β Gem
ジェミニ(双子座)
黄道十二宮では、三番目に当たる双児宮である。
星座は、双子の子供に見立てられている。いちばん目立つ星は、双子の兄弟の名前である『ポルックス』と『カストル』。
占星術においては、五月二一日から六月二一日生まれの人が双子座になり、その性格は「多才」だとされている。
*
灰色の重い雨雲が低い空を覆い、多量に湿気を含んだ生暖かい風が海から吹いていた。そんな日曜日の昼下がり、僕はひとりで朝陽駅に降り立った。
瀬戸内海に沿って東西に長く伸びる朝陽市は、東の外れにあるここ朝陽駅周辺が中心地になる。
近くには市役所があり、銀行や証券会社のビルが建ち、城跡の公園には野球場や陸上競技場とともに、図書館や博物館も設置されている。
けれど、僕の目的地である市立科学館は、一館だけぽつんと離れた位置に建設されている。
瀬戸内海をまたぐ世界最大の吊橋と、その対岸の大きな島を見晴るかす高台に建つ市立科学館は、その敷地をちょうど東経一三五度の子午線が通っている。というよりむしろ、子午線の通っている場所に科学館が建設されたという方が正しいだろう。
科学館の最寄駅は、朝陽駅から私鉄に乗り換えて東向きに一駅行ったところだが、徒歩でも十分くらいの距離なので、僕は散歩ついでに歩いていくことにした。
日曜日の朝陽駅は、構内にあるショッピングモールに遊びに来た人々で賑わっていた。
お喋りしながら歩きすぎた女子高校生のグループを避けて、北出口から外に出た僕は、思いもかけなかった人を見つけて立ち止まった。
「観月……」
彼女は、地味なネイビーのスカートスーツをきちんと着こなして、灰色の長いプラスチックの筒を抱えていた。
そして、隣に並んだスーツ姿の若い男性と親しげに話しながら、足早に歩きすぎていった。
たしか、日曜日はちょっと、と言っていたが、これがその理由なのだろうか。
知りたければ、声をかけて確かめればいいだけのことだ。
なのに、僕は、彼女に向けて一歩を踏み出すことも、一言の声をかけることもできなかった。
ただ、早鐘のように鼓動を打つ胸を押さえながら、雑踏に消える観月の背中を見送った。
空を見上げると、公園の上に広がる梅雨空は、またすこし低くなっていた。この分では、もうすぐ雨が降り出すかもしれない。
駅の雑踏に背を向けて、僕は歩き出す。
ちょうど歩行者信号が青くなって、カッコーと聞こえる電子音が耳に届いた。
線路沿いの家並みを見ながら東に歩き、左に曲がって緩やかな坂道を登ると、市立科学館の前に出る。
湖面に浮かんだ白鳥のような形をした市立科学館は、天気が悪いわりには賑わっていた。
窓口で、入館券と時刻指定のプラネタリウム鑑賞券を買って館内に入る。
効きすぎた冷房が、すこし肌寒かった。
プラネタリウム投影時刻まで少し時間があるので、僕は三階にある展示スペースを見て回わることにした。
階段を昇って展示室に入ったところで、ピピピッという無機質な携帯電話の呼び出し音がした。
僕は、いくぶん慌ててズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
しかし、着信音はしているのに、液晶画面は待ち受け状態のままだった。
おかしいな、と思った直後、僕は正面から柔らかいものにぶつかられてよろめいた。
「きゃっ」
僕の胸元から、小さな悲鳴が聞こえた。
同時に、僕の手を離れた携帯電話が、絨毯を敷いた床に転がる。
見下ろすと、長い黒髪の女の子が鼻を押さえて立っていた。
頭が僕の首より低い位置にあるので、その子の顔はちょうど僕の胸のあたりになる。どうやら、さっき僕にぶつかった柔らかなものは、この女の子だったようだ。
襟と裾に白いレースの縁取りがある黒いふわふわしたワンピースに身を包んだその女の子は、黒目の大きな瞳で僕を見上げたあと、すぐに目をそらすようにぺこりと頭を下げた。
大丈夫か、と声をかけようとした僕には目もくれずに、女の子はしゃがみこむ。
その前には、同じ機種の携帯電話が二台並んでいた。
どちらの携帯電話にも、アクセサリーのストラップも、デコレーションのシールもなかった。
床に落ちたはずみかどうかわからないが、呼び出し音はすでに途切れていた。
それはまるで、ドラマか映画のワンシーンのような出来事だった。
これで、携帯電話の取り違えでもあれば、それが運命の出会いだったと回想されるのだろう。
けれどその女の子は、迷う素振りも見せないで、そのうちの一台を拾い上げた。
そして、僕に向かってもう一度頭をさげると、まるで逃げるように展示スペースに向かって歩き出した。
腰のあたりまである黒髪が、さよならを告げるように左右に揺れる。
僕は、その後姿を見送ったあとで、もうひとつの携帯電話を拾いあげた。
プラネタリウムの投影時刻が近づき、投影ドームの入口で入場を待っていると、携帯電話のメール着信を知らせる音が鳴った。
メールを開いてみると、短い本文が目に入った。
『すみません。今、どこですか』
内容は、それだけだった。
けれど、発信者のアドレスを見て、僕は状況を理解した。
現実は小説より奇なり、という言葉があるが、ほんとうにそんなことが起きるのだなと僕は思った。
そこに表示されていた発信者のアドレスは、僕のものだった。
待つほどもなく、プラネタリウムの入場待ちの雑踏の中から、黒い少女が現れた。
彼女は、僕を見つけると無言のままでぺこりと頭を下げた。黒曜石のような瞳が前髪に隠れ、濡れたような黒髪に天井の照明が光の輪を作る。
顔を上げた女の子は、僕が差し出した携帯を受取ると、驚くべき速度で文字を打ち込んだ。
彼女が指を止めると同時に、僕の携帯に一通のメールが届いた。
『ボクの早とちりで、ご迷惑をおかけしました』
メールには、女の子の見た目に似合わない一人称と丁寧で堅苦しい謝罪の言葉が綴られていた。
「いいよ、気にしないで」
僕の言葉に、女の子はこくりとうなずく。
そして、その手が再び携帯を操作する。また、一通のメールが届いた。
『次のプラネタリウム投影を見るのですか』
目の前にいるのだから、直接話せばいいようなものだが、女の子は携帯の画面から目を離さない。
「そうだけど」
僕が答えると、女の子はほっとひとつ息をついた。
その口元が、こころなしか緩んだように見えた。
女の子は、軽津ありすと名乗った。
朝陽市内に住む中学生で、まるで人形のような美少女だったが、外見の印象以上に人形めいたところがあった。
それは、彼女が肉声での会話を極端に苦手としているということだった。
自己紹介も会話も、ありすの発言はすべて携帯の電子メールだった。
僕を警戒しているようには見えないのに、なぜそんなことをするのか。その理由が気になったが、僕はそれをありすに聞くことができずにいた。
先日、理由を告げずに誘いを断り、そして今日、偶然に駅ですれ違った観月のことが、脳裏に浮かんでいた。
他人の事情に、深入りすべきではない。
僕は、自分にそう言い聞かせた。けれどそれは、言い訳だった。
結局、僕には勇気がなかっただけなのだ。彼女たちから、理由を、答えを聞くのが、怖かったのだ。