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サンスポット(太陽黒点)
太陽黒点は、太陽の表面に現われる黒い点のことである。光り輝く太陽面にあって、周囲より温度の低い黒点は、ひときわ目だって見える。
古代の中国では、太陽に住んでいる烏だと信じられていた。
近代以降は、太陽の活動状態を知る手がかりとして観測されている現象である。
*
校長と来賓の挨拶が終わって、入学式の最後に登壇したのは、長い黒髪が印象的な若い女性教諭だった。
地学を担当していると自己紹介したその女性教諭――富士香奈子は、僕たち新入学生を歓迎する挨拶を述べたあとで、晴れやかな笑顔で言葉を続けた。
「……さて、皆さんが着ている制服、とくに女子のものは、ロンドンにあるパブリックスクールの制服と同じデザインになっています。私が学生の時に留学したその学校は、生徒の個性を最大限尊重しつつ、生徒間の協調を学ばせるという教育方針でした。これは、本校の校訓と同じ精神です。そこで、そのパブリックスクールのオーナーから特別な許可をいただいて、本校の制服として採用することにしました。皆さん、これから送る高校生活において、他人と違う自分に思い悩む必要はありません。それこそが、あなたの個性なのです。他の人との関係の中で、それを正しく伸ばしてほしいと願っています」
表面的に他人と合わせることで、仲間はずれを免れる。
そんな人間関係で過ごしてきた僕は、その言葉に胸を打たれた。ここではもう、そんなことをする必要はないのかと思った。
入学式が終わり、僕は、指定されたクラスの教室に入った。
教室にはすでに何人もの生徒がいて、いくつかのグループを作って談笑していた。
僕の通っていた中学校から朝陽北高に進んだ人は二十人くらいいたが、この教室には見知った顔はひとつもなかった。
机に張ってある名札を確認して、廊下から二列目の少し後ろの席に着く。
輪になって騒ぐ生徒たちの向こう、南側に向いた窓からは、グラウンドと田園風景が見渡せた。
そして、廊下の向こうにある北側に向いた窓からは、中庭を挟んで建つ北校舎が見えた。その屋上には、陽光を返して銀色に輝く観測ドームがあった。
呆然としていた僕の視界をさえぎって、ひとりの女子生徒が立ち止まった。
赤みがかかったミディアムショートの髪と、色の白い顔の中から僕を見ている琥珀色の瞳が印象的だった。
小柄で細身の身体にフィットしたネイビーのブレザーとバーバリーチェックのプリーツスカート、Vゾーンには同じ学年であることを示す、赤地に空色のレジメンタルタイ。皆と同じ制服に身を包んでいるのに、彼女は教室にいる誰よりもその制服が似合っていないように見えた。
彼女は、机の名札を確認すると僕の隣の席に座った。
椅子を引く音も、鞄を置く音も、周りに遠慮しているかのように小さかった。席についた彼女は、ふうっとひとつ息をつくと、そのまま動かなくなった。
まるで、ずっと前からそこにいるように、彼女は教室の空気に溶け込んでしまっていた。
賑やかな教室にあって、異質でも同質でもない存在。それは、どこかしら、僕と似ているように感じた。
それが、観月詩織の第一印象だった。
高校生になっても、昼休みはグラウンドで身体を動かして遊ぶ生徒が多かった。
体力測定を兼ねた第一回目の体育の授業で、すでに運動能力の異様な低さを露呈していた僕は、その仲間に入らなかった。
綾乃といっしょに登下校したり、お昼休みにちょっと話をしたり、けれどそれ以外には、誰と仲良くするでもなく日々が過ぎていった。
入学式での感動にもかかわらず、僕の高校生活は今までと何も変わらなかった。
たぶん僕は、こうやって灰色の高校生活を送り、卒業してゆくのだろうなと思っていた。
けれど、そんな僕にも転機はやってきた。
それは、入学式から十日ほどが過ぎた日の、昼休みのことだった。
その日は珍しく綾乃が来なかったので、クラスのざわめきの中で何事もなく昼休みが終わろうとしていた。
おしゃべりをしながら教室に入ってきた二人組の女子生徒が、僕の席の隣で足を止めた。
「観月さん、左利きなんだ……」
左利きという言葉に、僕は驚く。
隣の席にいながら、観月が左手を使っているところを、今まで見たことはなかった。
「珍しいね」
観月に話しかけた女子生徒は、そう続けた。
もう一人の女子生徒が、その言葉の後を受ける。
「観月さんって、なにか雰囲気が違うなって、思ってたんだ。ほら、その髪の色とかもね。生まれつきなんだよね、それ」
「やっぱり、そういうところも、ちょっと変わってるんだね。左利きの人って」
彼女たちの言葉が続く。けれど、話しかけられている観月は、いっこうにそれに答えない。
観月は、クラスで孤立したり爪弾きにされたりするような生徒ではなかった。
積極的ではなかったが、誰とでも無難に付き合っているようだった。なのに、今日は、二人の言葉を無視でもしているかのように、押し黙っている。
それが気になって、僕は隣の席に目を向けた。
そして、その横顔を目にした僕の胸は、どきりと鼓動を打った。
観月は、今にも泣き出しそうな表情だった。
左手に持っていたシャープペンシルを右手に持ち替えると、観月は、そよ風が木の葉を揺らせるような声でささやいた。
「そんなこと、ない……」
始業十分前を知らせる予鈴のチャイムが鳴り、二人の女子生徒は何事もなかったように自席に戻っていった。
観月は、表情を曇らせたまま何かに耐えているようだったが、やがて席を立つと後ろのドアから教室を出て行った。
始業を知らせるチャイムとともに席に戻った観月は、少し赤くなった目元をハンカチで拭った。
――泣いていたんだ。
その姿は、僕の記憶に残っている幼いころの妹の姿と重なった。
僕の妹は、左利きだ。
両親はどちらかというと古風な考え方だったので、妹はもの心がつくころから利き手を矯正させられた。左手を使うと叱られ、泣きながら右手で食事をさせられていた。
僕は、そんな妹が不憫で、妹を泣かせるなと両親に食って掛かったこともあった。
あとで知ったことだが、利き手の矯正は、トラウマを残す可能性があるほど、当人にとっては辛いことらしい。
妹は、今では何事もなかったように左右両手を使っているが、あるいは観月は、それで辛い思いをしているのかも知れない。
僕は、自分の方から他人に、しかも女の子に声をかけるなんてことはありえないと思っていた。
けれどそのとき、僕の口からは、自然に言葉が流れ出していた。
「左利きで、いいと思うよ。変なことじゃないから」
弾かれたように、観月がこちらを向いた。
その白い顔の中で、少し潤んだ琥珀色の瞳が、驚いたように僕を見つめていた。
それから僕と観月は、ときどき会話をするようになった。
それは、高校生の男女のコミュニケーションとは思えないほどの、ささやかな言葉のやりとりでしかなかった。
けれど、それでも、綾乃以外の女の子と話ができるということは、僕にとって奇跡のように思えた。
花を散らした校庭の桜は、青々とした若葉を繁らせた。
フェンスの外に広がる田園風景も、日々新緑に彩られていった。
灰色に見えた毎日が、そうして少しずつ色づきはじめていた。
そんなある日の放課後、いつものように帰り支度をして廊下に出た僕は、観月に話しかけられた。
「星河くんは……」
赤みのかかった観月の髪が、開け放した窓から入ってきた南風に乱れる。
それには構わず、彼女は言葉を継いだ。
「どこか、クラブに入るの?」
僕は北校舎を見上げる。
四階建ての校舎に一か所だけある五階の部屋。その頭上には、銀色の天体観測ドームが乗っている。
そこが天文研究部の部室であることは、入学初日のオリエンテーションで知った。
天体を観測し研究するクラブ。そこにあるものに、興味がなかったわけではない。そんなクラブなら、もしかしたら僕でも、そうも思った。
けれど、少人数の濃密な人間関係の中にわざわざ飛び込むことに、前向きな気持ちにはなれなかった。
だからやはり入部はしないでおこう。
そう思ったときだった。
「興味があるの? 星河くん」
くっきりとした女性の声に驚いて振り返ると、クラス担任の富士先生が笑っていた。
ええまあ、とあいまいに答えると、富士先生は「この子たちでいいか」とつぶやいた。「で」という部分が、妙にはっきりと聞こえた気がした。
富士先生は、ぼくの隣に立つと、観測ドームに目を向けた。そして僕の方に向き直ると、用事を言いつけるように告げた。
「だったら、天文研究部に入りなさい」
突然のことに、僕は断ることも忘れて、いえでも、と口ごもった。
富士先生が畳みかけてきた。
「星は嫌い?」
「いえ……好きです」
「ハイ、決まり」
そして富士先生は、返す刀を観月に向けた。
「観月さんも、いいわね」
語尾がすでに疑問形ではなかった。
富士先生は天文研究部の副顧問だ。だから勧誘しているのだろうが、あまりに強引すぎる。しかも「この子たち」のあとの「で」が、どうにもひっかかる。
完全な巻き添えの観月に対して、僕は申し訳ない気持ちになった。
観月は琥珀色の瞳をうるませながら、僕と富士先生を見回し、それから左手に目を落とした。
たぶん断るだろうな、と僕は思った。
けれど……。
ゆっくりと顔を上げた観月は、ささやくような声で「はい」と答えた。