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キャンサー(蟹座)
黄道十二宮では、四番目に当たる巨蟹宮である。
星座は、ヘラクレスと戦って敗れたお化け蟹に見立てられている。いちばん目立つ星は、アラビア語で「終り」と言う意味を持つ『アルタルフ』。星座のほぼ中央に、プレセペと呼ばれる散開星団がある。
占星術においては、六月二二日から七月二二日生まれの人が蟹座になり、その性格は「順応」だとされている。
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七夕の夜は、観月の天気予報どおりの晴れだった。
たまたま土曜日に当たったその夜、僕たちは観測会を計画していた。
天文研究部の正規な活動ではなく、僕が個人的にやるつもりだったものに、綾乃と観月が合流することになったのだ。
待ち合わせ場所のコンビニエンスストアに行くと、綾乃と観月はもう待っていた。
二人とも、示し合わせたように浴衣姿だった。
「えっと、今夜は観測会だよね」
「うん、そうだよ。だからちゃんと道具は持ってきたよ」
綾乃は、足元に積み上げた青いクーラーボックスの上の銀箱を、こつんと叩いた。
「でも、今夜は七夕でしょ。それより、あたしたちを見て、なにも言うことないのかな?」
そう言って、綾乃が浴衣の袖を広げてくるりと一回りした。
白地の浴衣に咲いた、艶やかなピンクの牡丹が舞い踊る。アップにした髪にも、牡丹をかたどった白い髪飾りが揺れていた。
はしゃぐ綾乃の横で、観月は帆布製のトートバッグを胸に抱いて、恥ずかしそうに琥珀色の瞳を潤ませている。
黒地に鮮やかな桜の花が染め抜かれた浴衣が、彼女の白い肌によく映えていた。
「はじめて見たよ、観月の浴衣」
「えへへっ。詩織ちゃん、可愛いでしょ。あたしのなんだけど、絶対に似合うって思ってたんだよ。だから、無理言って着てもらったんだ」
なぜか綾乃が、自慢げにそう言った。言われてみれば、去年の夏祭りのときに、たしかこんな浴衣を着ていたような気がする。
「で、あたしのは、どう?」
「ああ。綾乃も、似合ってる……と思う」
「はあっ、もう。頑張り甲斐のないヤツだね、智之ちゃんは」
綾乃はそう言うと、銀箱を肩に担いでから、クーラーボックスを指差した。
「こっちは、智之ちゃん用だから、持って行ってね」
幹線国道を渡ってキリスト教会の前を通りすぎ、私鉄の踏み切りを越えて静かな住宅街を抜ける。
綾乃と観月の足元で、下駄がからんころんと軽やかな音を立てる。
綾乃は歩きながら、DREAMS COME TRUEの『7月7日、晴れ』を口ずさんでいた。
やがて、小高い丘の上に広がるうっそうとした黒い林に続く石段の下に着いた。
石段の上には、白い大きな石造の鳥居が立っている。
街灯の光は樹木に遮られて、足元はかなり暗い。僕たちは懐中電灯を点けて、段差の少ない石段を登った。
社殿に向かう道を右手に見ながら、静まり返った児童公園の遊具の間を歩いていくと、広葉樹の林が黒松の林に変わり、夜風にのって潮の香りが漂ってきた。
足元の砂利道が芝生の広場に変わると、黒松の林が切れて、小さな漁港を見下ろす丘の上に出た。
右手の遠くには、人工島の工場群の照明が夜空を照らし、左手の彼方には大きな島が横たわっている。
その間を埋める瀬戸内海は、のっぺりと黒く凪いでいた。
振り仰げば、そこには遮るもののない星空が広がっていた。
二九万人が住む朝陽市の夜空には、数えるほどしか星は見えない。
駅に近くて人家も多い我が家の周辺では、その星たちですら見えにくい。けれど、三方を林に囲まれて、南向きに開けたこの場所なら、目を凝らせば藍色の空を横切る天の川も、うっすらとだが見ることができる。
ここは、僕のお気に入りの観測場所だ。
望遠鏡を組み立てて、赤道儀の極軸に内蔵された小型の望遠鏡を覗き、十字の中心に北極星を捉える。
準備が終わって顔を上げると、綾乃と観月が浴衣の胸元から、それぞれに短冊を取り出した。
顔を見合わせて微笑を交わし、彼女たちは赤色と黄色の短冊を望遠鏡のガイドスコープに括りつけた。
「はい、これ。星河くんも、なにか書いて」
観月が、青い色の短冊を差し出す。
銀色の色鉛筆で、天の川と星が描かれている。このイラストのタッチは、観月のものだ。
願い事を書き込んだ短冊を、僕もガイドスコープに括りつける。
三枚の短冊が、望遠鏡の白い鏡筒に寄り添うように並んだ。
綾乃は、レジャーシートの中央にクーラーボックスを据えて、中身を取り出して並べはじめた。
アウトドア用の紙のお椀に茶色い液体を注ぎ、ラップに包んでいた小口切りのあさつきを浮かべる。
大きなタッパウエアにぎっしりと詰った白い物体に、ペットボトルのミネラルウォーターを振りかけてから形を整え、黄色い錦糸卵と緑の星型の野菜を散らすと、「できた」と言って綾乃が笑った。
「今日のお夜食は、これ?」
「そう。ジャパニーズ・トラディッショナル・エクストリームリィ・シン・ヌードル、タナバタ・スペシャルだよ」
綾乃は怪しげなカタカナを並べ立てたが、それはどう見ても、夏場の食卓によく供されるおなじみの麺料理だった。
「素麺だよね。で、なんでわざわざオクラがトッピングされてるかなぁ」
僕は、白い素麺の上にちりばめられた星型の断面の夏野菜を、割り箸でつまみ上げる。
綾乃は、箸の先のオクラを見てから、僕に笑顔を向けた。
「天の川と、夏の星空をイメージしてみたんだ。それに、智之ちゃんの好き嫌いを治して欲しいって、おばさんに頼まれてるし」
観月が作ってきたおにぎりを頬張りながら、綾乃の素麺を啜る。鰹の風味が良く出た、香りの良い出汁だった。
食後には、綾乃の手作りのガトーショコラと、観月が自宅で栽培しているというミントのハーブティーが振舞われた。
「ねえ、智之ちゃん。星座を教えてよ」
綾乃にせがまれて、僕たちは星空を見上げる。
うっすらと白く見える天の川を挟んで、大きな三角形を描く三つの星が見える。
僕は、懐中電灯の光を遠方用に切り替えて空に向けた。かすかな白い光の柱が、その星に向かって真っ直ぐに伸びる。
「あれが、はくちょう座のデネブ……」
懐中電灯を動かしながら、光の柱で夏の大三角を描く星たちを指し示す。
「そして、こと座のベガと、わし座のアルタイル。織姫と彦星だよ」
「うん」
三脚に据えたカメラのレンズをはくちょう座の方に向けながら、綾乃がうなずく。
そして、すうっと息を吸い込むと、艶やかなその唇が動いて澄んだ歌声が漏れ出した。
「笹の葉さらさら、軒端に揺れる……」
スケッチブックにカステルの色鉛筆を走らせていた観月が、ささやくような歌声を合わせる。
「お星様きらきら」
夜風に揺れる、三つの短冊。
波の音と、風の音。
そして……。
「金、銀、砂子」
星空の下で、僕たちの歌声がひとつに重なった。




