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「それにしても良く許可が下りたね」
「私も正直驚いたわよ」
月基地から車で1時間程離れた『ルナ・アーク市立シェリアム記念公園』に、ミズキ、マーディン、ブランシュの3人は休日を利用して羽を伸ばしに来ていた。この公園は月のテラフォーミングが完了し、地球からの移住が始まったころ、月で一番最初に作られた緑豊かな緑地公園で、多くの月市民の憩いの場になっている。公園の一角では小動物の放し飼いもされており、家族連れの姿も多く見ることができた。
ミズキは月基地に配属になって初めての休暇の際、同僚に誘われてこの公園を訪れて以来、機会があれば足を延ばす。月では人工的な施設がほとんどで、ここまで地球の自然を模した場所は他にない。地球出身のミズキにとって、落ち着く場所の一つであった。
先日エディに何か要望はないかと聞かれて、ミズキは正直不意打ちだったからノーアイデアだった。しかしふとこの緑をブランシュに見せてあげたいと思ったので、外出許可を希望したのだ。月よりもさらに自然環境の厳しい火星ではドーム以外で緑は育たない。少女がもし、火星で生まれ育ったのなら、この緑は初体験のものになるだろう。いつも監視の多い基地内でほぼ軟禁状態にあるブランシュも、本来は10代半ばの少女である。環境を変えれば何かいい刺激になるのではないかと、ミズキは考えたのだ。
しかし、ブランシュは火星軍の重要人物だ。
彼女がこちらに仇なすことを警戒しつつ、その身柄の安全をも配慮する必要性があった場合、一般市民の多い公園などは本来忌避すべき場所ではあるが、ミズキはブランシュが何もしでかさない自信があった。しかし、その自信はミズキのものであり、他者も同意見を持っていることはあまり思えず、この場合は残念ながら少数派でしかない。
「あっさり許可が下りたから、あの二人が何か考えているんじゃないかって勘繰りたくもなるわよ」
心地よく流れてくる涼やかな風に、ミズキの長い黒髪が靡いて、彼女はそれをけだるげに押さえながらそう、口を尖らせた。とは言え、基地外への久々の外出とあってどこか開放的な気分を味わっている様子であり、機嫌は悪くない様子だ。
「長官たちは君のことをとても信用しているからじゃないか」
「そうだといいんだけどね。まあ、貴方が今回同行することになったのだって、どうせどこかの情報局長の差し金で、きっと他にも私に気づかれないように監視の目はこの家族連れの中にいくらか混ぜ込まれているんだろうし――あっ、ブランシュ! どう、ここはいいところでしょう?」
ぽつん、と所在なさ気に立ちつくしている少女の姿を目の端にとらえて、ミズキは声を掛けた。アイスブルーの大きな瞳を僅かに動かして、景色を眺めているように見えるが、きっと少女の中ではあの恐ろしく回転の速い頭脳を総動員して周囲の情報を収集して、分析しているに違いない。
「……ここは、広いところです」
相変わらず抑揚のない電子音声口調で答えたブランシュは、足元にじゃれついている子犬の存在に戸惑っているようにも見えた。表情は相変わらず変わらないが、どう行動すべきか分からず、固まってしまっている。微笑ましい光景に、ミズキはブランシュの新たな一面を発見した気がして、思わず顔がほころんでいた。
「その子、ブランシュのことが気に入ったみたいよ? 構ってあげたら」
「……構う?」
小さく首を傾げて足元の子犬を見下ろしたブランシュを見て、マーディンは苦笑した。
「こうするのよ、おいで!!」
ミズキはしゃがんで、ブランシュの足元にいる子犬に呼びかけた。手を叩いて注意を引くと、子犬はすぐに大きく尻尾を振りながらミズキの方へ駆け寄ってきた。ミズキは微笑んで子犬を抱き寄せると、その頭を撫でた。
「こうしてね、まああなた何て可愛らしいのかしら、大好きよって抱きしめてあげるのよ」
ミズキに子犬を渡され、思わず反射的に受け取ってしまったブランシュは、大昔のロボットのようにぎこちない動きで腕を動かして、抱き上げた。
「どう、可愛いでしょ? そう思わない?」
少女の違った反応を引き出したくて、そうなることを期待して、ミズキは根気よく話しかける。しかし、ブランシュの反応はそっけない。
「温かいです」
「………………」
予想外の返答に弱り切ったミズキは、思わず助けを求めるようにマーディンの方を振り返ったが、彼は困ったように苦笑しているだけだ。
仕方なく、ミズキは指導を続ける。
「愛情を持って、抱きしめてあげるの、動物は人の感情に敏感なのよ。貴女がこの子に好意的に接していれば、必ずそれに応えてくれるわ」
ブランシュは腕の中の子犬を見下ろして、再び首を傾げた。
「愛情……好意……?」
少女は言葉を理解できないわけではない。実際ブランシュはIQも高いし、同年代の少年少女と比較してかなりの博識である。しかし、少女は言葉を理解することは出来ても、その意味を理解することが出来ない。だから、どうすればいいのか分からなくて対処に困っているようだ。
「好きって表現するの。ぎゅ、って抱きしめてあげて。さあ、やってごらんなさい」
言われ、ブランシュは大真面目に頷くと子犬を抱きしめてみた。すると子犬は突然甲高い声で吠えだした。悲鳴にも聞こえた。子犬の変貌にも表情一つ変えずにいる少女の行為は、抱きしめるというより、締め付けるといった方が相応しかった。いけない、そう思ってミズキは何らかの行動を取る前に、子犬は本能に従って反撃に出た。
「―――――!!」
子犬はブランシュの腕にいきなり噛みついて、突然のことに怯んだ少女が緩めた腕の中から飛び出して、勢いよく走り去ってしまった。
「大丈夫か?!」
マーディンがブランシュの腕を取って、子犬に噛まれた傷を診た。幸い、子犬は歯も生え揃っていなかったようで、大事には至らなかった。彼はハンカチを取り出してとりあえずの処置をした。
「ねえ、ブランシュ。どうして子犬が噛みついて逃げたか、分かるかしら」
「私の愛情が足りなかったからですか?」
「愛情って何?」
「大切に思い、慈しむ心のことです」
どこかの辞書を引いたまんまような返答を返す少女に、ミズキは思わず頭痛が酷くなる思いだった。
「大切に思うってどういうこと?慈しむ心ってどういう心のことを指すの?」
ミズキの突っ込んだ質問に、ブランシュは考え込むように視線を落とした。どう返答すべきか、考えあぐねているようだ。
そんな少女の細い体を、ミズキは背後からギュッと抱きしめた。回す腕に徐々に力を込め、ブランシュの真っ白な肌が赤くなっていくほどにさらに力を加えていく。
「どう、今どんな感じ? 貴女の言葉で分かりやすく教えて」
「……皮膚が圧迫されています」
相変わらず棒読み返答するブランシュに、ミズキはさらに問いを重ねる。
「皮膚が圧迫されて、どうなの?」
少女は黙り込んだ。どのような返答をミズキが望んでいるのか、計りかねているようだ。ブランシュにとって、マスターであるミズキの要求に応えられないには、表情にこそ現れないが相当にきついことのようだ。
「――呼吸が…、その、少し……苦しいです」
いつもとは異なり、はっきりしない小さな声でブランシュは答えた。締め付けられる苦痛からではなく、そう返答することが少女にとって苦痛であるようにミズキには感じられた。
「さっき貴女が子犬にしていたのと同じことを今、私は貴女にしているの。ここに貴女の言う大切に思うこと、慈しむ心は感じられるかしら」
「………………分かりません」
ブランシュは小さく首を振った。
「申し訳ございません。理解、出来ません」
本当に消え入りそうな、小さな声だった。ブランシュはそう答えることを相当に恥じているように思えた。
「謝ることなんてないのよ。分からないなら、分からないって正直に言えばいいの。分からないことは恥ずべきことじゃない。分からないことを知ろうとしないことの方が恥ずべきことだと、私は思っているんだから」
ブランシュがようやく見せた感情らしきものに、ミズキは愛しさすら覚えた。
「大切に思うってことは、相手のことを思いやって行動することだと、私は思うの。相手に対して優しさを持って接することで、自分自身も温かな、幸せな気持ちになれるのよ」
「……温かい……?」
自分の体を包み込むように回されたミズキの両腕に、ブランシュは恐る恐る、といった様子で自分の手を重ね、そっとその瞳を閉じた。まるで、ミズキの体温を心で感じようとしているかのような仕草だった
「そう、温かくって幸せで、でも切ない感情なの。人の感情ってとても難しいから一言で表現できるものじゃないわ。それが分かれば、貴女はきっと大丈夫。だから覚えていて。絶対忘れないでね」
ミズキに耳元で優しく囁きかけられた言葉に、ブランシュは素直に頷いた。
そう、きっと大丈夫――ミズキは確信をもってそう報告できると思った。
少女はすこしずつ『人間』に還りつつある。ミズキはそう心から信じていた。
そう、信じて疑わなかった。
登場人物紹介⑥
レヴィラ・エリード
火星が誇る若き医療工学の権威。中央軍科学研究所に所属している。年齢はおそらくマーディンと同年代。出身は火星と言われているが、研究所に来るまでの経歴は不明な点が多い。ブランシュをはじめとする多くの機械人間を手がけた。ほとんど人前には現れないため、容姿なども一般には知られていない。計算高く、冷酷な人物とされているが、真偽の程は定かではない。