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ウェザーマップ(天気図)
気象に関する様々な情報を地図に書き込んで、気象現象を把握するために作成する図。
天気予報で用いられる天気図は地上天気図と呼ばれ、大気圧の分布が等圧線で示されるとともに、前線や天気記号、低気圧や台風などの位置や移動方向が記入されている。
ある程度の知識と経験があれば、NHKラジオなどの気象通報をもとに、誰でも天気図を作成することができる。
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「申請のあった夏期休暇中の合宿の件だが、富士先生とも協議した結果、許可することにした。この間の件はあるが、相手は札付きの不良だということで、大目に見ておく。高校最後の夏休みだから、いい思い出を作っておけ。だが……」
部室の鍵を観月の掌に載せた小田先生が、僕と観月の顔を見てから咳払いをした。
「おまえたちは、年ごろの男女だ。くれぐれも、間違いは犯さないようにな」
そう言い足した小田先生は、用件は終わったとばかりに書類に目を落とした。
僕と観月は、軽く会釈をしてから職員室を出た。
北校舎の階段を五階まで登ると、部室のドアの前には、綾乃がすでに待ち構えていた。
そこは、階段の踊り場になっていたが、窓が無いせいで、蒸し暑い空気が澱んでいた。綾乃が、下敷きでバタバタと顔を扇ぎながら、「遅いよ」と文句を言った。
部室のテーブルに着くと同時に、綾乃が大きな瞳をきらきらさせながら観月に問いかけた。
「ねえねえ、キャンプってことはテントだよねっ。何日くらい行くの?」
観月は、校外活動許可証を広げて綾乃に見せる。
「砥峰山高原のコテージで、二泊三日の予定よ」
「え、コテージなの? うう、残念だよ。一度、テントで寝てみたかったんだけど。あ、八月二十日から一週間ほどアメリカに行くことになったから、そこは外してもらっていいかな」
綾乃の言葉の後ろ半分は、すぐには理解できなかった。
「アメリカ?」
オウム返しみたいな僕の問いに、綾乃はなぜか気のない声で答えた。
「うん。コロンビア大学と、マサチューセッツ工科大学で研修だって」
「もしかして、スーパーサイエンス・ハイスクールの派遣学生に選抜されたの?」
文系専攻の僕にはあまり縁のない話だが、朝陽北高校は僕たちが入学した年に、文部科学省のスーパーサイエンス・ハイスクールに指定された。
主に理数系のレベル向上を目的とした制度で、有名な科学者や大学の講師がやってきて難しい講義をしてくれたりしたが、その一環として、夏休みに数人の生徒がアメリカの大学や研究施設に派遣されることになっていた。
そのメンバーに、綾乃が選ばれたというわけだ。
「うん。……嬉しいんだけど、事前説明会やらレクチャーやらで、夏休みはほとんど埋まっちゃったよ。高校最後の夏休みなのに、ね」
綾乃が、戸惑ったように視線を泳がせた。
その先を追うと、ロッカーから持ち出してきたMDレシーバーを操作する観月がいた。
『南大東島。南南西の風、風力七、天気は晴、気圧は千十四ヘクトパスカル、気温は二五度。名瀬。南西の風……』
MDレシーバーから流れてくる抑揚のない男声アナウンスを聞きながら、日本列島を中心にした白地図のような天気図用紙に、観月が記号と数字を書き込む。
午後四時からNHKラジオ第二放送で行われる気象通報で天気図を作るのも、天文研究部の活動の一環だった。
入部してからずっと、僕と観月は交代で天気図を作り続けてきた。
一心にシャープペンシルを動かす観月の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
南に向かって開け放した窓から、熱を帯びた風が吹き込んで来る。
その風が、ふたつくくりになった観月の赤味がかった髪を揺らせ、その先が天気図用紙に触れる度に、かさこそと音を立てた。
『続いて、漁業気象です。日本海上の北緯……』
観月の持つシャープペンシルが紙上を走り、テレビの天気予報でよく見る天気図が浮かび上がってくる。
日本列島の北西の日本海上、ちょうど隠岐諸島のあたりに大きな同心円が描かれ、その中心に「H」の文字と右下に向いた矢印とともに「1014」という数字が書き込まれる。
『以上で、この時間の気象通報を終わります』
アナウンサーがそう告げると、観月はMDレシーバーのスイッチを切って、ふうっとひとつ深いため息をついた。
「この移動性高気圧の勢力が安定して強いから、梅雨前線は北上できなくて、本州の南岸で停滞しているわ。だから、あと数日は晴天が続くはず。このぶんなら、週末の観測会も大丈夫だと思う」
「魔法を見ているみたいだわ……」
綾乃は、制服の胸当てを掴んで、下敷きを団扇代わりにして風を送り込みながらつぶやいた。
下敷きが前後に振られる度に、胸元のチーフがふわふわと揺れた。
「詩織ちゃん、今度、やり方を教えて」
綾乃の申し入れに、観月が笑顔でうなずく。
「でも、いいお天気で良かったよ。ねえ、智之ちゃん、七夕に降る雨のこと、催涙雨って言うんだよ。知ってた?」
それは、はじめて聞く言葉だった。
「雨が降ったら、カササギも橋を渡せない。一年に一度だけの逢瀬を楽しみにしていた、織姫と彦星の涙の雨だと言われてるんだって……」
理系の綾乃にしては珍しく、文学的な香りのする話だった。
「ねえ、詩織ちゃん」
呼びかけられた観月が、綾乃を見やりながら小さくうなずく。
そして、天気図用紙を折りたたみながらささやいた。
「烏鵲河を填めて橋を成し、織女を渡らしむ。……今年の星合は、きっと大丈夫だわ」
夏の夜風に揺れる笹の葉のような観月の声が、僕の耳をくすぐった。




