γ Vir
アストロノミー(天文学)
地球外で発生する自然現象を観測することで、その法則などを研究する自然科学の一分野。
自然科学としては最古の学問でもあり、先史時代からなんらかの研究が行われていた痕跡が世界のあちらこちらに残されている。ただし、その内容が飛躍的な発達を見せるのは、光学望遠鏡や電波望遠鏡が開発されてからのことである。
天文学の最大の特徴は、対象に直接触れることができない点と、過去に起きた事象しか観測することができない点にある。
*
定着液の入ったプラスチックのバットから、トングを使って写真をつまみ上げる。
天の川と夏の大三角を横切るような流星が写し取られたその一枚は、夏の合宿で綾乃が撮ったものだった。
写真に写った星たちを、僕は指でなぞる。
デネブ、アルタイル、そして、ベガ……。
「……このように、平面上では近くに見える星と星の間は、三次元的に見れば、とても遠く離れています。たとえば、織姫ベガと彦星アルタイルの間には、光の速度で約九年もかかる距離があります。一年に一度だけ会えると言われているけれど、ほんとうならメールを送っても返信が来るまでに十八年もかかっちゃいます。星の世界では、遠距離恋愛もずいぶんとスケールが大きいわね」
今日の地学の授業で、富士先生が話したことをふと思い出す。
生徒たちが笑いさざめく教室が、僕には、望遠鏡越しに見る世界のように思えた。
出来上がった写真を持って、暗室を出ようとしたとき、がらがらと扉の開く音がして、すこしくぐもった話し声が聞こえてきた。
「性急ではありませんか」
富士先生の声だった。
「チャンスは、与えたつもりですよ」
答えたのは、小田先生の声だった。
同時に、扉が閉まる音が聞こえてきた。
まずいかな、と思いながらも、僕はその場で足を止めた。
「観月本人と保護者、それに校長と教頭、そして富士先生にも同席してもらって、事情を尋ねたではないですか。だが、観月はなにも話さない。あんなに頑なな子だとは思わなかった。これでは、助け舟の出しようがない。校長と教頭は、話さないのではなく、話せないのだろう、と考えている。つまり、あの子には、私たちに明かせないようないかがわしい事情があるのだと」
出て行くタイミングを完全に逸した僕は、結果として、二人の会話を立ち聞きすることになった。
けれど、その内容が詩織の事件に関することだとわかり、僕の中にあったわずかな罪悪感は消し飛んだ。
ドアの向こうでは、小田先生と冨士先生のやりとりが熱を帯びているようだった。
「そんなふうに決め付けては、観月さんがかわいそうです」
「私が言っているのではありません。教職員の間に広がっている、一般論です」
小田先生の切り捨てるような言葉に、噛み付くような富士先生の声がかぶさる。
「小田先生もご存知でしょう、観月さんのご両親はほんとうの親ではありません。それでなくても彼女は、難しい年ごろなんです。もっと時間をあげるべきです」
「いつまで待つというのですか。あの子たちはもう三年生だ。受験生にとって、今がどれほど大事な時期か、わかっているでしょう。生徒たちの動揺を抑えるためには、早期に結論を出すことも必要だと思いますがね」
小田先生と富士先生のやりとりが、違う世界の出来事のように聞こえた。
心の中心にあるなにかが麻痺しているのか、僕にはこれが現実だとは思えなかった。
「結論とは、まさか?」
「そうです。退学も、ありえる」
小田先生の一言が、そんな僕の耳に突き刺さり、現実に引き戻した。
血の気が引くというのだろうか、自分の身体からぬくもりが失われて、手足の指先がちいさく震えた。
暗室の暗がりが平衡感覚を失わせていたこともあって、すこしよろめいた僕は、身体を支えるために足を一歩踏み出した。その足が、なにか硬い物にぶつかった。
がたんという派手な音が響いて、富士先生と小田先生の会話が途切れる。
「誰だ、そこにいるのは。出てきなさい」
小田先生の言葉に、僕の心臓がどくんと跳ねる。
僕は、覚悟を決めて暗室から地学準備室に出た。
窓から差し込む夕方の日差しは柔らかだったが、暗室に慣れた僕の目には、じゅうぶんに眩しかった。
思わず細めた僕の目が、作業机で向かい合って座る小田先生と冨士先生の姿をかろうじて捉えた。
「星河か」
小田先生の問いに、富士先生のため息が交じる。
「呆れたわね、隠れて聞いていたの?」
僕は、二人の問いかけに、「はい」と短く答えた。
ため息をついた富士先生の表情が、ふっと緩んだように見えた。
「小田先生、星河君に暗室での作業を頼んでいたことを、うっかり忘れていました。申し訳ありません」
富士先生は、なにか言いたげだった小田先生の機先を制した。
まあいい、とつぶやいて小田先生は口を噤んだ。
ここは、謝ったうえで退散すべきなのだろうが、さきほどの会話は聞き捨てならなかった。
「小田先生。詩織が退学って、どういうことでしょうか」
僕の言葉に、富士先生は感心したようにちいさくうなずいたが、小田先生は表情を崩すこともなく答を返してきた。
「常態化した校則違反のうえに、看過しがたい風紀違反。他の生徒への影響を考えれば、それも仕方あるまい」
やはり、冷たく突き放すような言葉だった。
富士先生は、落ち着いた口調で言い返した。
「ですから、それは担任の私が指導して改めさせます。あの子は模範的な生徒ではないかもしれませんが、学校を去らなければならないほど悪い子ではありません」
「富士先生、事件はすでに起きてしまっているんですよ。警察沙汰にまでなっているのに、今更どうにもならない。過去をなかったことにはできないし、変えることもできないのです」
小田先生の言い分は、隙のない正論だと思った。
けれど、どうしてそこまで過去のことにこだわるのか、僕にはわからなかった。
だから、思わず僕は口を開いた。
「僕たちはもう、三年生の二学期なんですよ。こんな時期に退学なんて、いくらなんでもひどすぎます。小田先生は、詩織の過去にばかり目を向けていますけど、彼女の未来はどうなるんですか」
小田先生は、僕の顔を見たままで話を聞いていた。
僕の言葉が終わると、その眉間の皺が深くなり、口からは静かで重い声がした。
「この事件に、おまえは口を挟む立場ではない。だが、その様子では納得すまいな。……星河、授業で教えた、因果律を覚えているか。現在も未来も、すべからく事象は過去のあり方によって決定されるのだ。微視的な不確定性はあっても、そんなものは大勢に影響はない。過去を軽んじるものは、未来に対しても同じだと、私は思っている」
この先生は、人生に物理法則を当てはめるつもりなのか、と僕は思った。
あまりにも冷徹なその態度に、僕は反射的に言い返していた。
「生徒の人生と、物理学は違います。詩織にはきっと、事情があるんです」
取り澄ましていた小田先生の顔に、そのとき初めて、怒りの表情が浮かんだ。
「ならば聞くが、その事情とはなんだ。校則を破り続けた挙句に、いかがわしい場所で傷害事件を起こして警察に連行され、それでもなにも釈明ができないほどの事情だぞ。おまえは、それを知っているのか。全校生徒を納得させ、観月を誹謗や中傷から守ることができる説明が、おまえにはできるというのか」
小田先生の剣幕は激しかったが、その口調よりも、その言葉が僕の心を突き刺した。
ファーバーカステルの色鉛筆を左手に握って、一心にスケッチをする少女の姿が目に浮かぶ。そして、僕を真っ直ぐに見つめる、潤んだ琥珀色の瞳も。
ずっと、隣にいた。
いつも、一緒にいた。
『ごめん、詩織』
『ありがとう、智之くん』
あのとき、彼女を近くに感じることができた。なにかが、始まる予感があった。なのに……。
僕の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
僕は、結局、詩織のことをなにもわかっていなかった。そんな僕と小田先生とに、どれほどの違いがあるというのだろう。
水を打ったような静寂を、小田先生の静かな言葉が破った。
「おまえたちがいつも観測している、星と星の間にあるものが、なんだかわかるか。いいか、星河。天文学というのは、彼我の間にある、どうしようもない時間と空間の隔たりを知るための学問だ。私たちは、例外なく過去を観測する者であり、距離を記録する者であることを免れないのだ」
小田先生は、それきり口を閉ざした。
かちかちと時を刻む秒針の音が、やけに大きく聞こえていた。
週が明けた月曜日のホームルームで、観月詩織が無期限の停学処分になったことが発表された。
全校生徒には、風紀を正しくするよう注意が出され、僕には、天文研究部の活動自粛の通達があった。
その日の放課後、僕は部室で簡単な片づけをすませた。
あの日以来、綾乃も教室や部室に来なくなった。
僕の目が、ふと、机の上に置かれた恒星球にいく。
最初は透明なアクリルの半球でしかなかったものが、今は内側を黒く塗装され、表面には星座を象った一千個近い穴が穿たれている。
綾乃と詩織と僕と、三人で一緒に作り上げた恒星球は、僕たちのプラネタリウムの象徴だ。
あとは、ありすが設計しなおしてくれた架台に載せれば完成というところまできている。技術的な問題は、もうなにも残っていない。製作を続けていれば、陽北祭に間に合ったことだろう。
なのに、僕にはもうこのプラネタリウムを完成させることなど、永久にできないように思えた。
詩織も綾乃も来ない部室にずっと放置されたアクリル球には、うっすらと埃が積もっていた。
活動報告をたたみ、僕は席を立った。部室のドアを押して、階段の踊り場に出る。
中庭と南校舎を見下ろすアルミサッシのガラス窓から、秋の透き通った西陽が階段室に差し込んでいた。
一斉下校を知らせる放送の声が、遠くに聞こえている。
まるで、世界から置き去りにされたような、静かで冷たくて空っぽな時間と空間がそこにはあった。
呆然と立ち止まった僕の背中を、ドアの閉まるごうんという重くて冷たい音が打った。




