γ Leo
シューティングスター(流星)
宇宙を漂っている小天体が、地球の大気に高速で突入した際に、大気の分子と衝突してプラズマ化したガスが発光するもの。地上からだと、夜空に突然現れた光が、尾を引いて流れてから消えるように見える。
流星は偶発的な出来事だが、毎年特定の時期に、天球上の一点から多量の流星が放射状に流れることを、とくに流星群と呼ぶ。著名な流星群の場合、最も多く発生する時間帯(極大期)には、一時間に数十個の流星が発生することが知られている。
*
綾乃がニューヨークに向けて出発したのは、合宿の一週間後だった。
緩やかにうねるような天井に覆われた国際空港のターミナルビルは、遅めの夏休みを海外で過ごそうという家族連れや若い女性のグループで賑わっていた。
セキュリティチェックに並ぶ人の列を横目に、僕と観月は綾乃と向かい合っていた。
朝陽北高校の夏制服に身を包んだ綾乃は、肩まで伸びた髪をポニーテールに括っていた。
花柄の白いシュシュが、綾乃の黒髪によく映える。
「綾乃さん、いってらっしゃい」
観月は、そう告げて綾乃の手を取った。
「うん。詩織ちゃん、見送りに来てくれてありがとう」
二人の制服のリボンがひらひら揺れて、通りがかった人々の視線が集まる。
僕は、なんとなく気恥ずかしくて、セキュリティチェックに並ぶ引率の富士先生に目を向けた。
はじめて外国に行く綾乃とは違って、海外旅行に慣れた様子の富士先生は、鞄の中の金属類を取り出しては、手際よくプラスティックのトレーに並べている。
「なあ、綾乃」
そう話しかけた僕の胸に、温かくて柔らかなものが飛び込んできた。
背中に回された手が僕をしっかりと抱きしめ、圧迫された双丘が僕の胸を押し返す。
目の前で、花柄のシュシュと黒いポニーテールが揺れていた。
「智之ちゃん……」
顔の下から、甘えたような声が聞こえてきた。
何が起きたのか、僕がそれを理解したのは、綾乃が腕をほどいて身体を離したあとだった。
「えへへ、甘えちゃった。……うん、これでもう大丈夫だよ」
綾乃が、頬を染めて笑った。
「じゃあ、行ってくるね。智之ちゃん、詩織ちゃん」
小さく手を振った綾乃は、リュックを肩にした。
ポニーテールとシュシュと背中のリボンが、ゆらゆらと揺れながらセキュリティチェックの人の列に飲み込まれていく。
綾乃はもう、振り返ることはなかった。
そのとき、不意に、僕の胸がぎゅっと締め付けられた。
あのゲートの向こうは、僕には手の届かない世界だ。
綾乃が、いつまでも手を繋いでいられると思っていた幼馴染が、とても遠くに感じた。
「綾乃っ!」
聞こえるはずがないとわかっていたが、僕は思わずそう叫んでいた。
そのあとに言うべき言葉など、考えていなかった。
ただ、もう一度、綾乃に振り向いて欲しかった。
背後で息を飲む気配がして、僕はゆっくりと視線を巡らせた。
そこには、琥珀色の目を潤ませて僕を見つめる観月がいた。
僕と観月は、滑走路を正面から見晴らすベンチに並んで座っていた。
綾乃が搭乗した飛行機が離陸するまでには、まだすこし時間があった。
観月は、小さなスケッチブックを広げると、鉛筆でデッサンを始めた。
黒い線の集まりが、見る間にずんぐりとしたフォルムのエアバスを描き出す。
僕たちの目の前には、天使の羽を象ったオブジェがあり、小さな銀の鐘が釣り下がっている。
腕を組んで歩いてきたカップルが、その鐘をかんと鳴らして笑いあう。
その音に驚いて顔を上げた観月が、再びスケッチブックに視線を落とす。
赤味がかった長い髪が、肩からはらりと流れ落ちて、端正な観月の横顔を隠した。鉛筆を握ったままの左手が、その髪をかき上げる。
彼女の白い首筋と、制服のチーフを持ち上げる胸のふくらみから、僕は思わず目をそらした。
観月の手がふと止まり、鉛筆を挟み込むようにスケッチブックを閉じると、僕の左肩にやわらかな重みがかかった。
「ごめんなさい。……ちょっとだけ、こうしていていいかしら」
観月の髪が触れた首筋に、ぞくぞくするような快感が広がる。
甘酸っぱい髪の匂いと、わずかに覗いた胸元から立ち上ってきたオーデコロンと汗の匂いが鼻腔をくすぐって、僕はめまいにも似た衝動を覚えた。
胸の鼓動がどんどん早くなって、身体が微熱を発する。
僕の中で膨れ上がる男の感情を持て余して、身体をすこしずらせる。
「どうしたの、観月」
僕の肩で、観月の髪が揺れた。
そして、フルートの音色を思わせるささやき声がした。
「詩織……」
僕の肩から、ふっと彼女の重みが消える。
頭をめぐらせると、僕を見つめる彼女の瞳がすぐ近くにあった。
綺麗に生えそろった睫毛の奥にある、琥珀色の深い泉の水面が波立っていた。
「詩織って……呼んで欲しいの」
僕は……。
『綾乃!』
『ありがとう、ありす』
ようやく、それに気づいた。
こんなに側にいたのに、僕は今までずっと……。
「ごめん。……詩織」
彼女の顔に、ふわりとやわらかな笑みが浮かんだ。
「うん、智之くん」
午後の日差しを照り返す滑走路から、綾乃を乗せた青い旅客機が離陸していく。
スピーカーから流れ出すZONEの『secret base』に重なるように、ごうっというジェットエンジンの音が響き渡った。
八月が終わり、二学期の始業式の日を迎えた。
空はどこまでも高く、まるで、今年の夏休みを永遠に刻み付けたような青さだった。
教室には、ミンミンゼミの鳴き声と、再会を喜び合うクラスメイトたちの笑いさざめきがあふれていた。
一学期の終業式となにも変わらないそこに、ひとつだけ足りないものがあった。
ずっと、一緒だった。
天の川を挟んで向かい合う、アルタイルとベガのように。いつでも必ず、そこにいた。
それが、あたりまえだと思っていた。
けれど……。
僕は、もういちど後ろの席を振り返る。
そこに、観月詩織の姿はなかった。
夏の日と彼女の名残のような淡い光が、座る者のいない席を虚ろに浮かび上がらせていた。




