいい。僕の答えが人々に評価されれば、それは客観性を帯びるであろうし、僕も安堵できるだろう。僕の言いたいのは、その「安堵」がどうでもよくなっているさらなる領域というのは考えられるのか、そこに到達しうるのかというような事柄だった。


 僕はおそらく、頭の中で次のようなイメージを抱いていた。自分が一歩一歩歩いていけば、いつか絶対的な場所に到達できるであろう、と。世間的にはそれは社会的な成功であり、それを「夢」と言っているが、僕はそれが絶対的だと思った事はない。僕はは内面的な形而上的な場所としての絶対がありうると考え、だからこそ、そこに歩みいろうとする努力をしてきたわけだ。


 ここでの問題は、その「絶対」それ自体が蜃気楼なのではないか、という話である。人間は神によってーー神と言うがーーある特殊な能力を与えられた。それは、自分自身が決して到達できない場所を夢見る能力であり、その能力故に人は、動物よりも遥かに意識的に前進する事ができる。が、彼が幻に到達する事はできない。彼は常に中途半端な存在である事を要請される。彼はやがて、幻滅し、疲労し、絶望するだろうが、それでも、彼が前進したという事だけは事実である。幻に釣られたとしても、彼が歩いた軌跡が消える事はない。


 さて、ここで問題であるが、彼の動きを「横」から見たらどうなるのか。僕自身の運動を「横」から見たらどうなるのか。僕には「幻滅する自分自身の姿」が見えるのか。もし、見えたとしたら、僕はこんな風に言えるだろう。「確かに、僕自身は自分の道を歩く上で幻滅し、疲労し、力尽きた。が、それを見ているもう一人の僕は幻滅してもおらず、疲労してもいない」と。


 道元は、日々の鍛錬それ自体が悟りであるという風に言って、「悟り」という絶対的なポジションを相対化しようと試みた。では、その時「悟り」という言葉にはどんな意味があるのか。

 

 これはウィトゲンシュタインが言った事ではないが、おそらくは、絶対的なものというものは、「自己」という絶対的な仮象からスタートを切っているのであろうと思う。神は、絶対的な自己が対象化された産物とも考えられる。それら全てを「横」から見ると、何が見えるのかというのが今考えている事である。


 ウィトゲンシュタインが言語ゲームという思想で、あらゆる真理の探求を、人間の行為の一つとみなしたように、僕自身も自分自身の絶対に向かう心性を見つめなければならないだろう。そうでなければ、僕は必ずや破滅するであろう。もし、ウィトゲンシュタインのように、あらゆるものを行為、関係性、生活形式(これらは全て概念を越えている)として見る場合、ウィトゲンシュタインという存在は一体いかなる存在かというのが「僕ら」にとっては疑問となる。僕らはウィトゲンシュタインを一人の哲学者として扱うが、彼の内面を覗いていくと、彼は正に、形而上的な一つの視野である事がはっきりするだろう。認識としての生を生きる事ーー人はそうでなければ、本当に生きる事ができないのだろうか。


 さて、今言ったような「本当に」という言葉に取り憑かれる事、これを鎮める為に、ウィトゲンシュタインの哲学は参考になるーーと僕は言いたいのである。だが、これが鎮まった次元とは言葉では語り得ない。人間は言葉=論理を逃れられないから、いつまでも錯誤のままに留まるだろうが、錯誤の限界を内側から描き出す事ができる。カントとウィトゲンシュタインはそれをやった。彼らの方法論は、絶対に向かう存在を相対化する方法論というものにおいて、非常な意味がある。もしその方法が実行できたら、僕は破滅に向かう自分を見る事ができるだろう。そして、それを見ている自分は破滅する事なく逃れられるであろう。そんな風にして、ウィトゲンシュタインの言語ゲームという哲学を自分なりに活用したいーーそう思っている。

 





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