γ Gem
プラネタリウム(天象儀)
専用の投影装置――プラネタリウム・プロジェクターを使って、丸いドームスクリーンに実物とそっくりの星空を投影する施設である。
プラネタリウムの語源は、惑星を意味する英語プラネッツで、本来は惑星の動きを表現する機械という意味である。日本語では、天象儀と呼ぶこともある。
プラネタリウムでは、夕方から明け方までの一夜の星空の変化や、季節による星空の移ろい、星座にまつわる物語や天体現象に関する説明が行われることが多い。
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柔らかな椅子の背もたれを深く倒すと、乳白色の淡い照明が当てられたドームが視野を覆い尽くした。
そこから視線を下げると、正面に黒くて巨大な鉄アレイを思わせる旧式のプラネタリウム投影機があった。
カール・ツァイス・イエナ社製、ユニバーサル・プラネタリウム・プロジェクター23/3。
設置されてから、すでに五十年。もはや文化財と言うべき機械で、とうの昔に引退していてもおかしくないのだが、未だに現役で稼動している。
直径が約二〇メートルのドームに同心円状に配置された座席は、三五〇人余りを収容できる。
ざっと見渡すと、座席は三分の二ほど埋まっていた。
僕の隣の席には、ドームにも投影機にも見向きもせずに、一心に携帯電話を操作するありすが座っていた。
彼女は、僕と同じ回のプラネタリウム鑑賞券を持っていたので、そのまま一緒に投影を見ることになったのだ。
小さなブザーの音が投影の開始を告げると、ありすは携帯の電源を切ってぱたんと折りたたんだ。
そして、肩で小さく息をすると、椅子の背もたれを深く倒した。
長い黒髪と黒い瞳の横顔が、僕のすぐ横からドームを見上げる。
そこにいるのが、綾乃でも観月でもないということが、現実だとは思えなかった。
「今日はあいにくの雨ですが、プラネタリウムでは、いつでも太陽を呼び出すことができます……」
初老の男性解説員の穏やかな声がドームに響く。
同時に、黄色味を帯びた白い円が、西の空に映し出された。
解説員が呼び出した太陽が、空を茜色に染めながら沈んでいくと、一番星が輝き始める。
やがて訪れた暗闇の中、見上げるドームには満天の星空が広がった。
三十二枚の恒星原版と精密無比な光学装置によって描き出される、九千個あまりの星々。
その数は、僕たちが肉眼で確認できる星の数とほぼ同じだ。
だから、旧式の投影機が映し出す星空は、実物の星空に似ていると言われている。
天の川が、星空を横切っている。
わし座のアルタイル、こと座のベガ、そして七夕の伝説を、解説員は優しい語り口で紡ぐ。
温かみのある乳白色の星空は、その物語によく似合っていた。
「女神ヘラの流した乳だと言われる天の川は、じつは小さな星の集まりなのです」
その言葉とともに、ドームの星空が一変した。
隣の席で、ありすが息を飲む。
小さな冷たい手が僕の右手を掴んだ。僕の胸が、どくんとひとつ鼓動を打つ。けれど、すぐに興味はドームに広がる星空に奪われた。
漆黒に浮かび上がる、最新式プラネタリウム投影機、メガスターⅡの青白い清冽な星空。
それは、宇宙の深遠さまで描き出したような、凄みすら感じさせる圧倒的な星空だった。
映し出されている星の数は、約五六〇万個。
実際の星空では目に見えない星であっても、あえてそれらを投影することで、より本物の星空に近づけようとしたのがこの投影機だ。
普通の投影機なら淡い光を当てることで表現する天の川も、目に見えないほどの小さな星を、ひとつひとつ投影することで表現している。
その精密さは、プラネタリウムの星空を双眼鏡で観望できるほどだという。
そこにあるのは、もう普段は見ることも叶わないほどの星空だった。
プラネタリウムを作った人たちの、本物の星空を再現したいという思いは、ついに本物より本物らしい星空を描き出すところまでたどり着いたのだ。
けれど、僕も、プラネタリウムを作った人たちも知っている。
いかに光学技術と機械技術の粋を結集しようとも、これは本物の星空にはどうやっても届かない、作り物なのだということを。
投影が進むにつれて、右手に感じていた掌の冷たさは、すこしずつ温かみを帯びていった。
投影が終わると、それを待ちきれなかったように、ありすからメールが届いた。
『あんな綺麗で凄い星空を、いままで見たことがありません』
「ああ。もしかしたら、本物の星空より綺麗かもしれないね」
僕の言葉に、ありすの指がすばやく動いて、文字を書き連ねていく。
『リアルな星空なんて、全然ダメです。プラネタリウムなら、いつでも綺麗な星空を見られます。夏の暑さも、冬の寒さも、天気も関係ありません』
「そうだけど。でも、どこまでいっても、それはリアルじゃないよ……」
僕は、年少の女の子を相手に、なにをそんなにムキになっているのだろう、と思った。
そして、気がついた。
この子は、どこか僕と似ているのだ。ヴァーチャルに逃げ込んで、リアルとのコミュニケーションを拒絶しているだけなのではないのか。
そう思って……そして、僕は自嘲する。
――他人にそんなことを言えるのか、この僕が……。
携帯が震えて、ありすからメールが届く。
『リアルなものなんて、なにもかも綺麗じゃないです。星空も、それに人間関係も。ボクは、そんなものは嫌だし、欲しくないです。ヴァーチャルな関係なら、傷つき傷つけられることもない。リアルを超えるヴァーチャルがあるのに、そんな惨めなリアルに価値があるんですか』
ありすの黒い瞳は、ずっと携帯電話の液晶画面を見つめたままだった。
僕には、そんなありすの横顔に向けて答えるべき言葉が、見つけられなかった。
週明けの月曜日、放課後の天文研究部の部室には、いつもの三人が揃っていた。
僕は、頭上を見上げる。
そこには、弱小クラブに不相応の設備が設置されている。
天井に埋め込まれた直径五メートルあまりの半球状のスクリーン、プラネタリウム投影用ドームだ。不相応と言ったが、そもそも肝心のプラネタリウム・プロジェクターが学校の備品にない。
だから、おそらくいままで使われたことはないだろう。
半球状の表面をなぞるようにして視線を下ろすと、その先にはカメラの手入れにいそしむ綾乃と、天文雑誌を読みふける観月がいる。
ずっと一緒に歩いてきた幼馴染と、ずっと一緒に過ごしてきた同級生だ。
彼女たちと共にした時間、そして彼女たちと見上げた星空。
けれどそれは……。
昨日プラネタリウムで出会った少女の面影が、脳裏をよぎった。
触れ合った掌の温かさとともに、いたたまれない焦燥感を覚える。
『そんな惨めなリアルに価値はあるんですか』
ありすの言葉が、僕の胸をえぐる。
そう、それらは、けして綺麗なだけのものではないし、格好のいいものでもない。
彼女たちにとって、どれほどの価値があるものかもわからない。あるいは高校を卒業すると同時に、天文研究部と同じように過去のものになってしまう程度の、つまらないものかもしれない。
けれど、みんな今ここに、現実にあるものだ。
そのとき、不意に、僕はそれに思い至った。
僕たちがここにいて、どんな思いを抱いて星空を見上げていたのか。僕たちが見ていた星空は、どんなものだったのか。それを、いつでも再現できるようにして残しておきたい。
この先、もし僕たちに後輩ができたとしたら、彼らがそれを見てくれるかもしれない。
そして、その中の誰かひとりくらいには、僕たちの思いが届くかもしれない。
「なあ、観月、綾乃。陽北祭の出し物のことなんだけど……」
僕の声に、二人が顔をあげる。
深呼吸をひとつしてから、僕は言葉を継いだ。
彼女たちの目を見ながら、その心に届くように思いをこめて。
「僕たち三人で、プラネタリウムを作らないか?」