α Psc
「ごめんなさい」
綾乃が、真面目な表情で、そう告げた。
その目の前、階段の踊り場には、僕たちと同じ二年生を示す青と赤のレジメンタルタイを締めた、そこそこ見栄えのする男子生徒が立っている。
「あたし、好きな人がいるんだ。それに、やりたいこともいっぱいあるし。だから、お付き合いできないよ」
男子生徒の顔に明らかな落胆の色が浮かび、その目が僕に向いた。
僕は視線を逸らせるように、壁際で静かに事態を見守っている観月を見る。
綾乃を見ている観月の目に、なぜか男子生徒と同じ落胆したような色が見えた。
「じゃあ、あたし、部活があるから」
そう言って、綾乃は階段に足を乗せた。
彼女の上靴が踏んだ滑り止めが、タンッと弾んだ音を上げた。
「今日は、バレンタインデーだよ。そんな日に女の子にコクるって、どういうつもりよ。まあ、どっちにしても付き合う気なんてなかったけど」
部室の中央にあるテーブル席の窓側に座った綾乃が、鼻息も荒く言い放った。
「悪いやつじゃ、なさそうだったけど」
僕は、素直な感想を漏らす。
目の前の綾乃が、はあっと、大きなため息をついた。
「なんで、智之ちゃんについてきてもらったと思ってるの?」
「なんでって、一人じゃ心細いから……」
言いながら、それはないな、と僕は思う。
綾乃は、学業も運動も抜群の成績で、しかも見た目も可愛いらしい。そのうえ、明るくて社交的な性格ときているから、男子生徒の間での人気は成績同様にトップクラスだ。僕が知っているだけでも、もう二桁に上る男子から告白を受け、しかしすべて断っている。
その理由は、いつも同じだ。たぶん、あれは方便というやつで、恋愛にあまり興味がないのだろう。
僕と綾乃は幼馴染ということもあって、一緒にいることが多かった。登下校もほとんど一緒だったし、子どものころからの癖で手をつないで歩くことさえあった。
当然、綾乃を狙っている男子生徒から羨望と嫉妬の混ざった視線を受けることも、一度ならずあった。
今日の男子も誤解したに違いない。体のいい隠れ蓑みたいなものだ、と僕は思った。
なぜかまた大きなため息をついた綾乃は、通学用の鞄を開くと分厚い文庫本くらいの箱を取り出した。
ピンク色の薄い紙でラッピングされていて、白いリボンが十字にかかっていた。
「はい、これ。智之ちゃんに、だよ」
箱を受取ると、ラッピングした紙の柔らかな手触りがした。
見た目の大きさどおり、それはずしりとした重さがあった。中身は、おそらく綾乃の手作りのチョコレートだろう。
綾乃は、小学校三年生のころから、毎年バレンタインデーにチョコレートをくれた。
最初は市販の菓子に手書きのメッセージカードを添えたものだったが、小学校を卒業する年からは手作りのチョコレートになった。
その度に感想を問われ、甘すぎたとか苦味がきつかったとか答えていたら、中学校を卒業する年には、お世辞抜きに美味しいと思える出来栄えになっていた。
「ねえ、智之ちゃん。開けて見て」
白いリボンをほどき、ラッピングを開いて箱の蓋をとる。そこには大きなチョコレートケーキが鎮座していて、表面には白い粉糖で「from AYANO」と描かれていた。
「今年は、フォンダン・オ・ショコラだよ……」
作ってくるものの名称も、年を追うごとに難解になってきて、すでに英語ですらないものになっている。
「電子レンジで、ちょっと温めてから食べてね。中身が溶けてるけど、それで完成品だから」
ついに取扱説明書付きのケーキになったな、と僕は思った。メモしておかないと、食べ方を間違えそうだった。
満面の笑顔を浮かべる綾乃の隣で、観月がうかない顔をしてうつむいている。
そういえば観月からは、バレンタインのチョコレートをもらったことがない。
もっとも、もらえるなどという身の程知らずなことは考えていなかったから、気にしたこともなかったが。
読んでいた天文雑誌のページをめくった拍子に、観月のブレザーのポケットから、ピンク色のリボンがわずかに覗いた。
「詩織ちゃん、それって……」
目ざとくそれを見つけた綾乃が、観月に声をかけた。
観月は慌てたように、それをポケットに押し込んだ。
「あたし、全然気にしないよ」
綾乃は平然と言ってのけたが、観月は下を向いたままだった。
部室のクリーム色の壁に掛かった丸い時計に視線を投げた綾乃が、勢いよく席を立つ。その肩口を、すこし伸びた髪がさらりと撫でた。
「あたし、先に帰るね。写真部の人たちが、チョコを待ってるから」
「春日さん、私、ほんとになにも……」
観月は、綾乃を見上げるように口を開いたが、言葉は途中で行方を失った。
綾乃は、手早く鞄をつかむと、さっさと歩き出す。そして、部室のドアの前で振り返ると、真顔で告げた。
「詩織ちゃん、あたしね、そういうの嫌いなんだ。遠慮なんて、してちゃダメだよ……。智之ちゃん、絶対に、あたしのをいちばん先に食べてね。それと、明日でいいから、感想を聞かせてね」
綾乃が、バーバリーチェックのマフラーを襟元にくるりと巻きつけながら部室を出て行く。
金属製の重いドアが、その後姿を隠すように、すこし軋みながらバタンと閉まった。
「どうして……」
観月は、言葉を詰らせて、また雑誌に視線を落とした。
掛け時計の秒針が進むタッタッという音だけが、部室に響く。状況を整理できない僕には、観月にかける言葉すらなかった。
やがて、観月はふうっと肩で息をした。
そして、ブレザーのポケットからゆっくりと小さな包みを取り出す。
ピンク色のリボンの形を丁寧に整える観月の手の中で、丸く括られたセロファンがかさこそと音を立てる。
観月は、両手の掌にその包みを乗せると、僕の前に静かに差し出した。
「ごめんね」
消え入りそうな声でそう告げた観月の琥珀色の瞳は、いつものように潤んでいた。
観月がなぜ謝るのか、それはわからなかったが、僕は首を横に振ってから手を伸ばした。
僕の手がその包みに触れたとき、ピンクのリボンが微かに震えた。
可憐な花を思わせるその包みを、僕はなぜだか、観月の掌からすぐに持ち上げることができなかった。