第1話
「うぎゃぁぁあああああ!」
情けない悲鳴が尾を引いて木霊した。晴天の下、猛スピードで坂を下っていく1台の自転車。車輪の景気のいい回転音が止まる気配はない。
「なんで! どうして! ブレーキがきかないの!?」
必死の形相でブレーキを握りしめている少女の顔色は、当然のことながら真っ青である。
ブレーキの手ごたえが全くない。故障である。
間の悪いことに、ここはカーブも多い坂道の中間地点だった。少女の頭が真っ白になる。
季節は春。温かな日差しが青空から注いでいる。始業式の帰り道、桜並木の坂を軽快に下っている最中の出来事であった。
ふと、少女は気づいた。今年で三年目となるこの通学路。この坂を下った先には、いったい何があっただろうか?
「あぁぁぁぁあああ!」
最早、悲鳴を上げるしかない。
坂を下りきった先は、麓から崖に張り付くようにして上ってくる道との合流地点で、つまりはT字路である。
言うまでもなく、坂道を下りきった先は、崖。このスピードで突っ込んで曲がりきれるわけがない。
「しぬうううううぅ!」
白いガードレールの先には、真っ青な空と、少女が住む街並みが広がっていた。その向こうには海が見える。今日も降り注ぐ陽光を反射してキラキラと光っている。
少女は覚悟した。役目を放棄したブレーキをいっぱいに握りしめ、衝撃に備え全身に力を込める。白いガードレールは目前。
思わず目をつぶった次の瞬間、ガン、という強い振動の後、少女は嫌な浮遊感に包まれた。
……あ、わたし、終わったな。
楠森真音、15歳での出来事だった。
◇◆◇
議会は騒然としていた。神殿からもたらされた知らせのためである。そこかしこから、興奮した声が上がった。
そんな熱を持った空気の中、議会の中心、最上段に座した若い男は、無表情のままである。
銀の髪に湖面を思わせる青い瞳を持つ彼の無表情は、さながら氷のようだ。
「リ・ロイ、顔が怖いぞ」
「うるさい」
銀髪青眼の男――リ・ロイは、隣に座る男を睨む。リ・ロイよりはいくらか年かさの男は、睨まれて肩をすくめた。
「王の一声が必要だと思うぜ。議会のじーさんどもは王の指針にそってしか動けないからな」
「そのわりに、王の指針にやたらと文句をつける」
ふん、と鼻を鳴らして、リ・ロイは議長に視線を投げた。議長は右手を左肩にあて礼をすると、議会全体に通る声で告げる。
「静粛に。王の発言があります」
議長の言葉が終わるや否や、騒がしかった議会が水を打ったように静まり返る。
リ・ロイは立ち上がり、低く通る声で語った。
「皆も承知しているように、先ほど神殿から知らせがあった。ルクス・ムス・アラに告げ紋が浮かんだようだ」
王の言葉に場の熱気が一層高まった。
ルクス・ムス・アラは建国に関わる重要な泉で、神殿の奥深くに隠されている。高位の神官と王族しか泉の間には入れない。
そして、今日、その泉にある紋が浮かんだのだ。
「告げ紋は、異世界の者がこの地に現れる際のしるしだ。しかし」
そこで言葉を切って、リ・ロイはまわりを見渡す。
「どこに現れるかはわからない。言いかえれば、このヴォルテイム王国のどこにでも、現れる可能性がある。各地を任されている諸侯は、神子を探し見つけ次第、私の元へ。見つけた者には褒美をとらす」
諸侯が並ぶ一角から息を呑む声が聞こえた。相変わらずの無表情で、大臣が座る一角に目を向ける。
「神子を保護する体制を整えよ。神子発見後、速やかに儀式に移る。神殿にも通達を。私からは以上だ」
リ・ロイはそのまま議会から退席する。
もう自分が話すことはない。王の指針は伝えた。あとの細かい雑事を整えることが彼らの仕事である。
リ・ロイの隣に座る男も立ち上がり、王の後に従った。
「元帥は秘密裏に神子を保護しろ。絶対に神殿には悟られるな」
「はいよ。三将……そうだな、ティ・スフとやつの副官と他何人かで行こう」
「それがいい。まかせたぞ。神殿に神子をやればろくなことにならない」
諸候に神子を探させるのは神殿の目を誤魔化すためだ。
もはや過去の遺物でしかない、老害とも呼べる彼らに、神子を渡すつもりはない。
ふぅ、と息をついて、リ・ロイは窓から見える外を見上げる。国で一番高い山の中腹にある城からは、城下の街並みと、結界の外の眺めがみえる。
内と外を断絶する紺碧色をした境界は、ただゆらゆらと揺れていた。
◆◇◆
なんともいいがたい、いやな浮遊感を味わった後、真音を待っていたのは鋭い痛みだった。その後、息ができないことに気付く。
叫ぼうとして、口の中に冷たい液体が入ってきた。思わずそれをひと飲みして、むせて口を押さえる。そしたら今度は鼻が痛い。
なにこれ!?
全身の痛みの後にやってきたのは、芯まで凍えるような冷たさだった。思わず目を開けると、暗い闇が広がる。
パニックになりそうな頭を宥めながら、池か湖に落ちたらしいと考えた。水の中に落ちたのならばと、頭上を見る。とにかく上に行けば、水面に出るはずだ。
が、見上げても暗い闇が広がっているだけだった。信じられない気持で呆然とする。自分はそれほど、深く潜ってしまったのだろうか。あの崖から落ちて。
嘘でしょ!
絶望を感じた瞬間、必死に宥めていたはずのパニックが頭の中に広がった。見渡す限りの闇。しかも水の中。
冷たい。もう息が限界だ。
空気を求めて口を開いた瞬間、冷たい水が口の中を満たす。鼻の奥まで入り込む。あっという間に、喉から胃まで水でいっぱいになった。
苦しい。空気が欲しい。でもどこにもない。水ばかりが入ってくる。
真音はもがいた。
苦しい。こんな苦しい死に方はいやだ。
声にならない声で叫んだとき、それは起こった。
ぐん、と身体が引かれる。身体全体が見えない手に包みこまれたかのように、どんどん、どんどん、どこかに引っ張られていく。もう目を開けていられなかった。
なにこれ、下に引っ張られていく……!
何度目かわからない死を覚悟したとき、ものすごい音を立てて、水から出た。正確に言えば、水の底から落ちた。
「あああああぁぁ!」
状況を把握する間もなく、ぼふん、と何か柔らかいものに着地する。
「ごほっ、ごほっ、――げぇっ」
水中から解放された真音は、空気を取り込む間もなく咳き込んで、柔らかい何かの上に大量の水を吐いた。
あまりの苦しさに涙がにじむ。咳はなかなか止まらず、息を吸い込むことができない。
「はぁっ、はぁっ、ごほごほっ」
柔らかいものにそのままぼよんぼよんと何度か弾み、落ち着いてくる頃には真音のパニックも小康状態となった。
「……いたぁい」
どことは言えない。もはや全身が痛い。しかもびしょ濡れ。
しかし、このぽよぽよと柔らかいものは何だろう。
ようやく目を開け、眼前の光景を見る。
目の前には、青い半透明のものが広がっていた。ひんやりとして、柔らかく真音を包みこんでいる。まるでゼリー状に固めた水のようだ。
「なに、これ」
もう、なにがなんだかわからない。自転車のブレーキが壊れて、そのまま崖から落ちて、気づいたら水の中に落ちていて、その水からも落ちで、ゼリーのような柔らかいものに包まれている。
見上げると、深い藍色とも緑とも黒とも言い難い、不思議な色合いをした紺碧色の膜のようなものが広がっていた。あれは空、と呼べるものなのだろうか。
その表面がゆらりと歪んだような気がして、あそこから落ちたのだと思った。信じられないが、そうだとしか考えられない。
空に水がある。
「豪快に落ちて来たなぁ」
どこからか声が聞こえた。若い男の、低く心地のいい声。
真音はびくっと肩を震わせ、硬直する。
すると、真音を包むゼリー状の物質が徐々に形を無くしていった。ゆっくりと透明になっていく青いゼリー。
無くなったゼリーの向こう側には、漫画の中でしか見たことがないような、鋼色の甲冑に身を包んだ騎士がいた。それも複数。
その中から、一歩前に進み出る騎士がいる。青いマントを翻し、面当てを上げ、笑みを浮かべている。黄味のない白い肌、銀色の髪と緑の瞳。
日本人じゃない。真音はまずそう思った。そして、自分が映画か何かの撮影現場に迷い込んでしまったのかと思う。中世の甲冑を着こんだ騎士など、現代にいるわけがない。
「大丈夫か?」
銀髪緑眼の騎士が、手を差し伸べる。真音は反射的に立ち上がり、騎士から距離を置いた。
「だれ」
真音は震える声で精一杯の疑問を口にした。酷くかすれて、相手に届いたかどうかも分からなかったが、男は苦笑して手を引っ込める。
「そう怖がるな。俺はラ・ギヌ。ヴォルテイム王国軍元帥だ」
真音は彼の言っている言葉の半分も理解できなかった。
「ラ・ギヌ? 元帥?」
ただ彼の言葉を繰り返す。変な響きの名前だし、聞いたことない国の名前だし、元帥ってなんだ。
真音は無意識に自分の身体を抱きしめる。指先が冷え切っていた。全身びしょ濡れで寒いことも、目の前の騎士も、ひどく現実味がなかった。
「告げ紋の通り、君を迎えに来た。まだ混乱しているだろうが、俺たちは絶対に君を傷つけるようなことはしない。水霊王に誓おう」
またよくわからない言葉が出てきたが、真音を傷つけないということはわかった。なら、この人たちについていこう。男の言葉の通り、敵意は感じない。
真音が頷いて見せると、男はあからさまにほっとしたような顔をして、背後の複数の騎士――男の部下のようである――に指示を出した。
「これより神子を王城へお連れする。各自配置につけ」
軍隊みたいだ、と真音は思う。そういえば、元帥という言葉は、軍隊の偉い人が持つ役職名のようなものだった気がする。
それにしても、神子ってなんだ。真音のことを指す言葉のようだが。
「みこ……?」
思わず口にすると、真音の問いを理解したのか、男が真音に説明する。
「告げ紋の示すとおり、異世界からやってくる存在を神子というんだ。さぁ、こちらへ」
異世界からやってくる存在?
真音の思考が停止する。異世界ってなんだ。なんだなんだなんだ。
「神子は王と神殿の双方から手厚く保護される。心配ないよ」
異世界? 異なる世界? ナンダソレ。
たび重なる衝撃のせいで、真音は真っ白になった。もう騎士たちのなすがままである。頭が情報を処理することを止めたようで、これまた馬車っぽいものに乗せられ、しかも引いているのは馬ではなく巨大なエビのような生き物で、映画に使われそうな壮麗な城に入っていったことなど真音の記憶に残らなかった。
異世界って、ナンダソレ。
真音の問いに答えるものはいなかった。