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あの日、星空の下で -Star Observation Society-  作者: TOM-F
Sign01 カプリコン・ルナエクリプス
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γ Cap


ルナエクリプス(月食)


 太陽の光を反射して明るく光っている月面が、地球の影に入ることで暗くなる天文現象で、一部分だけが影に入るものを部分月食、全部が影に入るものを皆既月食という。


 地球の影に入っても、大気圏で屈折したり散乱したりした太陽の光は月面を照らし続けるので、月面が濃い赤色に染まって見えることが多い。


 月の全体が地球の影に入る皆既月食のときには、月明かりで見えていなかった星が姿を現して、月と星々たちの競演を見ることもできる。皆既月食は、あらゆる天文現象の中で、いちばん芸術的だ。


 *


「二三時五分、皆既食の始まり」


 腕時計を確認しながら、僕はそう告げた。

 吐き出した息が、白い水蒸気になって空へ昇っていった。


 その先を目で追うと、中天に茜色に染まった月が浮かび、冬の天の川が薄くて白いベールのように空を横切っているのが見えた。


「なによ、これ。レンズが曇っちゃってるじゃない」


 グラウンドの朝礼台を占領した綾乃が、頭上からむくれた声を降らせた。

 制服の上にモコモコのダウンジャケットを着た綾乃の前には、無骨な三脚が据えられていて、彼女の愛機であるオリンパス『OM-1』に装着された白い大砲のような望遠レンズが、その照準を月に合わせていた。


「これをレンズのまわりに巻きつけておけば、そのうち曇りはとれるよ」


 僕は、ポケットに入れておいた使い捨てカイロを二つ、綾乃に向かって放り投げる。

 ちょっと、と口走りながら、綾乃はそれを両手でひとつずつ、器用に受け止めた。そして、サンキュと言いながらウインクをして、ハンカチでカイロをレンズにくくりつける。


「悪いな、綾乃。部の望遠鏡が使えなくて」


 北校舎六階の観測ドームには、口径二十一センチの反射式望遠鏡が据えつけられていて、本来なら部活に使えるのだが、どうしたことかドームの開閉装置が故障して使用禁止になっていた。


「いいよ。あたし、まだ望遠鏡とか使えないし。それに、使い慣れてる機材の方が安心だから」


 そう言いながら、綾乃はカメラから伸びたケーブルの先にあるゴム球をそっと握る。一瞬遅れて、カメラからパシャという音がして、シャッターが切れたことを告げた。

 手で直接レリーズを操作すると、カメラが揺れて画像が乱れる。綾乃が使っているのは、それを防止するための道具で、エアリモートレリーズという。

 初めての天体撮影なのに、そんなものを用意してくるあたりは、さすがに写真館の娘だなと思う。


 観月は、自動追尾装置の付いた赤道儀(せきどうぎ)に据えつけた大型双眼鏡を覗いていた。

 この架台は、手許のリモコンを操作するだけで、内蔵のモーターがギアを介して望遠鏡や双眼鏡の向きを少しずつ変えながら、常に目標の星を視野の中心に捉え続けてくれる機能を持っている。もともとは、望遠鏡で星を観望したり天体写真を撮影したりするための道具なのだが、今は観月のスケッチ専用の観望機材になっていた。


 右手でリモコンを操作しながら、観月は膝の上に広げたスケッチブックに、左手で持ったファーバーカステルの色鉛筆を走らせていた。

 月食の始まりから二時間半の間に、彼女は、そうやって十枚近いイラストを仕上げていた。それは、まさに鉛筆を走らせるという表現がぴったりの速度であって、彼女の特技がその量産態勢を支えているのは明白だった。


 監督の富士先生はといえば、寒いのは苦手だからと言って、宿直室に閉じこもったままだった。こちらに顔を出すつもりはないだろう。


 僕は寝袋に潜り込んで、レジャーシートの上に寝転がり、手持ちの双眼鏡を通して、月食の進行を眺めていた。

 はじめは白銀に輝いていた満月が、徐々にオレンジ色に、そして茜色に染まっていく様は、ほんとうに綺麗で感動的だった。


 やがて。

 冬の夜の静寂を破って、観月のささやき声がした。


「星河くんは……」


 月の光が奏でる音楽のような観月の声が、僕の耳をくすぐる。スケッチブックに色鉛筆を走らせながら、彼女は言葉を続けた。


「いつもそうやって、眺めているだけなのね」


 観月がそんなことを言ったのは、初めてだった。

 それは文字通りの意味ではないだろう。

 先日の職員室での出来事が、僕の脳裏をよぎる。

 自分勝手な思い込みかもしれないが、もしかしたら観月は、あのとき僕になにかを求めていたのかもしれない。だとしたらきっと、僕はそれに応えることができなかったのだ。

 真冬の夜風が、頬に冷たかった。


「こいつは、昔からこうなのよ」


 カメラのシャッターを切りながら、綾乃が応じた。

 見透かすような幼馴染の言葉に、心の奥底が、ちくりと痛んだ。けれど、僕はその痛みに知らん顔をしながら、自分に言い訳をした。


 ――僕はそういう人間なんだから、しかたがないじゃないか。


 そして、夜空に瞬きはじめた星たちに双眼鏡を向けながら、僕は遠い昔に思いを馳せていた。

 僕が、天体観測を始めたころのことに。




 あれは、たぶん、小学校の低学年のころだ。

 ずいぶん暗い場所だったから、きっとどこかのキャンプ場だったのだろう。


 夜空を見上げる僕の目に映る、漆黒の空を埋め尽くす銀の砂のような、星、星、星。

 そして、天空を横切ってくねくねと流れる、白い川。


 それが、小さな星の集まりだということを知ったのは、ずっとあとのことだ。

 都会育ちの僕は、夜の空にそんなものがあったことを知って、胸が熱くなるような気持ちがした。


 それからというもの、家にあった百科事典の天体に関するページを読みふけるようになった。それに飽きると、両親に頼んで、天体に関する本を何冊も買ってもらった。

 天文学者になろうとか、そんなことを考えたわけではない。綺麗な星の写真を眺めて時を過ごすのが、とても心地よかったのだ。

 そうしていれば、嫌な思いをしなくてよかったから……。


 身体を動かす遊びやスポーツが苦手だった僕は、友だちからいつもばかにされていた。僕にとって友だちというのは、僕を見下し虐げる者のことだった。

 それでも孤立したくなかった僕は、我慢して付き合っていた。

 そうするしかないと思っていた。けれど。


 夜空に輝く星々の秘密を知れば知るほど、僕は友だちづきあいなんて、どうでもいいと思うようになった。

 そうやって僕は、積極的に他人と関わることが苦手になっていった。

 表面的には誰とでも仲良くできたが、綾乃を別にすれば友だちと呼べる相手はいなかった。




 それは、僕自身が望んだ結果だった。

 しかし、いつのころからか、そう振舞えば振舞うほど、なぜか心の片隅にちくりとした痛みを覚えるようになった。

 僕はその痛みの正体について、今日までまともに考えたことはなかった。いや、目を背けて考えないようにしていた。

 今更、そんなことを考えたところで、どうなるものでもないからだ。


 こんな僕が積極的に他人と関わったとして、その先にはどんな未来があるというのだろう。

 いつの日にか、こうして夜空を見上げるとき、僕の隣にだれかがいるとでも言うのだろうか。

 そんな未来を、僕はいままで想像したこともなかった。

 どういう過程をたどったら、そんな結果がもたらされるのか、それは解が存在するかどうかわからない方程式のようなものだ。


 だから、どうなるものでもない……はずだった。

 なのに……。


『いつもそうやって、眺めているだけなのね』

『こいつは、昔からこうなのよ』


 その夜は、いつもと違っていた。


 赤い月が、僕に魔法をかけたのかもしれない。

 たぶんそれは、人生に一度あるかないかの、特別な夜だったのだろう。


 そのとき、僕は、ふと思ったのだ。

 たとえ解が存在しないかもしれない方程式であったとしても、それを解くことに取り組んでみるのも悪くないんじゃないか、と。

 ならば、まずここから始めてみよう。


 僕は、双眼鏡を覗くクラスメイトの横顔に向かって、呼びかけた。


「なあ、観月……」

「なに?」


 双眼鏡から僕に向けられた観月のまっすぐな眼差しに、こんどは応えたいと思いながら、僕はその言葉を口にした。


「副部長、頼めるかな?」


 観月はこくんと頷き、「いいわ」と告げた。

 綾乃がカメラのシャッターを切る。


「ふうん。じゃあ智之ちゃんが、部長やるの?」

「うん……やってみるよ」


 見上げた空には、茜色の月が、やけに大きく見えた。

 その外縁の一点が、きらりと白い光を放つ。

 地球の影をいち早く抜けた月面のクレーターの先端が、太陽の光を反射したのだろう。


 月食は、まだ半分が過ぎたところだ。

 これから先は、まだまだ長い。


 僕は、腕時計を確認してから、宣言した。


「二三時五八分、皆既食の終わり」

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