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スターグローブ(天球儀)
星空を球に見立て、恒星や星座の位置を球の表面に描き、それらの位置とその動きを再現することを目的とした模型のこと。恒星だけでなく、星座を表す画像や、天の赤道、天の黄道なども描かれていることが多い。
紀元前四世紀にはすでに作られていたと言われているが、現存する最古のものは紀元前二百年ごろに作られたもので、巨人アトラスが天球をかついだ様子を象った大理石のものである。
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「もう一度、詩織から事情を聞いてもらえませんか。彼女は、子供のころからの辛い経験で、他者から理解されないことや、他者から拒絶されることを極端におそれていました。許可をもらえるなら、僕が詩織から話を聞いてきます。そして、先生たちの前で、それを話すように説得します」
作業を確認するために部室に来た小田先生を前にして、僕は、床が目の前に見えるほど頭を下げた。
他者に向かって、こんなに必死に何かを頼んだことなど、生まれて初めてだった。
そして、そんなことができた自分に、僕は自分で驚いた。
「顔を上げなさい。おまえが、頭を下げる事柄ではない」
小田先生の声が、頭上から降ってきた。その穏やかな口調が意外で、僕は顔を上げた。
富士先生が驚いたように僕を見ていた。そして、大きく頷くと、小田先生に向き直って口を開いた。
「私からも、あらためてお願いします。事実はどうあれ、真実は観月さんにしかわからないことです。彼女がなにも言わないことを、否定的にばかり解釈するのは一方的すぎます。私は、私の生徒を信じています」
富士先生の言葉に、僕の胸が熱くなった。やはり、この先生のいるクラブに入ってよかったと思った。
けれど、小田先生は眉間に皺を寄せたままで、ゆっくりと首を横に振った。
「富士先生、あなたは今、真実は観月自身にしかわからない、と仰いましたね。私も、その点は同じ意見だ。だが、だからこそ、私は彼女への処分を変えることはできない。真実など、人の数だけ存在する曖昧なものだが、事実は、たったひとつで明確だ。観月は、いかがわしい場所に立ち入り、そこで暴行を働いた。この事実を正当化できるほどの客観性を持った真実など、存在しえない。それでも観月を許すということが、学校はもちろん、観月自身のためになるとも思えない。そもそも、そのような風紀の乱れの温床となりうる夜間のクラブ活動自体が、あってはならなかったのだ」
小田先生の言葉は、圧倒的な正当性で僕を打ちのめした。
けれど、ここで引くわけにはいかなかった。それはつまり、詩織がここに戻ってくる可能性を失うということだからだ。
僕は、ダンボール箱から、天球儀を取り出した。そして、小田先生の目の前にそれを差し出した。
「これを、憶えていますか」
僕から天球儀を受取った小田先生は、一瞬だけ遠くに視線をさ迷わせたようだった。
「こんなものが、まだ残っていたのか」
「小田先生は、僕たちの先輩だったんですよね。なのに、詩織のことだけじゃなく僕たちのクラブ活動にまで、そんなに否定的なのはなぜなんですか」
「何度も言っているだろう。夜間の活動を前提にしたクラブがあることが、そもそもの間違いなのだ。だから、こんな過ちが繰り返される」
小田先生は、そこで言葉を切ると、顔をしかめた。その様子はあまりに不自然で、僕は疑問を抱く。
「いったい、なにがあったんですか。かつて、この天文研究部で」
僕が問いかけると、小田先生は、窓の外に広がる秋枯れの田園に、焦点の定まらない視線を投げた。
「いいだろう。下手に調べて誤解をされるより、私の口から話しておいた方がいいからな。……朝陽北高校天文研究部には、拭い去ることができない汚点があるのだ。もう二十年以上前になるが、そのときの天文研究部も、部員が三人だけの小さなクラブだった。二人の男子部員と一人の女子部員は、仲の良い三人組だった。そのうち、片方の男子が女子に恋愛感情を抱きはじめた。だが、女子には交際相手がいたから、その男子は自分の気持ちを押し殺していたようだ。そして、美しい夏の星空が広がっていたその夜に、あの忌まわしい事件が起きた。夜間のクラブ活動中に、思い余った男子が、女子と無理やり身体の関係を持ってしまったのだ。さらに悪いことに、女子はそれで妊娠してしまった。傷つき絶望した彼女は、薬を大量に飲んで自殺を図った。幸い未遂に終わったが、病院から通報を受けた警察が介入する事態になっては、学校もPTAも教育委員会も黙っていることはできなかったのだろう。クラブは無期限の活動禁止になり、不祥事を起こした男子は退学させられ、被害者の女子は学校を去ったあと、マンションの自宅から転落して亡くなった」
眉間の皺が深くなって、小田先生は目を伏せた。
「あのときのことを思い出すと、今でも悔しくてならない。私たちが天文研究部の部員などでなかったら、精神的にも肉体的にも難しい年ごろの男女が、夜間にクラブ活動などをしていなかったら。私は、恋人と親友を、同時に失うことなどなかっただろうに」
苦渋に満ちた表情で語っていた小田先生の言葉は、消え入るようにそこで終わった。そして目を開けた小田先生は、無言で天球儀を富士先生に差し出した。
富士先生の手の中で、天球儀が鈍い光沢を放つ。
その内側に封じ込められた時間と想いが、星座を描いたピンホールを通してにじみ出しているように見えた。
「それは、処分しておいてください」
小田先生の暗くて深い声が、そう宣告した。




