α Vir
詩織が登校しない理由が知らされたのは、二学期がはじまってから三日がたった、水曜日の朝のホームルームでのことだった。
「観月さんは、家庭の事情でしばらく学校をお休みすることになりました。皆さん、心配だろうと思いますが、いろいろお取り込み中だということですので、ご自宅に行って迷惑をかけたりしないようにしてください」
担任の富士先生は、わざと感情を排したような淡々とした口調でそう告げた。
教室がかすかにざわめいたが、それもすぐに静まった。
詩織の欠席について質問をする生徒は、だれもいなかった。
ホームルームが終わり、一時間目の教師が来るまでの数分間、生徒たちは教科書や参考書を広げて予習にとりかかっていた。
数ヵ月後に迫った受験のことで頭がいっぱいで、影の薄いクラスメイトのことなど、すでに興味を失っているようだった。
昼休みになって、僕は後ろの席を振り返る。
制服のリボンと赤みがかった髪を揺らせながら、二人分のランチが入ったバスケットを取り出す、琥珀色の瞳の少女。そんな見慣れていたはず日常が、いまは遠い昔のことのように思えた。
一人で太陽黒点の観測を済ませた僕は、観測ドームの床に座って購買のサンドイッチを口に運んだ。
すこし乾燥した薄い食パンに、玉子やハムやキュウリが挟まれただけの食べ物は、なんの味もしなかった。
雲が流れたのか、ドームに差し込んでいた陽光がかげって、涼しい風が吹き込んできた。
ドームの隅に溜まっていた丸い綿埃が、つまらなさそうに転がっていった。
放課後のクラブ活動に、綾乃は遅れてやってきた。
詩織が学校を休んでいる理由を説明すると、綾乃は表情を曇らせた。
「困っていることがあるのなら、相談してほしかったよね。あたしたちじゃ、頼りにはならないだろうけど、話くらいは聞いてあげられるのに……」
どこか張りのない綾乃の言葉は、僕の気持ちも過不足なく言い当てていた。
「今日、詩織の家に行ってみようかな」
僕の何気ないつぶやきに、綾乃が驚いたように目を見張る。
「詩織?」
そして、ちいさなため息を落とした。
「やめたほうがいいよ。あたしたちにも話したくないような事情があるのなら、かえって迷惑になるよ」
綾乃の言うとおりだった。
僕たちは、しばらくそっとしておこうと決めた。
どんな事情があるにせよ、かならず詩織は帰ってくると信じていた。
けれどそんな思い込みが、いかに甘いものだったのかを、僕たちはすぐに思い知らされることになった。
昼休みの教室には、生徒たちの談笑する声が空しく響いていた。
窓の外に広がる黄色い稲穂の水田をぼうっと眺めていると、がらがらと教室の扉が引き開けられる音がした。
引き戸の扉が、建具にぶつかって激しい音を立てた。
驚いてそちらを見やると、仁王立ちの綾乃が教室を睨みつけていた。
綾乃は、机の間をつかつかと歩いてくると、僕の腕を掴んだ。
「智之ちゃん、ちょっとこっち来て」
早口にそう言った綾乃は、眉間に皺を寄せて、口を真一文字に引き結んだ。
これは相当に機嫌が悪いな、と僕は思う。
近くにいた数人の生徒が、何事かと眉をひそめる。そんなことには構わず、綾乃は僕の腕を引っ張った。
無言のままで廊下を歩き、階段を下りる。
綾乃のポニーテールが、激しく上下に揺れていた。
中庭の噴水池で立ち止まった綾乃は、周りを見回してから口を開いた。
「詩織ちゃんのことで、女子の間に酷い噂が広まってるの。学校に来ていないのは家の事情なんかじゃなくて、中学のころから援助交際をしていたことを小田先生に知られて、自宅謹慎させられているんだって」
そんな噂話を聞くのは初めてだったが、援助交際という言葉に、僕の心臓がどくんと大きな鼓動を打った。
御堂という不良の口走ったことが、今更のように耳に木霊する。
「あれは、詩織に振られた御堂が、悔し紛れに流したデマだったんじゃ……」
僕の言葉に、綾乃が首を横に振る。
「詩織ちゃん、日曜日になると、いい服を着て大人の男の人と一緒に町を歩いていたんだって。そういうところを、なんどか見かけられていたらしいよ」
綾乃の言葉に、僕は愕然とする。
『日曜日は、ちょっと』
そう言って、プラネタリウムに行くのを断った詩織が、まさにその日曜日に、スーツ姿の男と親しげに話しながら歩いていた姿を、僕は鮮明に思い出した。
「それとね、夏休みの補講の最終日に、学校でも問題を起こしてるらしいの。詩織ちゃん、携帯電話を持ってきてたでしょ。それを見つけて没収しようとした補講担当の先生を振り切って、学校を飛び出したんだって。その携帯には、交際相手の電話番号やらメールアドレスが入っていたんじゃないかって……」
詩織が携帯電話を隠し持ってきていることは、僕たちの間では公然の秘密になっていた。
たしかに校則では禁じられていたが、他にも隠し持ってきている生徒はたくさんいるし、学校側も持ち物検査などはしなかったから黙認しているものだと思っていた。
「ねえ、智之ちゃん。あたし、もう我慢できないよ。今日の放課後、小田先生に話を聞きに行こう」
綾乃はそう言って、大きな瞳で南校舎一階の端、職員室のあるあたりを見やった。




