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テレスコープ(望遠鏡)
遠くにある物を拡大して観測するための機器で、主に電磁波を利用している。電波を利用しているものも電波望遠鏡と呼ばれるが、一般的には可視光を利用しているものが望遠鏡の代名詞となっている。
望遠鏡は、対物レンズや反射鏡などの光学系部品と、それを固定する光学支持系部品、そして光学支持系部品を観測目標に向けるための架台によって構成される。
架台は、望遠鏡を支えるだけでなく、地球の自転に合わせて円を描いて動く天体を追尾する機能も持っている。
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大晦日恒例の歌番組が『蛍の光』の合唱を終えたころ、僕は制服の上に厚手のコートを羽織って家を出た。
瀬戸内海に面した朝陽の町は、冬でも比較的温暖な気候だが、今夜は凍てつく寒さに体が震えた。
振り仰ぐと、街灯りを映した夜空から、鼓のような形のオリオン座が地上の星空を見下ろしていた。
二軒隣にある白木の洒落た洋館の前に、白っぽい振袖にベージュの和装のコートを羽織り、白くてむくむくしたマフラーを首に巻いた少女の姿があった。
こっちを向いたつぶらな瞳が大きくなり、口から白い息を盛大に吐き出した。
僕は、自分でも情けないほどにしょぼくれた声で、「やあ」と話しかける。
「なによ、やあって。あけましておめでとう、でしょ。智之ちゃん」
行きましょう、と言って僕の手を握る綾乃の髪で、ピン止めの花の髪飾りが揺れた。
家から歩いて十分ほどのところには、小さな漁港を見下ろす丘があり、その頂には松林に埋もれるように、海上交通の守り神を祀った神社が建っている。
普段は子供たちの遊び場所に過ぎない地味な神社だが、三ヶ日ともなると、このあたりの住人の全員が初詣に来ているのではないかというほどの参詣者がある。
参道には、その参詣客を目当てにした露店も何軒か出ていて、たこ焼きや唐揚げの香ばしい匂いが参詣客の間にたゆたっていた。
人波に身を任せて、拝殿の前に出る。
賽銭を投げて、二礼して二拍手。僕の隣で、殊勝な横顔の綾乃が、手を合わせたままでぺこりとお辞儀をした。
「ねえ、智之ちゃん。なにをお願いしたの」
綾乃に言われて気がついたが、毎年のようにここに初詣に来ているのに、今まで神様を前にして願い事をしたことなんてなかった。
人生などという言葉を吐くには、まだいろいろなものが不足しているが、僕の人生はなんの起伏もないものだった。
地元の有名な計量機器メーカーに勤める父親に、市の職員である母親、平均以上の容姿と成績で少し気が強い二つ年下の妹との四人家族。生活に困るほどに貧しくなく、贅沢をさせてもらえるほどに裕福でもなく、家庭暴力などは対岸の火事で、すこし煩わしい程度に干渉される、ごくありふれた家庭環境。
幸福とも不幸とも感じたことのない毎日を送ってきた僕には、神様に願ってまで叶えてもらうようなことは思いつかなかった。
「べつに、なにも。いつものことだよ」
そうだったわね、と幼馴染の少女は口の端を上げた。
「私は、今年こそ智之ちゃんと同じクラスになれるようにって、お願いしたよ……」
高校に入学してからずっと同じクラスの隣の席という観月と違って、綾乃とは小学校入学から十一年間、一度も同じクラスになったことがなかった。
「いまさらって思うんだけど、今年が最後のチャンスだからね」
めずらしくしおらしいことを口にした綾乃に手を引かれて、境内を横切り、能舞台の横にある社務所でお御籤を引いた。
六角形の筒をかしゃかしゃと振ると、細い竹の棒が出てきて二十三という数字が見えた。
破魔矢やお守りや絵馬やらの奥に並んで座っている巫女の一人が、白くて華奢な手で小さな文字がびっしりと並んだ紙切れを差し出す。
手を伸ばした僕と目が合った白装束に緋袴の少女が、涼やかな切れ長の目を決まり悪そうに伏せた。
「観月?」
僕の隣で、吉と書かれた御籤を自慢げに受取った綾乃も、装いを変えた副部長の姿に、おおきな目をさらに大きくしている。
僕の言葉に顔を上げた観月は、恥らうような笑みをその顔に浮かべた。
「ちょっと、ね。アルバイトで」
「でも、禁止じゃ……」
「だから、内緒ね。はい、これ。それから、あけましておめでとう」
そう言って会釈をする観月の頬に、赤みがかった髪がさらりとかかる。
くちごもりながら新年の挨拶を返した僕のわき腹を、綾乃がつついた。
「もう、智之ちゃん。挨拶くらい、ちゃんとしなさいよ。あけましておめでとう、詩織ちゃん」
親しい相手には、名前にちゃんづけで呼びかける主義の綾乃は、副部長のファーストネームを口にした。
観月の名前に関する綾乃の誤解は、僕の予想どおり、すぐに解消した。
月食の観測会を終えたあとの、綾乃の歓迎会を兼ねたささやかなパーティの席でのことだ。
ポテトチップをコーラで胃袋に流し込んだ綾乃は、柔らかそうな頬を紅潮させた。
「校舎に泊まるとか、ほんとに楽しいよね、天文研究部の活動って。そりゃ、こんなことを二年も一緒にしていたら、仲良くなるよね。ファーストネーム呼び捨ては、あたしだけの特権だと思ってたけど、まあ、しかたないか」
観月は、はっ、と息を飲んだ。
そして、「ごめんなさい」と、すまなさそうに綾乃に頭を下げた。
「『みづき』は名前じゃなくて……あの……苗字の方なんです」
え、と固まる綾乃を横目に見ながら、僕はチョコレートをひとつつまんだ。
「私、名前は詩織っていいます」
綾乃は顔を真っ赤にして、僕を睨んだ。
けれど、そもそもは綾乃の早とちりだったのだから、それは完全な八つ当たりというものだった。
「はい。あけましておめでとう、春日さん」
観月は、綾乃にも軽い会釈を返す。
家族以外の人と外出する場合は制服着用、学校の許可のないアルバイトは禁止という校則違反の現行犯同士が、新年の挨拶を交わす。
僕は、そんな二人を遠くから見ているような気分になった。
クラスでの観月の印象は、万事控え目で地味な女生徒だった。
品行方正という言葉がぴったりに見える観月が、校則違反を犯して、携帯電話を学校に持ち込んでいたり、アルバイトをしたりしているのは意外だった。
けれど、御籤や縁起物を求める参詣客に、穏やかな笑顔で応じるその姿には、その衣装とあいまって、普段の地味な観月とは違う大人っぽい華やかさがあった。
僕は、見慣れているはずの観月に、なかば見とれていた。
そして、ふと思う。二年近くも傍にいながら、僕は彼女のなにを見ていたのだろうと。
観月から受取った御籤を見ると、「小吉」だった。
『仕事、努力すれば実りあり……恋愛、悩み迷うこと多し』
薄い紙片には、小さな明朝体の文字でそんなことが書かれていた。