1.記憶の棘
小泉八雲の「人形の墓」を読んで、ずうっとその話が頭の隅に残っていました。
これは私の「不安」の物語。
たったひとりの姉を亡くした。
けれど、悲しい、という感情はわたしのなかになかった。なんだか奇妙な空白感だけがそこにあった。
しばらく疎遠だったせいなのだろうか。たった二人の姉妹だというのに、成人してからは、あまり姉と会うこともなかった。それはお互い社会人として、仕事やプライベートや、いろいろ忙しすぎたからだろう。
それに、わたしは姉がなんとなく苦手だった。
理由は、ないような気がする。
両親を亡くしてから、実質姉がわたしの保護者であったと言うのに。
その姉が亡くなって、わたしの身内は祖母だけとなった。その祖母も傘寿を済ませた高齢で、特にこの五年ほどは寝たり起きたりの生活となり、いまも入院している。
だから、わたしが頼りにしていたのは確かに姉だけだった。
けれど姉の訃報を聞いたときも、葬儀を済ませたときも、何故だろう、悲しいという感情は訪れてくれなかった。
それでもこうして遺品を整理していると、もういない持ち主の記憶に胸を刺された。
姉は、妙に準備の良いひとだった。
よもやこんなに早く死ぬなどと思ったわけでもないだろうに、保険だとか預金だとか、面倒だけれど重要そうなものはきれいに整理してあった。おまけに、ちゃんと懇意の弁護士さんもいたらしい。生命保険の請求や遺産相続も、わたしでもなんとかなりそうだ。
そう思ったとき、気づいた。
姉はあの時、ひどく苦労したのだろう。
わたしたちの両親が事故で亡くなったとき、私は四歳、姉も中学に上がったばかりだった。遺産とか保険とかどうだったか知らないけれど、小さな事務所をやっていたというから、きっと借金もあったはずだ。
幸いわたしたちは祖母に引き取られ、祖母の手で育てられた。その祖母も、わたしが小学校を卒業する前に体を悪くし、それからは姉が母親がわりだった。
その姉が、この度亡くなった。
葬儀に駆けつけてくれたのは、近所の人、姉の職場の人と友人、わたしの友人。
知らせるべき親族はいなかった。
葬儀会場を思い出すと悲しくなった。でもそのあとのほうが、もっと切なかった。
火葬場では何基もの炉が同時に焚かれる。だからお骨を拾うのも、何家族もがほぼ同時に行うことになる。
何十人もの遺族がひしめき合う傍で。
わたしは、ほんとうに独りきりだったのだ。
そのときの心地を思い出し、ひどく切なくなった。
揺らぎそうになる感情を静めようと探った手が、一冊の本に触れた。
それは、アルバムだった。古いが可愛らしいデザインで、一見して子供の写真があるだろうと予想できる。
開いてみれば思ったとおり、赤ん坊の大写しで始まっていた。
わたし?
違う、とすぐにわかった。
赤ん坊のそばに、『文月』と書かれた半紙が写っていたからだ。
文月とは、七月生まれの姉の名だ。
ふしぎな気分で、わたしはアルバムをめくった。
写真の中で、赤ん坊はすくすくと育っていった。寝てばかりの赤ん坊は、おすわりをし、立ち上がり。保育園の黄色い帽子、小学校の赤いランドセル、遠足や運動会を経て。
だぶついたセーラー服姿を最後に、ページは空白に戻った。
この空白に写真を貼る人が居なくなったのだ。写真を撮る人が居なくなったのだ。
白紙をめくる。白いページはめくる度、ぺりぺりと音をたてた。開かれることのなかったページの純白は、両親を喪った姉の哀しみそのもののようだった。
今度は、逆にめくってみた。
中学入学式の姉。小学校卒業の姉。雪だるまと並び、紅葉を背景に、西瓜にかぶりつき、桜の下で、姉は笑っていた。カメラを向ける父に、母に、笑いかけていた。
と、ページをめくる手が止まった。
この子は、誰かしら。
思い出せなかった。
その少女は、度々姉と一緒に写っていた。
黒髪をおかっぱにした色白の女の子。人形のように可愛いその子は、よほど仲が良かったのか、ままごとのときも、お勉強のときも、姉と並んで写っていた。
思い出せないのに、見覚えがあった。
覚えていなくても不思議はない。わたしと姉とは八つも歳が離れているのだもの。この子もきっと今では大人になっているだろう。
けれど。
姉の葬儀を思い返した。
こんなに仲が良さそうなのに、この少女だったひとはいなかった気がする。
誰だったかしら。
思い出せない。
姉の知人にも何人か会ったことはある。けれど、こんな面差しの女性には覚えがない。
誰だろう。
思い出せないまま、アルバムを閉じる。段ボール箱に収めるために、アルバムを手にわたしは立ちあがった。
そのアルバムから、ひらりと写真が一枚舞い落ちる。
まるで不出来なドラマのワンシーンのように。
さっきの少女が、椅子に座っていた。
藍色の着物は色とりどりの花を散らし、それ以上に華やかな顔と誇らしげなまなざしでこちらを見ている。
誰、だったかしら。
期待したわけではない。誰でもついやってしまうこと。
わたしは写真を裏返した。
『ごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい
きょう ミナコを埋めた』
なんの、ことなのか。
もう一度、読み返した。
文面は、変わらなかった。
『今日ミナコを埋めた』
どういうこと?
ミナコってだれ? 埋めたってなにを?
薄い鉛筆の文字を、何度も何度も読み返す。
そして、表の写真を見る。幼い少女の笑みを見る。
そうだ。
これが、ミナコだ。
出だしから不穏な気配です…




