β Tau
タウラス(牡牛座)
黄道十二宮では、二番目に当たる金牛宮である。
星座は、ゼウスが美しい女性に近づくために化けた牡牛に見立てられている。
いちばん目立つ星は「後に続くもの」を意味する『アルデバラン』。
牡牛座には、すばるの和名で知られるプレアデス星団や、ヒアデス散開星団、超新星爆発の残骸であるM1かに星雲もあり、とても見栄えのする星座である。
占星術においては、四月二〇日から五月二〇日生まれの人が牡牛座になり、その性格は「安定」だとされている。
*
五藤詩織、と呼びかけられた観月の顔色が、一瞬で蒼白になる。
「御堂くん……」
震える声で答えた観月に、男は納得したように目尻を下げた。
その口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
「おまえ、変わったよな。やっぱり、北高に行く子は、俺らとは違うってか」
御堂は、観月から外した視線を、綾乃に向ける。
値踏みするように綾乃にからみつくその視線に、僕は苛立つ。
「へえ、こっちの子、可愛いじゃん。なあ、紹介しろよ」
「やめて。そういうの」
観月の拒絶を聞いて、僕は状況を理解する。観月とこの男がどういう関係だか知らないが、あまり歓迎すべき相手ではないらしい。
「もう行こう、早く帰らないと」
観月と綾乃を促した僕に一瞥をくれてから、御堂と呼ばれた男は舌打ちをする。
「ちっ、男連れか。ま、いいけどよ。どうせ五藤は、俺なんか端から相手にしてなかったもんな。エンコー専門だし……」
温室育ちのような僕でも、御堂が発した言葉の意味くらいは知っていた。
けれど、それが投げかけられた対象とのあまりのミスマッチに、僕にはそのふたつが結びつかなかった。
「俺は純愛主義だから、こっちでいいや」
なれなれしい手つきで、御堂が綾乃の手を掴む。
綾乃の悲鳴と怯えた顔が、幼い日の彼女の泣き顔と重なり、僕の頭に血が上る。
骨ばった御堂の手を払いのけて、強引に綾乃の手を取り返すと、二人の間に割って入った。
「ああ、なに? おまえさぁ、女の前だからって、かっこつけんなよ」
御堂が僕の肩を突き飛ばす。
とっさに出そうとした足が縁石につまづいて、体勢を崩した僕は、歩道に停まっていた自転車と一緒にアスファルトの路面に倒れこんだ。
観月の悲鳴と、がしゃんという派手な音が響く。
「はっ、ザマねえな」
見下すような御堂の歪んだ笑顔に、僕の感情が一気に沸騰した。
「このっ」
起き上がりざまに、僕は御堂に向けて拳を固める。
「智之ちゃん、だめっ」
綾乃の声に、一瞬、気をとられた。
直後、僕は頬に痺れたような衝撃を感じて、再び地面に崩れ落ちていた。
視界が歪み、口の中に鉄臭い味が広がる。
「やめてっ、詩織ちゃん」
先ほどより切迫した綾乃の声がした。
ぼやけた視界の中に、御堂ともみ合う観月の姿が見えた。
助けなきゃ、と思ったときだった。
「何をしているかっ」
少し甲高い、聞き覚えのある男の声が響いた。
声の主は、小田先生だった。スーツの腕に、「補導員」という腕章を巻いている。
駅の階段に走り去った御堂の後姿をひとしきりにらみつけたあと、小田先生は、僕たちをバス停のベンチに並んで座らせた。
「名誉の負傷だな、星河。それから観月、おまえも軽率だぞ」
三人から事情を聴き終えた小田先生は、険しい表情のままでため息を落とした。
「春日を守ったということと、先に手を出さなかったことだけは褒めてやる。だが、不問に付すわけにはいかない。星河と観月は、月曜日の放課後に生活指導室まで来るように」
小田先生は、暗くなった空と腕時計を交互に見てから言い足した。
「ご家族には、私から連絡をしておく。春日も観月も、家は近いな。星河、おまえが責任をもって、まっすぐに自宅まで送り届けろ」
小田先生と別れて、僕たちは家路についた。
綾乃は僕の隣に並び、観月は一歩後ろをついてきていた。
「びっくりしたよ。智之ちゃん、ときどき見境がなくなるから」
歩きながら、綾乃が話しかけてきた。
「ごめん」
「いいよ。……あのときと、同じだね。またやられちゃったけど」
綾乃が、くすくすと笑う。
あのときというのは、僕たちが小学校三年のときのことだろう。
集団下校の道で、男の子にいじめられて泣き出した綾乃を見て、かっとなった僕はその男の子と派手な殴り合いのケンカをしたのだ。
「いやなこと、思い出させるなよ」
僕は、本気でふてくされる。
あの時は、さんざん殴られて痛い目にはあうわ、先に手を出したせいで両親からも先生からも叱られるわで、僕が被った被害は甚大だった。
玄関先まで出迎えに来ていた綾乃の母親に、「また助けてくれたんだってね、ありがとう」と礼を告げられ、僕はどうにも居心地が悪くなる。
照れくさそうに玄関に姿を消した綾乃を見送り、後ろを振り返ると、観月が遠くを見るような眼差しで僕たちを見ていた。
朝陽市を東西に貫く幹線道路の歩道を、僕と観月は歩いていた。
交差点でこっちよとささやいたきり、観月はずっと無言だった。
聞きたいことはたくさんあった。
御堂という男と観月は、どういう関係なのか。観月は、なぜ「五藤」と呼ばれていたのか。それに、観月の不純異性交遊を匂わせるような御堂の雑言は、なんだったのか。
けれど、それを観月に問いかける勇気も出せないまま、時間と足だけが前に進んでいく。
ひっきりなしに往来する乗用車やトラックの騒音が、ごうごうと響いていた。
ハンバーガー店がある交差点を曲がったところで、観月が立ち止まった。
「ここでいいわ」
もう、家が近いということだろう。
けれど僕は、このまま観月と別れてはいけないような気がした。
「いや、家まで送らないと。……あのさ、さっきの、あれってどういうことかな」
ようやく発した僕の問いに、観月はうつむく。
「あれ、って?」
「御堂って男が、観月のことを五藤って呼んでたよね。それに、えんこ……」
それを口にしかけたとき、一軒の家の扉が開いて、作務衣姿の初老の男性が姿を見せた。
古い木造二階建ての玄関には、「観月」という表札がかかっていた。
男性は、観月を見るとほっとした表情を浮かべた。
「ただいま。……お父さん」
観月がちいさな声でぎこちなく告げると、彼は大きくうなずいた。
「おかえり。そちらは、お友達かい」
優しい響きのするその声に、観月が恥ずかしそうにうなずく。
僕は、軽く頭を下げて挨拶をする。
「朝陽北高校の同級生で、星河といいます」
名乗ったことに安心したのか、父親は僕にも笑顔を向けた。その目尻に寄る皺の深さが、相当な年齢であることを感じさせた。
「さっき、小田という先生から電話があったよ。この子と仲良くしてくれて、ありがとう。こんな見かけなもので、なかなか友達もできなくてな。わしらでは、どうにもしてやれんし」
その言葉に、僕は違和感を覚える。
けれど、その意味を深く考えるより先に、ささやくような観月の声がした。
「星河くん、明日……」
観月は、そこで言葉を切ると、琥珀色の瞳をまっすぐ僕に向けた。
「時間、あるかしら」