表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日、星空の下で -Star Observation Society-  作者: TOM-F
Sign05 タウラス・ソーラーエクリプス
15/36

γ Tau


ソーラーエクリプス(日食)


 太陽と月が重なることで、太陽の一部あるいは全部が見えなくなる天文現象のことである。

 月食と違って、場所によって見え方が違う。


 太陽の一部分が隠れるものを部分日食、全てが隠れるものを皆既日食という。

 皆既日食の際には、太陽の周囲にプロミネンスやコロナが見えることもある。


 皆既日食に近いもので、完全には隠れずに月の外周から太陽がはみ出して環状に見えるものを、とくに金環食という。


 *


「七時二九分、第二接触。金環食の始まり」


 僕は、腕時計を確認して宣言する。

 見上げた空には、白い光のリングがあった。金環食の限界線は、国立天文台の予想より、すこし北西にずれてくれたようだ。


 金環食の朝は、あいにくの曇り空だった。

 けれど、その薄い雲が強烈な太陽光を減衰する役目を果たし、金環食特有の光のリングを容易く見ることができた。


 見渡すと、校舎もグラウンドも、のどかに広がる田園も、遠くに見える高層マンションも、すべてが薄暗い褐色に沈んでいた。

 陽光の暖かさがなくなり、観測ドームに吹き込む風も冷たくなった。


 僕の目の前では、綾乃の制服のプリーツスカートがひらひら揺れている。

 踏み台に乗った綾乃は、反射望遠鏡に取り付けた自前のオリンパスの一眼レフカメラを一心に覗き込んでいた。


 今日は月曜日だが、登校している生徒はまだ少ない。

 気の早い野球部がグラウンドで練習を始めていたが、数分前から球音も掛け声も聞こえなくなった。

 たぶん、練習を中断して空を見上げているのだろう。


 赤道儀を駆動するモータードライブの音だけが、静かな観測ドームに満ちていた。


 僕の横では、観月が真剣な面持ちで、記録用紙に色鉛筆を走らせている。

 屈折望遠鏡で太陽観測盤に映し出された金環食の太陽をトレースするように、観月の左手が記録用紙に見事なスケッチを描いていく。


「詩織ちゃん……」


 突然、僕の斜め上から、綾乃の声が降ってきた。


「あたしね、今まで、ライバルなんていなかったんだ。でも、今は違う。詩織ちゃんは、あたしのライバルだと思っているからね」


 僕の真横から、答える声がする。


「春日さんのライバルだなんて、私……」


 薄い雲が流れて、光のリングが少し眩しくなった。

 観月は、小さく首を振る。


「なにをやっても、敵わないのに。そんなの無理だわ」


 綾乃がカメラのシャッターを切る。

 カシャッという軽快な音の後に、はっきりとした言葉が続いた。


「詩織ちゃんが、なにかの問題を抱えながら、一生懸命がんばっているのはわかってるつもりだよ。でも、それを言い訳にしてちゃ、だめだと思うんだ」


 どうして綾乃がそんなことを言い出したのか、なぜ観月に対してそこまでむきになっているのか、僕には見当もつかなかった。

 僕の隣で、観月が身じろぎするのがわかった。

 その薄い唇から、吐息とともに細い声が漏れ出す。


「言い訳、なのかしら」


 遠慮がちな観月の声に、綾乃の強い口調がかぶさる。


「うん、言い訳だよ。それに、自分の気持ちに嘘ついちゃだめだよ。詩織ちゃんも、あたしをライバルだって思っているでしょ」


 綾乃の言葉には、問い詰めるような激しさがあった。


「私の気持ち……」


 スケッチの手を止めて記録用紙に目を落とした観月を見ながら、僕は昨日の夕方のことを思い出した。




 西に傾いた太陽が、さざめく海面に光の道を描いていた。

 石を積み上げて固めただけの防波堤に小さな波が寄せて、ちゃぷんたぷんという音を繰り返していた。

 入り江の奥に係留された白い漁船が、あるかなきかのうねりにゆっくりと上下に揺れる。ところどころ剥げ落ちたペンキの下には、ささくれ立ったこげ茶色の船体が覗いていた。

 遠くには、人工島のコンビナートの煙突が、赤黒いシルエットになっているのが見える。


 風をはらんだ髪と白いチュールのスカートを、観月は小さな手で押さえつけながらゆっくりと歩を進めていた。


 頬に当たる風は、少し冷たかった。

 その風に紛れるように、観月の声がした。


「御堂くんとは、中学生のときにすこしだけ付き合ったことがあるの」


 きっかけは、友人の紹介だったらしい。

 付き合い始めてすぐに、観月は御堂の下心に気づいたという。


「彼は、目立つ外見の私を、自分のアクセサリーにしたかっただけだったのよ」


 そして、観月が別れを告げた直後から、彼女に関する悪い噂が学校に広がった。

 噂の出所は、御堂だった。

 それは、どんどんエスカレートし、観月が朝陽北高校に入学することが決まると、ついに援助交際をしているという内容にまで発展した。


 プライドを傷つけられたせいだと思うとつぶやいて、観月は顔を伏せた。


「私がこんな外見だから、それを信じた人は多かったみたい。数少ない友達も、面倒ごとを避けるように私から離れていったわ。この髪と目のせいで、私はいつも……」

「観月は、何も悪くないじゃないか」


 僕の言葉に、けれど観月は、ゆっくりと首を振った。


「あのね……私の外見のせいで、父と母は別れたの」


 観月の言葉を、たしかに僕は耳にした。

 けれど、その意味を、僕はすぐには理解できなかった。


「私の父と母は、大学生のときに、できちゃった婚で一緒になったらしいの。でも、私が生まれると、その関係にひびが入った。そして母は、私の髪と目と左利きを、とても嫌った」


 また、静かな時間が流れた。風が、耳元でひゅうと音を立てた。

 僕は、うつむきがちな観月の横顔に向けて、ずっと思っていたことを口にする。


「その髪も目も、変じゃない。左利きだって、べつにどうってことないよ」


 観月が、広げた左手に視線を落とした。


「結婚する前の母には、父に隠れて交際していた人がいたの。その人は、赤毛で左利きの外国人だったらしいの」


 僕の胸が、どきりと鼓動を打った。


「母は、私が幼稚園に入る前に失踪してしまって、父も私を育てる気なんてなかったから、私は母の実家に預けられたの。それっきり、父とは会っていないわ。小学校に入ったころには、父も行方がわからなくなって。高校に入る直前に裁判所の許可が下りて、今の家の子になったの」


 ごめんね、と観月は震える声で付け足した。

 僕は、何度も言葉を発しようとして、その度に思いとどまった。なにを言っても、観月を傷つけるような気がした。

 僕は、入学式のあと、教室にぽつんといた観月を思い出した。熱いものがこみ上げてきた。


「観月のせいじゃ、ないよ」


 ようやく搾り出した僕の言葉に、観月はかすかな微笑みで答えた。


「星河くんは、優しいね」


 観月の横顔を、沈む間際の夕陽がオレンジ色に染めた。


「……春日さんが、羨ましいわ」


 強くなった光が眩しかったのか、遠い落日に目を凝らしたのか、観月は目を細めた。


「ごめんね」


 ささやくような声が、もう一度、そう告げた。




 太陽を隠している月が動いて、その黒い辺縁が光のリングに触れた。

 月面の凹凸が光のリングを寸断するベイリー・ビーンズが見える。

 まもなく、金環食の終わりだ。


「ねえ、詩織ちゃん。欲しいものがあるなら、やりたいことがあるなら、手を伸ばさなくちゃ。待っているだけじゃ、いつまでたっても届かないよ」


 綾乃の言葉が、観測ドームに降りていた沈黙を破った。

 観月が、弾かれたように綾乃を見上げる。

 綾乃は、カメラのファインダーをにらみつけたままで、またひとつシャッターを切った。

 観月は、琥珀色の瞳を僕に向けたあと、記録用紙に視線を戻した。ファーバーカステルの色鉛筆を握るその左手に、力がこもったように見えた。


「今の私には、これしかできることはない。でも、いつか春日さんを……」


 最後のひと筆を書き入れてイラストを完成させた観月は、強い光を宿した眼差しで綾乃を見上げた。


「あなたを、越えて見せるわ」


 綾乃が、カメラのファインダーから外した視線を観月に向ける。

 その顔に、満面の笑みが浮かんだ。


「うん。でも、あたしは手を抜かないよ。全力を尽くして、詩織ちゃんが絶対に追いつけないところまで行くからね」


 その言葉が終わると同時に、空にあった光のリングは消えた。

 そして眩いばかりの陽光が、再び地上を照らした。


 僕は、日食の進行に追いすがるように、腕時計に目をやってから告げた。


「七時三〇分、第三接触。金環食の終了……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ