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人間の感情がとても複雑で、そのくせ単純に出来ているということ彼女自身、よく理解しているつもりだった。しかし、実際そのことを痛感させられてしまう場面に直面した時、彼女はそれでも困惑を隠すことできずにいた自分に対して、苦笑するしかなかった。
「あれほど敵視していたのに…」
言葉にすると少し、落ち着く。一息ついて、顔を上げると彼女の見知った顔――彼女にとっての上官が、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「基地内でも最近の君の心変わりの話題でもちきりだ。勝率9割超を誇る、月基地きっての戦術司令官ミズキ・クレイム中尉があれっほど疎ましく思っていた例の『白い悪魔』の命乞いをしたってね」
「仕方ないですか。したくなったんだもの」
そう言ってミズキは視線を上官から側のベッドに横たわる少女に移した。
その少女は髪も瞳も墨のように黒いミズキと対照的な程に、驚くほどに白い少女だった。純白にすら見える淡い銀色の髪に蝋のように白い肌。今は閉ざされた瞼の下の瞳は淡いアイスブルー。年齢は15・6歳位でミズキより一回り下に見える。およそ色素のない少女は、まるで天使のような可憐で儚い容姿にも関わらず、この月基地での渾名は『悪魔』なのだ。
「以前はこんなに憎らしい存在なんていないと思っていました。彼女さえいなかったら私のキャリアは完璧だったはず。だから今回撃墜・捕縛って聞いた時は絶対第1級戦犯として極刑にしてやるって思ってました。でも……」
一旦言葉を切ったミズキに対して、彼は静かに続きを促した。
「だって、こんなに子供だって知らなかったわ。それに……機械人間なんてそんなの酷過ぎる。火星の連中のすることなんて信じられないわ」
機械人間とは、人間兵器として文字通り半機械化された人々を指す。医療工学が発達した西暦2100年代、その技術を悪用した人体改造が裏社会で行われるようになって久しい。連邦法ではそのような人体改造を固く禁じていたが、現在のような戦時下においては、特に大勢力を持たない火星などでは公然と行われていると専らの噂だった。
「こんな子供にあんな酷いことができるなんて――火星人の血は緑色なのよ!」
「それで君はショウに進言したんだね? 彼女に必要なのは断罪ではなく、保護なのだと」
「そうです。私は間違ってないと思います。貴方はどうお考えですか、エディ」
ミズキの上官でもあり、昔からの友人でもあるエディ――月基地の副官のポストにつく情報局長、エディラント・ゼファー少佐はそのともすれば女性的に見える柳眉を顰め、困惑した様子でため息をついた。
「連邦軍の現行法規に従うのならば、彼女の処分は極刑に相当する、重いものになるだろうけど、今回は……、ね。特例措置が適用されるかは、今行われている会議次第だろう」
「ショウは――長官は何かおっしゃってた? その…会議前に」
「一応、頑張ってみるとは言ってたけど。そろそろ、終わるころなんだけど…」
ミズキは部屋の壁に掛けられた時計を見上げた。時計はもうすぐ午後9時になる。会議が始まってからもう5時間以上経過している。会議が踊りまくっていることは想像に難くない。
「君の意見はここでは少数派に属するからね。いくらショウが支持してくれたとしても……」
エディは顔を曇らせた。地球を中心とした連邦政府は現在火星とは全面戦争の真っ只中というこの上なく険悪な関係にあることを考慮に入れると、どう考えても穏便に済まされそうにもない。会議が予定時間を大きく超過しているにも関わらず、終わる兆しさえ窺えないのがいい証拠だ。ミズキは床上の少女に目を落とし、そしてまた時計を見上げる。
「少しは落ち着きなさい、ミズキ。君が苛立ったところで状況が好転するわけでもない」
「そんなこと…っ! 分かっています、でも!!」
上官にたしなめられ、ミズキは唇を噛んだ。言われていることは尤もだ。けれど、分かっていてもどうしょうもないことだってある。会議ではきっと少女の処分について、きっと厳しいのもが下されているに違いない。それはきっと、当然のことなのだろう。常識で考えれば、それ以外の決定などあろうはずがない。しかし、ミズキは心の奥で、あの頭の固い上層部たちの良心に期待していた。いくら火星軍の射撃王で、連邦にとって最大級の脅威であることには違いなくても、あんな子供に掛けてやる情けの1つくらいあってもいいのではないか、と。
祈るような気持ちで手を組んだミズキは、その時突然部屋に響いた来客を伝えるノックの音に過剰に反応した。
エディがそれに応えてドアのロックを解除すると、程なく静かに電子扉がスライドした。そこにはショウの秘書官が立っていた。
「ゼファー少佐、クレイム中尉。セリザワ長官がお呼びです。長官室までお越し願います」
どうやら会議がやっと終了したらしい。
ミズキは秘書官の言葉が終らないうちに部屋を飛び出して行った。驚いた秘書官は、それでもミズキとの衝突を寸前のところで何とかかわした。
「済まないね、ここは任せても構わないかな」
金髪碧眼、王子様然とした美形のエディににっこりと微笑まれて、秘書官は真っ赤になりながらほとんど反射的に頷いていた。