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フォトグラフ(天体写真)
天体写真は、太陽や月などの極めて明るい被写体を除けば、夜空の星のごくわずかな光を撮影する特殊な写真である。したがって、フィルムに感光させるにしても、CCDなどの電子素子に受光させるにしても、数分から数十分間、カメラのシャッターを開きっぱなしにしないと撮影できない。
しかし、天体は地球の自転にあわせて、一時間に十五度の割合で円を描くように動いてしまう。それを点の像として写し取るためには、星の動きにあわせてすこしずつカメラの向きを変える、ガイド撮影という手法が必要になる。
*
僕は、レジャーシートの上に広げた寝袋に潜り込んで、小型双眼鏡を空に向けた。
冬の銀河が、うっすらと白く視界を埋め尽くす。
「智之ちゃん。寝転んでるだけなら、手伝ってよ」
空から降るように、綾乃の声がした。
半身を起こすと、ちょうどこちらを向いていた観月と視線が合った。その目が、かすかに笑う。
「一人じゃ、荷が重いわ。手伝ってあげたら?」
その言葉に、綾乃の表情が緩む。
綾乃は、部室のどこにあったのかと思うほど旧式の小型赤道儀と屈折望遠鏡を引っ張り出してきて、天文雑誌に載っていた手動ガイド撮影を見よう見まねでやっているのだ。
僕が起き上がると、綾乃は右手に持っていたシャッター板を差し出した。
シャッター板は、なんの変哲もない黒い板だが、天体写真の撮影には欠かせない道具のひとつだ。カメラのシャッターを切ったときの振動で像がぶれないようにするために、この板でレンズの前を塞いでおいてからシャッターを切り、その後で板をどけて撮影を開始するのだ。
「それより、記録の方を取ってやるよ。メモ貸して」
「いいよ、そんなの覚えられるから。それより、ガイドに集中したいから、シャッター板をお願い」
天体写真にとって、撮影時刻などの撮影データの記録は、なくてはならないものだ。どんなに綺麗に写真が撮れても、データがなければ学術的な価値はほとんどなくなる。とくに、露光開始時刻と終了時刻の記録は、そのときでなければできない大切なことだ。普通ならメモ用紙に記録するのだが、綾乃なら撮影時刻のデータくらい丸暗記してしまうだろう。
僕は、綾乃からシャッター板を受取る。
「ありがと」
短く答えた綾乃は、折りたたみ椅子に座ると望遠鏡を覗き込んだ。そして、手許に伸びたアームの先にあるハンドル球をすこしだけ回す。
その視界の中では、十字のスケールの中心に、こいぬ座の主星プロキオンを捉えていることだろう。
そのままの姿勢で、綾乃はリモートレリーズの押しボタンを左手で押し込む。
カシャっというかすかな音が、二つのカメラから同時に聞こえた。
僕は一呼吸置いてから、レンズの前を隠していたシャッター板をそっと外す。
「二一時五二分、露光開始」
腕時計を確認して、僕は声をかける。
綾乃は、軽くうなずいてそれきり無言になった。
綾乃の隣では、観月が双眼鏡を覗きながら、右手に持ったカステルの色鉛筆を画用紙の上に走らせている。
描き出されているのは、薄赤い羽毛のようなオリオン座大星雲だった。
やがて、綾乃がBUMP OF CHICKENの『天体観測』を口ずさみはじめた。
どうやら、余裕ができてきたらしい。観月の色鉛筆のしゅっしゅっという音とともに、綾乃のささやくような歌声が夜の底に流れる。
「なあ、綾乃……」
うん、と鼻歌まじりの生返事を返す綾乃に、僕は問いかける。
「なんで、そんな旧式のフィルムカメラを使ってるんだ。そのデジタル一眼レフだけで、じゅうぶんだろ。EOS Kiss Digitalは天体写真に向いたカメラだから、かなり綺麗に撮れるらしいぞ。それに、もしミスっても、モニターで見ればすぐにわかるし、パソコンで画像処理だってできるぞ」
デジタルもいいけどね、と返事をしたあと、綾乃はゆっくりとした口調で話し始めた。
「写真はね、一発勝負なんだよ。やりなおしは、きかないの。撮影、現像、焼付、すべての作業に意味があって、その結果が一枚の写真になるんだよ。だから、あたしはできることは全部自分でやりたいんだ。なにもかも機械任せ、人任せじゃ、写真を撮ったなんて言えないよ。たしかに、失敗はあるよ。でもね、失敗することにだって、ちゃんと意味はあるんだ。それをきちんと受け入れることで、次の成功が見えてくるから」
今は、カラー写真の現像や焼付けのスキルがないから、デジタルカメラも使ってるだけなの、と幼馴染の少女は白い息を吐いた。
僕たちのやりとりを横目に見ながら、無心にスケッチをしていたように見えた観月から、小さな声が漏れ出した。
「春日さんは……」
観月は、そこで口ごもる。
手許のスケッチと綾乃の横顔の間で、まるで見比べるように視線をさ迷わせたあと、観月は小さな声で付け加えた。
「いつでも、前だけを見ているのね」
望遠鏡を覗いたままで、あははっ、と綾乃が笑う。
「そうだよ。だって、あたしの目標は、いつだって目の前にはっきりと見えているんだもん。それに向かって、前に進むことしか考えられないよ。だからね、競争やプレッシャーですら、あたしには心地いいの。詩織ちゃんは、どうなの?」
「私は……」
観月が、また沈黙する。
そして、カステルの色鉛筆を、ゆっくりと左手に持ち替えた。
僕は、その横顔に浮かんだ表情に、どきりとした。
観月の目は、双眼鏡の向こうの星空に向いていた。けれどなぜか、僕はその視線がもっと遠くを見ているような気がした。
観月は、目を伏せると、再び画用紙に色鉛筆を走らせはじめた。
その唇が、わずかに動き、ささやくように告げた。
「遠すぎて、まだ見えないわ」