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あの日、星空の下で -Star Observation Society-  作者: TOM-F
Sign03 ピスケス・フォトグラフ
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β Psc


ピスケス(魚座)


 黄道十二宮では、十二番目に当たる双魚(そうぎょ)宮である。


 星座は、紐あるいはリボンで尻尾を結ばれた二匹の魚に見立てられている。いちばん目立つ星は、「魚の口」を意味する『フム・アル・サマカー』。


 占星術においては、二月一九日から三月二〇日生まれの人が魚座になり、その性格は「受動」だとされている。


 *


 暗闇のなかに、綾乃の緊張した息づかいが聞こえていた。


「ねえ、智之ちゃん……」

「ん?」


 呼びかけられた僕は、どうしていいのかわからないままで、返事を返す。


「あたし、初めてだし……うまく出来るかどうか、不安だよ」


 綾乃が、身を硬くしている気配が伝わってきた。


「だいじょうぶ……じゃないかな」


 当然のように、僕にも自信なんてない。

 正直言って、綾乃から誘いを受けたときは驚いた。

 たしかに僕は、小さなころから綾乃を知っているが、まさかそこまでするとは思わなかったからだ。


「どうしよう。やっぱり、やめようかな」


 ここまできてためらう綾乃に、僕は戸惑う。


「今更そんなこと言うなんて、綾乃らしくないよ。やりたいって言い出したのは、綾乃の方だよね」

「そうなんだけど……」


 すうっという、綾乃の深呼吸の音が聞こえた。


「うん、いいよ。やろう。でも、恥ずかしいから、こっち見ないでね……。あ、やっぱり、ちゃんと見て欲しい」


 覚悟を決めたらしい綾乃の声とともに、ぱちんという音がして照明が点いた。

 理性が麻痺しそうな真っ赤な光に照らし出された綾乃の顔は、いつになく真剣な面持ちだった。


 白いタートルネックのセーターの上にエプロンを掛けた綾乃は、手に持ったトングで、B5くらいの大きさの厚紙を掴んでいた。

 綾乃の目の前のカウンターには、プラスチック製の四角いバットが三つ並び、それぞれに透明な液体が入っている。甘酸っぱい薬品の匂いが、鼻をついた。

 綾乃は、トングで掴んだ厚紙を、一番右手のバットの液体にそっと沈めると同時に、大きなキッチンタイマーをスタートさせた。

 液体の水面に静かに広がる波紋の下で、真っ白だった紙の上に、黒い色がだんだん浮かび上がってくる。一面の黒の中には、ぽつぽつと白い点が見えていた。

 息をするのも忘れているのではないかと思うほど、まじまじとキッチンタイマーのデジタル表示を見つめていた綾乃が、軽くうなずいてトングでバットの液体からその紙を掴みあげる。

 隣のバットの液体に滑り込ませたその紙を、液の中で勢い良く揺り動かしたあと、三つ目のバットの液体に沈めてから、ようやく綾乃はほうっと息をした。

 その顔から緊張が消え、大きな目を細めて笑った。


「どう?」


 僕の問いに、綾乃は軽く肩をすくめる。


「どうかなぁ。たぶん、上手くいったと思うけど。焼付けは、初めてだったからね。緊張したよ」


 綾乃が、壁際のスイッチを押して、蛍光灯の照明を点けた。

 一瞬の眩しさに、目を細める。


 そこは、三畳ほどの狭い部屋で、壁際にはシンクの付いたカウンターが作りつけられている。

 シンクの隣には小型の冷蔵庫とガラス扉のついた食器棚もあり、まるでキッチンのようだが、バットの並んだ右手、ガスコンロのあるべき位置には、ネガフィルムから写真を焼くための引伸ばし器が据えられている。ついさっきまで、綾乃があれやこれやと格闘していた相手だ。


 綾乃の家は写真館を営んでいて、物販用の店舗や撮影用のスタジオとともに、撮影済みのフィルムを現像したり、フィルムから印画紙に写真を焼き付けたりするための暗室も設置されていた。昔はそれなりに需要があったらしいが、デジタルカメラの普及とともにその使命を終え、今ではこの家の一人娘である綾乃が、趣味のために使っているくらいだという。

 そういえば、綾乃の家には数え切れないほど遊びに来たことはあったが、この部屋に入ったのは今日が初めてだった。

 三つ目のバットから、トングで紙を掴みあげた綾乃は、シンクに溜めた水道水でその紙を洗ったあと、ドライヤーの冷風を当てて乾かす。

 黒一色の背景に、白い点が一面に浮かんでいる。それは、星空を写し取った白黒写真だった。

 綾乃が、うん、とうなずく。


「うまくいったみたいだよ」


 そう言って差し出された写真を受取る。

 確かに、白と黒のコントラストは良く、見事な星空が映し出されていた。しかし、なにかがおかしかった。

 その違和感に、僕はしばらく思い悩んだあと、あることに気づく。

 頭の中で、写真の中心を軸にして、左右を反転させてみた。すると、そこに見慣れた星座が浮かんできた。全天で最も明るい恒星シリウスを主星とする、おおいぬ座だ。


「綾乃、これ、左右が逆なんだけど」


 僕は、写真をなぞるように、おおいぬ座の形を描いてみせる。

 本来なら右に出ているはずのおおいぬの足が、左に向いていた。

 う、だか、え、だかわからない声をあげた綾乃は、引伸ばし器からフィルムをそっと外す。


「あ、ほんとだ。これ裏焼きしちゃった」


 ぺろっと舌を出しておどけてみせたあと、綾乃はフィルムをしげしげと見つめる。


「コマ番号の向きを、ちゃんと見てれば良かったのか」


 そうつぶやいた綾乃は、引き出しから細字のサインペンを取り出して、フィルムの上端にある数字を囲うように丸印を付けた。


「もう一回、やるよ」


 再び、部屋を闇が満たす。


「なあ、綾乃」

「ん、なに」

「なんで、手作業で写真を焼こうなんて思ったんだ。普通は、DPE店に出すんじゃないのか。それなら、失敗もしないし」


 暗闇のなかでがさごそとなにかを弄る音がして、ぱちんと赤色のセーフライトが点灯する。


「あたしのこだわり、だよ。いつか、自分でやってみたかったんだ」


 引伸ばし器にセットした印画紙の位置を整えながら、綾乃が答える。

 淡い赤色の光が、その引き締まった横顔に鋭い陰影を浮かび上がらせていた。

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