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ヴァルゴ(乙女座)
黄道十二宮では、五番目に当たる処女宮である。
星座は、ナツメヤシの葉と麦の束を持つ乙女に見立てられている。いちばん目立つ星は、「麦の穂」を意味する『スピカ』。
占星術においては、八月二三日から九月二二日生まれの人が乙女座になり、その性格は「繊細」だとされている。
*
「どうして、なにも教えてもらえないのですか」
綾乃が、詰問するような声を小田先生に浴びせた。
近くの席にいた綾乃の担任の教師が、なにごとかという顔を僕たちに向ける。けれど、そんなことはおかまいなしに、綾乃は言葉を続けた。
「観月さんは、私たちの大切な友だちで、天文研究部の副部長ですよ。あんな無責任な噂を流されて、あたしは我慢できません」
「噂だと?」
女子生徒の間でささやかれている噂話を綾乃から聞かされた小田先生は、あからさまに顔をしかめた。
「流言飛語に振り回されるなど、愚か者のすることだぞ。生徒たちの一部が不適切な言動をしているのなら、私たち教師が対応する。おまえがどうこう言うべき問題ではない」
小田先生の言葉は、正論だった。
けれど、その一言は、綾乃の闘志に火をつけてしまったようだった。ふっくらとした綾乃の頬が、一気に上気した。
「そんなことを言って放置していたら、観月さんは学校に来たくてもこられないじゃないですか。もっと、真剣に取り組んでくださいっ」
僕は、できることなら事を荒立てないようにしたかった。僕たちがここに来たのは、詩織が学校を休んでいる理由を知るためで、小田先生とやりあうことには、なんの意味もない。
けれど……。
「春日、いい加減にしなさい。ここは職員室だぞ。これ以上騒ぎを起こすのなら、いくらおまえでもしかるべき処分を受けてもらうぞ」
綾乃を処罰する、という小田先生の言葉を聞いて、僕はもう黙っていることはできなかった。
「今のは、どういう意味ですか。綾乃は、なにも悪くないでしょう」
綾乃が、はっと息を飲む気配がした。
けれど、それよりも、目の前で泰然としている小田先生に対する苛立ちの方が勝った。
「先生はいつも、生活指導の職権を振りかざしてっ……」
言いかけた僕の耳に、ぱんぱんと拍手を打つような音が聞こえた。
続いて、間延びのしたような富士先生の声がした。
「はいはぁい、そこまでよ。星河くん、いくらカノジョのためでも、熱くなりすぎよ。聞きたいことがあるのなら、担任である私のところに来て欲しいなぁ。そんなわけで、小田先生、この子たちは私が預かりますね」
およそ緊張感のない富士先生の言葉に、僕は完全に気勢を削がれた。
それからは終始、富士先生のペースだった。
小田先生に対する非礼を詫びさせられ、僕たちは富士先生に連れられて職員室をあとにした。
廊下に出たとたんに、富士先生はため息を落として顔を曇らせた。
この先生の、こんな表情を見るのは初めてだった。
富士先生は、僕と綾乃を地学準備室に連れて行った。
地学準備室は、富士先生が管理している部屋であり、写真用の暗室が設置されている関係もあって、よく出入りしている場所ではあった。
部屋の中心にある作業机を取り囲むように、分厚い図鑑や鉱物の標本が詰め込まれたスチールの書棚が並んでいる。
重苦しいという印象が強い部屋の中で、南側の窓辺にあるオイルヒーターにかぶせられたチェック模様のランチョンマットが、唯一の彩りを感じさせた。
冨士先生は、作業机の真ん中にそのランチョンマットを敷くと、綾乃に手伝わせてゆっくりとお茶の準備を始めた。
薄いピンク色にワイルドストロベリーの小花を散らしたデザインのティーセットに紅茶が注がれ、同じデザインの絵皿にはクッキーが盛り付けられた。
茶会の準備を終えて席に着き、紅茶を一口啜ると、富士先生は言葉を選ぶように語り始めた。
「観月さんのこと、心配よね。当然だわ。あなたたちにまで事情を隠したのは、私のミスだった。でもね、これはとてもデリケートなことなの。だから、これから話すことは、絶対に口外しないと約束して欲しいの」
そのあと富士先生から聞かされた話は、あまりにも衝撃的だった。
二学期の始業式を翌日に控えた日曜日の夜、詩織は朝陽駅近くの繁華街のとある場所――はっきり言うと、ラブホテルの部屋で、一人の男子高校生に大怪我を負わせ、駆けつけた警察官によって身柄を拘束されたというのだ。
詩織が怪我をさせた男子高校生は、あの御堂だった。
ホテルの従業員の話では、詩織は、スーツ姿の大人の男性に抱きかかえられるようにしてそのホテルに入り、間もなく、風体の良くない若い男が、二人の後を追うように一人で入っていったという。
そして、その事件は起きた。
部屋で何があったのか、それはわからない。
激しく言い争う男の声と、大きな物音がしたため、従業員は警察に通報してから部屋に踏み込んだ。
そこには、呆然として立ち尽くす詩織と、頭から血を流して倒れている御堂の姿があった。
最初に詩織を連れ込んだ男の姿は、すでになかったという。
警察で事情を聞かれた詩織は、御堂との関係を含めて、なにも語らなかったらしい。結局、御堂から被害届は出されず、詩織は釈放された。
だが、当然のごとく学校では不問に付されなかった。
事件の相手が、札付きの不良であること、中学時代にその相手と交際していたこと、事件を起こす直前には、携帯電話所持という校則違反を犯していたこと。
すべての事実が、詩織の立場を悪くするものばかりだった。
「御堂くんは、自分の不注意で怪我をしただけだ、と言っているの。だから、正式には事件になっていなくて、観月さんに前科とかそういうのはないんだけど、事件の起きた場所が場所だけにね。観月さんも、なにも話してくれないから、事情もわからないし。先生たちは事態を重く見ていて、職員会議では、事情が判明するまで停学処分にすることが決まったの。ただ、事が事なので、表向きには、家庭の事情で休んでいるということにしたのよ」
話を締めくくった富士先生は、深いため息を落とした。
噂話のままとは言わないまでも、ほぼそれに近い出来事があったのだ。
どうりで、噂話を聞いたときに、小田先生が苦々しげな顔をしたはずだ。
窓の外に見える田園風景は、藍色の黄昏に沈んでいた。
ティーカップの紅茶は、すっかり冷めていて、もう湯気も見えなかった。
学校からの帰路、綾乃は僕の手を握ろうとしなかった。
そして、家の前まで来たところで、吐き捨てるように言った。
「あたし、詩織ちゃんのことライバルだって思ってたんだよ。本気でやりあえる相手だって。なのに……あんなの、裏切りだよ」
最後は、涙声だった。
鼻を啜って、それきり綾乃は口を噤んだ。




