α Sco
僕は、走った。
それでも詩織の家までの道のりは遠く、毎日歩きなれたはずの通学路が、こんなに長かったのかと感じた。
自宅の前を歩き過ぎ、市立西図書館の青いガラスに反射する西陽を見ながら、幹線道路沿いのファーストフード店の角を曲がる。
そうして詩織の家の前に立った僕を待っていたのは、どうしようもない現実だった。
そこには、車体に派手なマークが描かれた引越業者のトラックが停まっていて、揃いの制服を着た若い男たちがダンボール箱を積み込んでいた。
僕は、その光景を見て、詩織の手紙にあった「東京に引っ越す」という一文を思い出した。
よりによって、今日がその日だったのか。
ダンボール箱を積み終えた男たちは、荷台の扉を閉めると、さっさとトラックに乗り込んだ。
エンジンがかかり、褐色の排気ガスを残して、トラックは幹線道路を走り去っていった。
僕は、全身から血の気が引いて行くのを感じた。
もしかしたら、もう行ってしまったのかもしれない。
震える指で、インターホンのボタンを押す。屋内から、かすかにピンポンという音は聞こえたが、応える声はなかった。
すこし待ってから、もう一度ボタンを押したが、やはり応答はなかった。
――間に合わなかったのか……。
脱力感だけが残った。
背中には、秋の日差しが温かく照りつけていたが、吹きすぎる風は冷たかった。
けれど、その風が止んだ一瞬を待っていたかのように、遠慮がちな声がした。
「智之くん?」
振り向いた僕は、そこに立っていた人物に目を見張った。
長かった髪はショートボブにカットされ、赤味がかった癖のある毛先が首筋をなでている。
前髪の下で、大きく見開かれた琥珀色の瞳が、泉のように潤みさざめいていた。
彼女の白い頬は、以前にも増してほっそりとしたように見えた。
もともと落ち着いた雰囲気を持っていたが、一ヶ月半ほど会っていないだけで、ずいぶんと大人びた雰囲気を身にまとうようになっていた。
「詩織……」
僕と目があったとたんに、詩織は視線を逸らせて背中を向けた。
ピンクのカーディガンの下で、白いワンピースの裾がゆらりと揺れる。
逃げるように踵を返した彼女の背に向けて、僕は「待って」と声を上げた。
彼女の肩がびくりと震えて、その足が止まる。
僕は、自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を継いだ。
「大事な話があるんだ」
低い松の疎林の向こうに、瀬戸内海が茫洋とした広がりを見せていた。
秋空の青さを映した海面は、青く静かに凪いでいた。
児童公園の外れにある木製のベンチに腰を下ろして、僕と詩織は肩を寄せ合うように並んで海を見ていた。
詩織の家を後にしてから、僕たちは一言も話せずにいた。
それでも、触れ合った身体からは、たしかなぬくもりを感じていた。
僕は、それを失いたくないと思った。
でも、どうすればいいのか、見当もつかなかった。
聞かなければならないことも、たくさんあるはずだった。でも、それをどう受け止めたらいいのか、心の準備ができていなかった。
海を渡ってきた潮風が、松の枝を吹き抜ける。
さあっという音の中に、近くの海岸で遊ぶ子供の声が混じって聞こえた。
「あの」
「ねえ」
二人の声が重なって、張り詰めていた空気が和んだような気がした。
その偶然を、僕は意味があるもののように感じた。話を切り出すときだと思った。
「行っちゃうの、東京に」
「うん。……ごめんね」
僕は、ちいさく首を振って見せる。
「こっちこそ、遅くなってごめん。……なにがあったのか、教えてくれるかな」
詩織は、こくんと頷いて口を開いた。
一年生のころから、学校が休みの日には、朝陽駅の近くにあるデザインスタジオでアルバイトをしていたこと。携帯電話は、連絡用に貸与されていたものだったこと。学校には、いっさい許可をもらっていなかったこと。
そんなことを、ぽつりぽつりと詩織は話しはじめた。
そして、彼女の話は、事件が起きた夜のことに及んだ。
その日、いつもより仕事が遅くなった詩織は、デザインスタジオの所長に食事に誘われた。
大事な話があるからというのでついていったが、食事の途中からひどい眠気に襲われて、記憶がはっきりしなくなった。
気がついたときには、見たこともない派手な部屋のベッドに寝かされていて、誰かが激しく言い争っている声が聞こえた。
朦朧とした意識と、かすんだままの視界が捉えたのは、御堂と誰かがつかみ合って争う姿だった。
「私、喧嘩の相手は智之くんだと思ったの。私のこと、助けに来てくれたんだって。おかしいよね、そんなはずないのに。御堂くんに突き飛ばされて、その人が倒れたの。助けなきゃって思って、夢中で手許にあった物を掴んで、御堂くんに殴りかかったわ。正気に戻ってみたら、頭から血を流した御堂くんが足元に倒れていて……」
ホテルの従業員から通報を受けた警察官がやってきたのは、その直後だった。
御堂の怪我はたいしたことはなく、警察の事情聴取に対して、はきはきと受け答えをしたらしい。
街角で男に抱きかかえられている詩織を見かけた御堂は、見つからないようにその後をつけた。そして、ホテルの従業員のふりをして客室のドアを開けさせ、部屋に侵入したのだという。
御堂の目的が詩織だったことは、間違いないだろう。怪我をさせられたにもかかわらず被害届を出さなかったのは、そのことに対するうしろめたさがあったからに違いない。
けれど、それがかえって、詩織の立場を悪くしたのだ。
「私のこと、学校でいろいろと噂になってたんでしょう」
「うん。ずいぶん酷いことを言ってた人が、いたみたいだよ。でも、そんなの、ただの噂だから」
ちいさく頷いた詩織の顔に、すこし歪んだ笑みが浮かぶ。
けれどそれが、誰に向けられた、どういう種類の笑顔なのか、僕にはわからなかった。
「信じてもらえなくてもしかたないけど、ほんとうに誰とも、何もなかったの。でも警察の人たちも先生たちも、私の言うことなんて、まともに聞いてくれなかった。男女関係にだらしのない子だと、最初から決め付けていたわ。今まで何人と関係を持ったのかとか、お金は貰っていたのかとか、そんなことばかり聞かれて。私は、もう何も言えなくなってしまったの。自分のことを、周りの人にきちんと伝えてこなかったんだから、それもしかたないと思ったわ。でも、他の人たちはどうでもいいけど、智之くんと綾乃さんにだけは、私のこと信じて欲しかった……」
そこで一度言葉を切った詩織は、首を横に振った。
「ううん、きっと信じてくれると思ったわ。でもね、もし信じてもらえなかったら、私にはもう何もなくなってしまう。それが怖くて、どうしていいのか、わからなかったの」
その言葉を最後に、詩織は口を噤んだ。
黒松の枝を吹き渡る風の音だけが、さらさらと微かな調べを奏でていた。
沈黙の中で僕は、『真実など人の数だけある』という小田先生の言葉を思い出していた。
たしかにそうだと思った。
それは理解した上で、それでもなお僕は、詩織の真実を僕の真実にしようと決めた。
「僕は、詩織を信じるよ」
僕を見つめる詩織に応えるために、僕は笑顔を作った。
けれど、たぶんそれは、とてもぎこちない表情だっただろうと思う。
そのときの僕の決心など、詩織の抱えていた痛みの前では、どうしようもなく脆弱なものにすぎなかったのだから。
それでも詩織は、まっすぐな微笑を返してくれた。
その目からは涙の雫がこぼれ落ち、けれどその口は、『ありがとう』と動いた。
こみ上げてくる熱いものを抑えて、僕はゆっくりとベンチを立った。
そして、詩織に手を差し出す。
「行こう。詩織に見てほしいものがあるんだ」
涙を拭った詩織の手が、僕の手に触れる。
僕は、その小さな掌を包み込むようにして、手を繋いだ。
柔らかなぬくもりとともに、握り返してくれた詩織の手を引いて、僕は歩き出した。




