本女
私の彼は、本の大好きな人だった。”本の虫”であり、いつも”私は無視”だった。
「ねーねー、ここのケーキおいしいね」
「…………」
デートはいつも決まって静かな喫茶店。当然、彼の手には本が握られているし、視線の先は私ではなく、冷たい活字。
「ねーねー、この前さ」
私が独り言のように話をすると、彼がふと、私に視線を移した。
「ちょっと静かにしてくれる?」
そう言うと、彼の視線は再びカクカクしていてつまらない活字へと移る。本を見る彼の目は、私を見ていた時よりキラキラと輝いていて、なんだか嫌な感じ。
”彼は何であんなにつまらない本が好きなんだろう?”
私には理解できなかった。
ある日、私はついに我慢ができなくなった。だから、彼の大切に大切にしている本を全て捨ててやろうと思った。でも、ただ捨てるだけじゃないのよ。私は本が憎いわけじゃないの。本が、うらやましかった。あんなにも彼に愛されている本に……なりたかった。
「おまえぇ!!!! なんてことをしてくれたんだぁあああ!!! 死ね! 死ね!! 死ねよ!!!」
彼は愛する本を失い、発狂寸前。でも、安心して、私がいるから。
「『小生、汝を愛し、ついでに幸せ足る。つまりは、おまけの幸せで小生は十分なり』」
「!?」
私は得意げに、彼が一番好きだった本の一小節をそらんじた。
「おまえ……」
彼はひどく驚いた顔をしていた。うふふ、作戦通りだわ。
「私、あなたが持っていた本の一字一句、全て覚えたの! これからは、私があなたの”本”になるわ。あなたが本を読みたい時は、私が直ぐに読みたいところの文章を詠唱してあげる。新しい本が出たら、その都度全部覚えるから」
これで、彼の愛は私だけのもの。彼の本への愛情は全て、私に注がれる。私はこのとき、本気でそう思っていた。
「………………お前は何もわかっていない」
彼はやつれた顔でそう言うと、部屋から出て行った。
彼は二度と私の元には戻ってこなかった。
「何がいけなかったんだろう?」
私は何度も何度も自問自答してみたけれど、答えはわかならい。本から得られる情報と全く同じ情報が私の中にあるのに、何で彼は本と同じように私を愛してくれなかったのだろう?
「にゃー」
ふと、目の前を一匹の猫が通る。その時、ある小説の一文を思い出す。
『我輩は猫である』
夏目漱石の有名すぎる小説の一文。彼はこの一文が特に大好きで、機嫌の良いときに「吾輩は猫である」と何度もおちゃらけて言っていたのを思い出す。
「文学を手にした猫が見る世界は、面白いだろ?」
いつの日にか彼が私に言った言葉。私はその真意を知らないくせに「うん」と頷いた。
「びゅーーー!」
少し強めの秋風が吹く。いつもよりも、すごく冷たく感じる。
「……そうか、いつもは隣に彼がいたもんなぁ」
私の隣で寡黙に本を読む彼。会話はなかったけれど、隣に彼がいるだけで、うれしかったなぁ。
そう思った瞬間、心に私の知らない感情が生まれた。
「この感情は何だろう?」
私はこの感情を上手く表現できる言葉はないものかと思い、必死に覚えた本の中から当てはまる文章を探してみた。
「……『君が傍にいないと、寂しい』」
とある小説の一文が浮かんだ。私はそれをポツリと呟いた。すると、涙が溢れた。止まらない。彼が傍にいなくなって、初めてこの感情に気が付いた。
「え!?」
次の瞬間、先ほどまで私の頭の中でただ静かに鎮座していただけの、無機質でカクカクした文字達が、急に動き出した。頭の中の活字が、まるでテーマパークのパレードの様に活き活きと踊り始めたのだ!
「そうか……彼が見ていた文字は、こんなふうに本の上で踊っていたんだろうな」
私は、文字というものは、ただ情報を抽出するためだけの媒体であり、固くて柔軟性のない、すごくつまらないものだと思っていた。でも、違った。彼が見ていた活字は、まるでテーマパークのように楽しくて、時に愛のドラマのように悲しくて、様々な表情を見せながら踊っていたんだ。そして、彼を魅了していたんだ。
「もしかして、彼も今、寂しいのだろうか?」
ふと、彼の寂しい横顔が浮かんだ。彼の寂しさの理由が、本ではなくて私だったら……。
少しだけ、期待した。