γ Lib
ライブラ(天秤座)
黄道十二宮では、六番目に当たる天秤宮である。
星座は、乙女座と蠍座にはさまれた逆「く」の字型で、正義と天文の女神アストライアーが持つ、正義を計る天秤に見立てられている。かつての秋分点が、この星座にあったことでも知られている。いちばん目立つ星は、「北の爪」を意味する『ズベン・エス・カマリ』。
占星術においては、九月二三日から十月二三日生まれの人が天秤座になり、その性格は「社交」だとされている。
*
蒼穹という形容が相応しいほどの秋晴れの土曜日、二日間にわたる陽北祭が開幕した。
手作りの大きなパーティ会場のように飾り立てられた学校は、他校の生徒や近隣の住民たちで賑わっていた。
模擬店で焼くクレープの甘い匂いと、体育館のステージから聞こえる派手な音楽と、人々の笑いさざめき。そんなものが入り混じって、朝陽北高校全体がお祭りという熱病に浮かされたように見えた。
クラスの展示の係りになっていなかった僕は、ひとりで時間を持て余していた。
そんな僕に声をかけてくれたのは、やはり綾乃だった。
僕たちは、中庭の噴水池のベンチで、久しぶりに一緒に昼食をとった。
公私ともに多忙なはずの綾乃だったが、「お弁当のおかずを作りすぎちゃって」という理由で、僕の分の弁当も用意してくれていた。
見上げると、北校舎の上には、主をなくした銀色の観測ドームが陽光を反射して鈍く輝いていた。
僕の隣で、同じように観測ドームを見上げていた綾乃が、ぽつりとこぼした。
「陽北祭、始まっちゃったね」
綾乃は、トートバッグから一冊のアルバムを取り出して、そのページを開いて見せた。そこには、色鮮やかな天体写真がいくつも並んでいた。
「これは?」
「プラネタリウムの補助投影用のスライドだよ。作っておいたんだけど……。終わっちゃうのかな、このまま」
そんな綾乃の感慨を耳にしても、僕の気持ちはほとんど揺れなかった。
昨日を境に、僕の心は麻痺したまま、なにも感じなくなってしまったようだった。
ただ、居心地の悪さだけがあった。何が足りないのか、わかりすぎるほどにわかっていた。
そして、それを取り戻すことができない悔しさを、僕はかみしめていた。
沈黙の時間を、綾乃の深いため息と呟きが破った。
「……嫌だよ、こんなの」
僕は、どうしようもないと思いながらも、なぜかそれを口にすることはできなかった。僕がそれを言ってしまったら、ほんとうにすべてが終わってしまうような気がした。
陽北祭の初日が終わって、空しさだけを抱えて帰宅した僕を、大きな郵便物が待っていた。
白い厚紙のレターパックには、たくさんの書類が詰め込まれているようで、ごわごわとした膨らみとともに、ずしりとした重みがあった。
差出人の名前を見た僕は、思わずあっと声を上げそうになった。
そこには、見慣れた几帳面な文字で、観月詩織と署名されていた。
大急ぎで封を切ると、数十枚のルーズリーフとともに、手書きのイラストを添えたメッセージカードが滑り出てきた。
『智之くん。突然ですが、今の父の仕事の関係で東京に引っ越すことになりました。智之くんや綾乃さんに会う勇気がないので、このまま発ちます。プラネタリウム、途中で投げ出してしまって、ほんとうにごめんなさい。私にできることは、これくらいです。今まで、いろいろありがとう。私のことは、忘れてください。詩織』
ルーズリーフには、天文研究部の活動報告の書き方から、観測方法の詳細、機材の取扱い方、部費の管理方法まで、詩織の手書きの文字で、こと細かに記されていた。
書類と一緒に、厚紙に挟まれた画用紙が何枚か入っていた。
そっと開いてみると、色鉛筆で仕上げた柔らかなタッチのイラストだった。それは、星座にまつわる物語を紙芝居のようにまとめたものだった。
それを読んだ瞬間、僕のなかで忘れかけていた胸の高まりがよみがえった。
赤味のかかった髪、琥珀色に潤んだ瞳、恥ずかしそうな微笑。彼女の左手が描き出す、彩りに満ちた世界。
僕たちにとって、天文研究部はたんなるクラブ活動などではなく、僕が僕らしく、詩織が詩織らしくいられる、大切な居場所だった。
そして、プラネタリウムは、ただの工作などではなく、僕たちの絆だったのだ。
胸と目頭が熱くなり、僕はほんとうに久しぶりに、涙を流した。
ハンダの溶ける匂いが鼻をついて、僕の手許でリード線が基盤に接着された。
これで、配線は終わりのはずだ。
ありすが書いた図面を見ながら、目の前の工作物をチェックしてみる。
直流モーターを組み込んだ駆動系は、図面どおりに出来上がっていた。あとは、恒星球の光源である白色LEDへの配線を済ませれば、プラネタリウムは完成する。
僕は、小さく背伸びをした。
標本棚に囲まれた作業机には、白磁のティーカップがあって、褐色の液体が半分ほど残っている。
カップを手にして口をつける。富士先生が淹れてくれたアールグレイの紅茶は、すっかり冷めていた。
地学準備室の窓から差し込む午後の日差しが、窓辺を漂う埃をきらきらと輝かせている。
昨夜は、解説用のシナリオを仕上げるのに徹夜したが、不思議と眠気は感じなかった。陽北祭が終わるまで、あと四時間ほどだが、このペースならじゅうぶんに間に合う。
光源への配線に手をつけたところで、がらっという音がして、地学準備室の扉が開いた。
富士先生が来たのかと思って視線を投げると、扉の影から綾乃が顔を出した。
僕と目があった綾乃は、白い小さな紙箱を僕に見せて、つぶらな瞳を細めて笑った。
綾乃が持ってきてくれたスフレ・フロマージュを口に運ぶ。
かすかにオレンジピールの香りがしたあとに、甘酸っぱいクリームチーズの味が口に広がった。
朝から根をつめて作業をしていて、お昼ご飯も食べていなかったから、この差し入れは嬉しかった。
「ねえ、智之ちゃん、それどうするつもり?」
「わからない。でもこれは、僕たち三人の絆だから、せめて完成だけはさせたいんだ」
「完成させるだけ、なの?」
綾乃がなにを言いたいのか、わかっていた。
けれど、これ以上を望むのは無理なことだった。自分にできることは、すべてやったつもりだった。
あとはもう、どうしても手の届かないことだと思った。
「うん。それでもいいのかなって、思ってる」
それまでにこやかだった綾乃の表情が、その言葉で変わった。
大きな瞳をさらに見開いて、思い切り睨みつけられた。
「それでいいわけ、ないじゃない。そんなのじゃ、今までの智之ちゃんと、なにも変わってないよ。ここまでやったのなら、投影しないとだめだよ」
それは、有無を言わせないほど、強い口調だった。
不意に、僕の脳裏に、真冬の月食の夜が鮮やかによみがえった。
『いつもそうやって眺めているのね』
スケッチブックに色鉛筆を走らせながら観月が告げ、カメラのシャッターを切りながら綾乃が応じた。
『こいつは、昔からこうなのよ』
そうだ、あのとき。
僕は、心に決めたのではなかったのか。
諦めるのではなく、やってみようと。
僕は、綾乃の言葉で目が覚めた。
誰に見てもらえなくてもいい、僕たち三人だけのために、プラネタリウムを投影しよう。
けれど、現実には、まだ解決できない問題もあった。
「でも、投影ドームと遮光カーテンがある部室には入れないし、暗くなる前に陽北祭は終わるんだ。いったい、どこで……」
そう言いかけた僕は、綾乃が視線を投げた先を見て、はっとした。
そうか、あそこなら……。
「準備は、あたしが進めておくから、詩織ちゃんを連れてきて。陽北祭が終わっちゃったら、もうチャンスはないよ。これは、智之ちゃんにしかできないことだよ」
綾乃の笑顔が、これほど頼もしく、けれど切なそうに見えたのは、初めてだった。
僕は、制服のブレザーを掴むと、地学準備室を後にした。
ステージで軽音楽部が歌う『ガーネット』の歌詞に背中を押されながら、僕は校門を飛び出す。
行くべき先も、やるべきことも、決まっていた。




