第31話 「崩れてしまったもの。」
崩れてしまったものはなんだろう――
こんなハズじゃなかった。
こんなつもりじゃなかった。
昨日の始業式の朝の出来事が、録画したビデオのように何度も
何度も頭の中で再生された。
きっと、私と室岡くんの距離はこのまま縮むことはない。
友達のまま、あと半年ほどの高校生活を過ごし、そして卒業して
いくんだろう。
そんな風に私は思った。
今日もまた、下足場には人の気配が無い。
自分の下駄箱から内履きを取り出し、私は靴を履き替える。
今日は火曜日。サッカー部の朝練がある日。
室岡くんに会えるだろうか・・・・
玄関を誰かが通ってくるような気配がした。
私は視線をやった。
「あ。」と心の中で言う。
室岡くんだった。
彼と目が合った。
フッと、室岡くんがすぐに反らした。
そのまま下駄箱へと近づいてくる彼。
「おはよう。」
私は言った。
「あぁ、おはよう。」
室岡くんがポツリとした口調で返す。
そして彼は何も言わなかった。
靴を履き替えている最中、室岡くんは一言も話さなかった。
「バタン。」と彼が下駄箱の扉を閉める。
そのまま私を横切って、体育館へと続く廊下を歩いて行った。
いつもなら「じゃあな」とか、「また後で」なんて言葉を置いていって
くれるのに、今日はそれが無い。
踵をつぶした内履き、パタッパタッという靴音、あの後ろ姿。
それらはいつもと何も変わらないのに、何かが違うと思った。
何が違うのかは、わからなかった。
今朝の下足場での出来事を、私は一日中考えていた。
目を反らされたことが、あまり話さなかったことが、どれも些細な
ことで大したことじゃないのかもしれないけど、ひどく気になった。
今日はたまたまそんな気分だったのかもしれない――
前向きに思ってもみるけど、すぐに不安にかき消される。
何か、気に障るようなことを言ったのかも――
だけどそれに思い当たることがひとつもなくて、余計不安になった。
授業中でも、お昼ご飯を食べている間でもその事だけが
思い浮かんで、こうして帰り道を歩いている今でも、私は上の空だった。
スッ――と、私の横を一台の自転車が通り過ぎる。
自転車は静かに横切り、そのまま私を追い越して行った。
あの後ろ姿を、私が見間違えるはずがない。
いつもいつも、後ろ姿ばかり見ていたから――
あの背中にしか、”好き”と言えなかったから――
室岡くんの乗る自転車は、遠くへと消えていった。
私はそれを、ただ呆然と見ていた。
消えていく彼の後ろ姿を。
何も言わず、黙って通りすぎていった彼を見ているしか、
私にはできなかった。
その夜、室岡くんにメールを送ろうと、携帯を開けたり閉じたりした。
メール本文記入の欄を表示画面に出して、取り消しボタンを押す。
何度も何度もそれを繰り返した。
”今日の帰り、何で声かけてくれなかったの?”
そんなこと言えるわけがない。
彼にとって私は友達で、友達からそんな風に言われるのは
おかしいと思う。
彼女だったら不自然じゃないだろうけど、私は彼女じゃないから。
結局メールは送れず、私はベッドに仰向けに横になった。
上を見上げ、見えたのは天井じゃなく室岡くんの後ろ姿。
自転車に乗って遠ざかっていく彼。
いつもみたいに、後ろから声をかけてほしかった。
無言で横切っていかれたことがショックだった。
それは彼にとって大したことじゃないのかもしれないけど、そう
思うと余計胸が締め付けられて、涙が出た。
それ以来、朝の下足場で室岡くんと会わなくなった。