α Aqr
青白い蛍光灯のフットライトに照らし出された観測ドームは、しんとした冷たい空気に満たされていた。
スリット開閉用のハンドルを回すと、すこし軋んだ音をあげながら、ドーム屋根の一部に隙間が出来て光が差し込んだ。
宙を舞っている埃が、きらきらと輝きを撒き散らす。
一ヶ月ぶりに開いた観測ドームのスリットから、冬の澄んだ光とともに、冷たい木枯らしも吹き込んできた。
「ううっ、寒い」
背後から、綾乃の声が聞こえた。
「へぇ、二本あるんだ。でも望遠鏡って、けっこう厳ついのね」
振り返ると、綾乃の隣には、この観測ドームの主が鎮座していた。
木製の床を貫通して、コンクリートの校舎に固定された高さ一メートルほどの金属製の円柱の上には、アルファベットのTの文字を斜めに寝かせたような金属製の赤道儀が据えつけられていて、Tの横棒の片方、斜め上に向いた方に白い二本の望遠鏡が取り付けられている。
一本は、先端から後端までほぼ同じ太さの円筒形をしている。
開口している先端付近には、黒い小さな円筒形の出っ張りがあって、その長さを調節するための小さな金属のつまみがついている。
円筒の底にある主鏡と呼ばれる凹面鏡で光を集めて、出っ張りの部分に取り付けた接眼レンズを通して観測する、ニュートン型反射望遠鏡というものだ。
口径とも言われる主鏡の直径が二百十ミリあり、このあたりの高校に設置されている望遠鏡の中では大型の部類に入る。
もう一本は、細い円筒の先端に一回り太い円筒が付いていて、後端部が細くなった形状をしている。
先端の太い部分にはめ込まれた口径八十ミリの二枚組アクロマート式対物レンズで集めた光を、後端に内蔵されたプリズムで直角に曲げたうえで、接眼レンズを通して観測する屈折型望遠鏡という形式のものだ。
いずれも相当の年数を経た望遠鏡だが、もともと堅牢な造りだったものを歴代の部員たちが大事に扱ってきたらしく、今でも現役の観測機器として稼動している。
とくに屈折望遠鏡の方は、朝陽北高校開設当時からの装備品で、天文研究部とともに学校の歴史を見守ってきたものだった。反射望遠鏡が設置されたときに廃棄される予定だったらしいが、当時の顧問の意見を要れて二本並べて設置されることになったという。
「春日さん、ちょっと離れて。バランスとるから」
観月に声をかけられた綾乃が、ドームの隅に退避すると、観月は馴れた手つきで、架台の二箇所を締め付けているクランプを緩めた。
T字の縦と横の軸がそれぞれに回転して、空を見上げていた望遠鏡が頭を下げると同時に、反対側のアームがバランスウエイトとともに持ち上がってくる。やがて、すべてが地面に対して水平になったところで、その動きが停止した。
ドームの隅で、綾乃がぱちぱちと拍手をする。
「すごい。こんなに精密なんだ」
「これくらい精密でないと、十分の一度の角度で方向を決められないし、これくらいしっかりしてないと、わずかな揺れでもこれで見るとすごいことになるから」
観月が白い息を吐きながら、綾乃に説明する。
「ふうん、カメラの望遠レンズと同じか……何ミリ?」
綾乃の問いは、主鏡や対物レンズの焦点距離のことだろう。反射望遠鏡が千二百六十ミリ、屈折望遠鏡は九百六十ミリあることを説明すると、綾乃の目が輝いた。
「ねえ、この望遠鏡って、何倍で見えるの?」
「望遠鏡の倍率は、対物レンズや主鏡の焦点距離を、この接眼レンズ――アイピースとも言うんだけど、その焦点距離で割り算すれば求められるんだ」
僕は、手元の黒い円筒形のアイピースの周囲に刻印された「Hi-Or 18mm」という鮮やかな白色の文字のうち、数字の部分を指差す。
「この数字が焦点距離で、こいつは十八ミリだから……」
観月が制服の前身ごろを返して、内ポケットから携帯電話を取り出す。電卓で計算をするつもりなのだろう。
身体のラインにフィットしたネイビーブレザーの下で、白いブラウスとレジメンタルタイを持ち上げている胸の膨らみが眩しくて、僕は思わず目を背ける。
その視線の先にいた綾乃が、やはり観月の胸元を見やりながら、一瞬だけ眉をひそめたあとで、得意げな表情を浮かべて口を開いた。
「七〇か。……意外と、小さいのね」
僕は、呆気にとられる。
――見ただけで分かるのか。けど、いきなりそれは失礼だろう。
観月が、目を丸くしてつぶやいた。
「合ってるわ」
意外な観月の反応に、僕は思わず「そうなの?」聞き返していた。
しかし、考えてみれば、男の僕がそんな会話に混じるのは、いくらなんでもデリカシーがないというものだ。
僕は、自分の顔が火照ってくるのを感じた。
「ええ、正解よ。……倍率」
観月が携帯電話の液晶画面を見つめながら、そう付け加えた。
褒められたと思ったのか、綾乃は自慢げに胸を張った。
そういえば綾乃は、昔からこの種の暗算が得意だった。算盤を習っていたからだと本人は言っているが、同じ算盤教室に通っていた僕には、なぜかそんな暗算能力は身に付かなかった。
「倍率自体は、アイピースを交換すれば、理屈の上ではいくらでも上げられるわ。でも、主鏡や対物レンズの口径が大きくないと、一定以上には細かく見えないし、像が暗くなって見づらくなるの」
呆然としたままの僕から説明を引き継いだ観月に、綾乃がさらりと答える。
「知ってるよ。分解能とF値でしょ」
写真館の娘で写真部にも所属しているだけあって、綾乃は光学系の話には理解が早いようだ。
「じゃあ、最後にファインダーと軸線の調整をしましょう」
観月はそう言いながら、北に向いていた望遠鏡をひっくり返すように地面と直角にぐるりと回転させて、南に向けた。
僕は照準用の十字スケールが入ったアイピースを、屈折望遠鏡の接眼部に差し込む。
覗き込んだ視界の中心、十字の交点の少し上から、見慣れた高圧鉄塔の先端が突き出すように見えていた。グレーの無骨な鉄塔は、まるで蜃気楼の向こうにあるようにゆらゆらと揺らめいていた。
手元のリモコンを操作して、十字の交点に鉄塔の先端を合わせる。
「これでいい。観月?」
「こっちも中心に捉えてるわ。オーケーよ」
反射望遠鏡の接眼部を覗いていた観月が、踏み台からトンと床に降りる。
バーバリーチェックのプリーツスカートがふわっと膨らみ、上履きのゴム底がきゅっと音を立てて床を踏んだ。
「じゃあ、春日さん。ちょっと覗いてみて」
観月に替わって踏み台に昇った綾乃が、大きな目を輝かせながら、望遠鏡の接眼部を覗き込む。
「なに、なんなの、これ……」
その口をついて発せられる戸惑いの声と、当然の疑問。
「上下左右が……倒立像だよね、これ。信じられない、こんなもの観ているなんて」
顔を上げた綾乃のつぶらな瞳が、観月と僕に向けて、もっと大きく見開かれた。
「驚いたでしょう。これは、とても大事なことだから、よく見て覚えておいてね。最初のうちは、わかっていることなの。でも……」
観月が、望遠鏡を操作しながら言った。
「見慣れてくると、それを忘れてしまうから」
昼間の風景だから、それが倒立していれば、はっきりそれとわかる。
けれど、夜に望遠鏡で観望するときは、それが逆さまに見えているのだと認識することはほとんどない。望遠鏡を通して見る世界は、狭い視野に対象物だけが見えているので、視界の回転が起きないのだ。
もっとも、天体に関して言えば、どちらが上でどちらが下と決まっているわけではないから、その像が正しくない姿だとも言い切れない。
じつは、眼球を通して網膜に映った映像は、そもそも倒立しているらしい。
けれど、自分の身体が正立していることを知っている脳が、その像を正立しているものだと認識しているのだという。
さらにややこしいことに、望遠鏡と眼球を通して網膜にできる像は正立像なのだ。ところが、倒立像を正立していると認識する脳にしてみれば、正立像は倒立して見えるということになってしまう。
観月と僕は、かわるがわる、そんなことを説明した。
うんうんとうなずきながら僕達の話を聴いていた綾乃が、ほうっと息を吐き出した。
「ふうん。基本は、カメラと同じなのね。人間は、アタマの中で余計な補正がかかっている、と。ねえ、それって、どっちが本当に正しい姿なのかな?」
僕には、その問に対する答えがなかった。
そして、答えられない自分を、ありのままに受け入れられるほど成熟もしていなかった。
「そんなの、決まってる。目に見えているものが、正しいんだよ」
僕がそう言い切ると、綾乃は小さくため息を落とし、観月はわずかに顔を曇らせた。




