第3話
すごく久しぶりに投稿。
半年間で構成が気に入らなくて、第1話、第2話ともに編集しました。
話の流れは変わっていませんが、少し言葉を足したり減らしたりしています。
「私の顔に何かついているかい?」
あまりに熱心に見つめすぎたせいか、男は苦笑してそう言った。真音は恥ずかしく思って首を横に振る。しかし、視線は男から離せなかった。
「突然こんなことになって、混乱しているだろうね。君の名前を教えてもらっていいかな?」
「名前?」
ガン、と衝撃を受けた。そういえば、この世界に落ちてから、真音は自分の名前を誰にも告げていない。真音は常に神子様と呼ばれていた。
初めて『真音』という個人に意識を向けられたような気さえする。
自分は本当に知らない世界にきてしまったのだ。
この人に名前を教えられる。そう思うとなんだか嬉しくなった。
緊張しつつ、正確に伝わるようにゆっくりと話す。
「楠森真音です」
「クスモリマサネ。字はどうやって書くの?」
真音に質問しつつ、男はユ・ギマに視線を送った。
ユ・ギマはどこからか紙と筆記具らしきもの、そして小さな壺をテーブルに並べた。
紙は黄味がかっている。筆記具は透明なガラスのようなもので出来ていて、壺の中には黒い液体が入っていた。
これらをどう使えばいいのか分からなくて、真音は男を見る。
「これを見るのは初めて?」
「はい」
「じゃあ、ちょっと見ててね。このペンをインクに浸けるんだよ。私の名前は、リ・ロイ。こうやって書く」
男は初めて見る文字を書いた。しかし真音は、男の名前を知ることができた喜びで、知らない文字についてはどうでもよかった。
リ・ロイ。この人の名前。
声を出さないように唇を動かして、真音はうっとりした。
「読める?」
真音は首を横に振る。リ・ロイは驚いた顔をすると、真音にペンを渡した。
「話している言葉は通じるのに、文字は違うんだね。世界の膜を通った時になにか作用しているのか……」
リ・ロイが真音の理解できないことを言っているが、真音にはどうでもいいことだ。
もっとリ・ロイの声が聞きたい。さきほどから、彼に関する情報と声を聞くことだけに意識が向いている。
「ここでリ。ここでロイと読む。リが一族の名前で、ロイが私と世界をつなぐ名前だよ」
「世界をつなぐ……」
彼の台詞を繰り返してみた。なんだか、彼と同じ台詞を言っただけなのに嬉しくなる。
だが彼は、真音が疑問を繰り返したのかと勘違いしたようだ。
「そう。世界とつながるための名前は、生まれた瞬間に世界からもらうんだ。
話せるようになった子どもは、最初に両親へ自分の名前を告げるんだよ」
丁寧に信じられないようなことをさらっと教えられたが、真音はリ・ロイの声に夢中で、話の内容の突飛さはどうでも良かった。
リ・ロイに促され、リ・ロイと書いてあるらしい不思議な文字の隣に、楠森真音、と漢字で書いた。
リ・ロイの文字は丸みを帯びた線で書かれており、ところどころ、くるりと弧を描いている。
「これでクスモリマサネ?」
「はい」
答えてから、リ・ロイと同じように、この文字や意味についても説明したほうがいいかな、と思った。
「漢字と言います。ここで楠森、ここで真音。楠森が家の名前、家族の名前で、真音が私の名前です。両親が考えてつけてくれました」
「親が子どもに名前をつけるの?」
「はい」
「ふぅん。不思議だね。マサネと呼んでも良いかい?」
「はい!」
真音は思い切り頷く。リ・ロイに名前を呼んでもらえるなんて。
相変わらず真音がうっとりしていると、リ・ロイは真音が書いた漢字の名前のまわりに、何かを書きこみ始めた。
名前を円で囲み、円の内側によくわからない文様を書き、円の外周に沿うようにまた文様を書く。
真音の名前に一通り謎の文様を書き終えると、リ・ロイが書いた異世界文字の名前にも、同じような文様を書いていった。
「これでよし。ちょっと見ててね」
リ・ロイが文様の上に手をかざす。すると、文様が発光し始めた。
「うわ!」
その光が、真音の胸の上にも灯る。熱くはないが、摩訶不思議現象に直面して真音は驚いて立ち上がる。
思わずリ・ロイを見ると、彼の胸の上にも光が灯っていた。彼は笑っている。
彼の笑顔をみるとそれだけで安心して、正体不明の光なのに、真音はすぐに落ち着きを取り戻した。
光は徐々に収まっていき、文様の発光が終わると同時に、胸の光も終息した。
「今、マサネの存在を私につないだよ」
「えっ?」
わけがわからず、首を傾げる。真音を座らせると、リ・ロイは真音の脳みその限界を試すような説明を始めた。
「マサネはこことは違う世界、異世界から来た。神子と呼ばれる存在だ」
それは理解しているため、こくりと頷く。とにかく、真音は知らない場所、今までの常識が通用しない世界に来たのだ。
「私が予測するに、君は『世界の裂け目』に落ちたんだ。そしてこのヴォルテイム王国にやってきた。
その過程で『世界の膜』を通ったことで、マサネの身体はいろいろな変化を起こしているだろう」
「変化?」
真音は自分の身体を見下ろす。特に何も変わっているところはない。
「目に見える変化とは限らないよ。例えば、言葉」
「あっ」
リ・ロイが書いた文字は読めなかった。でも、話した言葉は相手に間違いなく伝わっている。
「そう、話している言葉は通じている。これがおそらく、世界の膜マサネに起こした変化のひとつだ」
その言い方、気になる。
「じゃあ、まだ他にも変わっているところがあるっていうことですか」
「そうだよ。でもそれは、すぐにはわからない」
目に見えない変化だから。
リ・ロイが飲み込んだ言葉を読みとって、真音は唾を飲み込む。
わからない。そう思った途端、足元の感覚が頼りなくなった。
「マサネは世界に放り込まれた異分子だ。世界の膜の影響で、なんらかの修正が加えられてはいるが、この世界で誕生した存在ではない。だから、この世界とつながっていない」
リ・ロイの言葉が真音の中に染みていく。今まで考えなかったことが頭の中に浮かんできた。
私は異分子。私はこの世界でたったひとり。頼れる家族もいない。
お父さん、お母さん。
両親と一人っ子の真音。たった3人の家族だった。
もうあの世界に戻れないのだろうか。
名前のつけ難い、もやもやとした感情。それが音もなく真音に忍び寄る。
そこに、リ・ロイの心地よい声が落ちた。
「世界とつながっていない存在は不安定になってしまう。だからね、マサネ」
「……はい」
「私とマサネの存在をつないだんだよ」
「つないだ……」
真音は救われたような気持ちになった。
「私は、ひとりじゃないってこと?」
取り繕っていた丁寧な言葉も抜けてしまい、真音は飾らない自分の言葉で、リ・ロイに尋ねていた。
彼は真音を安心させるように微笑むと、自分の胸に手を置く。
「私のここと、真音のここ。目に見えない糸でつながっているんだよ」
真音も、自分の胸に手を置いてみた。何も変わったところは感じられないが、彼がそう言うならきっと、見えない糸でつながっているんだろう。
真音はなんだか安心して、無意識のうちに、リ・ロイに微笑んでいた。
リ・ロイに好感を持った真音は、自分の世界のことをリ・ロイに話したり、逆にリ・ロイからこの世界のことを聞いたりなどして、眠くなるまでずっと、彼とともに過ごした。
◇◆◇
「固定契約をしたのか」
「そうだよ。私が、マサネとね」
「それがどういう契約なのかわかっているのか? 神の意志に反するものだ」
「神と言われる存在が、どうして彼女たちを落とすのか知っているんでしょ? なら、契約は必須だとわかっているよね」
「だが」
「神子については私の管轄だよ。まぁ、意見くらいは聞くけどね。さすがにあれから1500年も経てば、記憶は風化するか」
「……」
「覚えておきなさい。あれに同情してはいけないよ。そして、私はいつでも次に移れるのだからね」
「……ああ」
◇◆◇
ヴォルテイム王国の王の居城は、鳥が羽を広げたような、美しい姿をしている。その姿にちなんで『飛翔』という意味の古代語であるヘルツィサンメラと呼ばれている。
その城から1刻ほど離れた王都の最奥に、ヴォルテイム王国国教であるルレイア教のデシーム神殿がある。清貧を旨とするルレイア教らしく、装飾もない石造りの神殿だった。
そして、城と神殿のちょうど中間地点に、国王と大神官長が対談する場がある。といっても、この場を知るのは、代々の国王とその側近、そして代々の大神官長とその補佐くらいのもので、一般には秘匿されている。
その場に至る地下通路を下りながら、第59代国王であるリ・ロイは、神子の顔を思い浮かべる。この世界に来たばかりだというのに、過酷な運命を背負うであろう娘。
自分の代で、国を動かすほどの問題が文字通り降ってくるとは、運が良いのか悪いのか。
先を歩くカ・ビシが、重厚な扉を開く。リ・ロイが足を踏み入れると同時に、壁に備え付けられた明かりが灯った。対談の相手はまだ到着していないようである。
「彼が神子と会ってきた。どうやら、彼は固定契約を結んだようだ」
「そう、ですか……。では、神子は完全に我々の手に落ちたということですね」
「一応、な。彼の本当の狙いは私にもわからない」
沈黙が2人を包む。すると、あちら側の扉が開いた。
「お待たせいたしました、王よ」
「いや、こちらも今来たところだ」
大神官長であるメビスが、補佐のヤニスを従え入室した。
メビスは神殿のトップである大神官長の位についてから二十年経ち、すでに齢八十をいくつか超えたはずであるが、相変わらず、杖も必要としないほど矍鑠としていた。
リ・ロイは立ち上がり、メビスと握手を交わす。
「御変りないようで」
「ああ」
2人は同時に対談の円卓へつく。メビスの背には補佐のヤニスが、リ・ロイの背にはカ・ビシが控えている。
対談の口火を切ったのはリ・ロイであった。
「昨日、基点の丘付近の空から降臨された神子を、王国軍元帥ラ・ギヌ他数名で保護した。現在神子はヘルツィサンメラで過ごされている」
一気に言い切ると、メビスは胸を覆うあごひげをゆっくりと撫でつけ、笑みを浮かべる。
「ほう、それは良かった。諸候、国民にはいつ発表されますか」
やはり食えない爺だ、と内心で思いながら、鉄面皮のリ・ロイは表情を変えずに淡々と伝える。
「諸侯には明日中に速便で伝えるつもりだ。すでに神子を保護しているのに、無駄足を踏ませるわけにはいかないからな。
まぁ、神子の発見者には褒美をと言っていた手前、国王軍が保護してしまったとあれば多少の不満はあるだろうが」
「いたしかたないですな。ヴォルテイム王国最強の守護神であるラ元帥に、諸侯の私設部隊がかなうとも思えません」
メビスは苦笑を浮かべる。背後に控えるヤニスは、薄い唇を真一文字に引き結び、視線は足元に落としていた。
「国民へは、おそらく明後日以降に、王名で伝えよう。それまでに首都とヘルツィサンメラの警護を強化しなければ」
告げ紋が示す神子降臨は、国に発展と豊穣を与える。
王国史に記述されるこの一文は、国民の誰もが知る有名な一節である。
その神子がやってきたとあれば、国中がお祭り騒ぎとなり、その分犯罪も増えるだろう。それを見越しての警備強化である。
「地方の主要都市にも警備強化を伝えるべきでしょうな」
「それはもちろん」
リ・ロイとメビスは視線を交わす。リ・ロイは無表情、メビスは口端のみを上げた笑みを作っている。
決して和やかとは言えない空気である。
その他いくつかの確認を終えると、リ・ロイは席を立つ。たいした挨拶も述べず、城側の扉へ向かう。
その背に向かって、メビスは口を開いた。
「陛下、くれぐれも神子をお願いします。1500年前は魔術王の奇跡によって我々水族は命を繋ぎましたが、今回もその奇跡が起きるとは限りません」
リ・ロイはため息交じりに答えた。
「……わかっている」
そして、副官であるカ・ビシを従え、対談場を後にした。