α Ari
四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴って、昼休みが始まった。
ざわめきはじめた教室の窓から、僕は空を見上げる。薄い水色の空には、小さな白い雲が浮かんでいた。これなら、今日も大丈夫だろう。
ホワイトデーのお返しをして、期末試験があって、僕と観月は一教科ずつ再試験を受けて、綾乃はやはり学年トップで、三年生になった。
窓に背を向けて、僕は後ろの席を振り返る。
そこには、もう当たり前のように観月が座っていて、潤んだ琥珀色の瞳が僕を見ている。
変わったことといえば、席が隣でなくなったことと、彼女の赤みのかかった髪が背中まで伸びたことくらいだ。
「行こうか」
僕が声をかけるのと同時に、観月はバスケットと水筒を持って席を立った。
「やっぱり仲がいいわね、あなたたち。これからピクニック?」
昇降口の廊下で出くわした富士先生が、これ以上ないというほどの笑顔で話しかけてきた。
「がんばってね、部長さん」
そう言って、富士先生は、綺麗な黒髪を揺らせながら笑う。毎年のクラス編成と学期毎の席替えには、この先生の意向が反映されているのではないかと思う。
けれど、富士先生の目は掲示板に向いていた。そこには、新入生をクラブ活動に勧誘するためのポスターが貼り出されていた。
――そっちか。
僕は、小さくため息をつく。
学校は、今年度になって、国立大学への進学率を上げることに力を注ぎはじめた。もともと進学校だった朝陽北高だが、理系大学への進学に特化した自然科学コースを設置して優秀な生徒を集めたり、普通科コースでも授業の進度を速めて宿題を大量に出したりしていた。
それに反比例するように、クラブ活動は消極化の一途をたどっていた。
新入学生を迎えたこの時期だというのに、掲示板にA4版のポスターを貼り出して自主的な入部希望を募る以外には、宣伝や勧誘は自粛するようにという通達があった。そのせいかどうかはっきりとしないが、天文研究部への入部希望者はいなかった。
僕と観月は、職員室に入って小田先生の席の横に立ち、お願いします、と声をかけた。事務机で書類に埋もれながら弁当を食べていた小田先生は、ああ、と言って引き出しから鍵束を取り出した。
「天文研究部も、おまえたちが卒業したら廃部だな」
事務的な口調で僕と観月にそう宣告したあと、小田先生は部室の鍵を観月の掌に載せた。
観測ドームのスリットを開放して、開口部を南に向ける。
差し込んだ眩い陽光が、二本の望遠鏡を白く輝かせた。
観月は、馴れた手つきで、屈折望遠鏡の後端に太陽投影板を取り付けている。
太陽投影板は、長いアームの先に小さな穴が開いた黒い遮蔽板と白い投影板がセットされた、太陽観測専用の器具だ。
観月は、記録用紙を投影板に取り付け、望遠鏡を太陽に向けた。
淡い黄色をした太陽の表面が、上下左右に動いた後で、ちょうど記録用紙に描かれた円に重なるように映し出される。
それを見ながら、僕は赤道儀のクランプを締め付けて、リモコンの自動追尾ボタンを押す。
駆動モーターの微かな動作音がして、望遠鏡は太陽の動きを追尾しはじめた。
ここからは、観月の独壇場だ。
ドームの内張りに背を預けて見守る僕の目前で、観月は記録用紙に映った太陽面をなぞるように鉛筆を走らせる。
彼女の左手に握られたファーバーカステルの色鉛筆が、白い紙の上に次々と太陽黒点を描きだす。
それは、観測記録をつけているというより、絵画を描いているように見えた。
暖かな微風が、観月の髪とスカートを揺らせる。
しゅっしゅっという鉛筆の音以外には、何も聞こえない。僕も観月も、黙ったままだ。
やがて、ふうっと息をついた観月の手が止まった。
記録用紙には、写真のように鮮明な太陽面が描かれていた。
僕と観月は、ドームの木製の床にレジャーシートを広げて、向かい合って座った。
二人の間には、藤製のバスケットがあって、その中には色とりどりのサンドイッチがぎっしりと詰まっている。
観月が、水筒の紅茶をカップに注いで、僕に差し出す。
「ありがとう。いただきます」
僕はそのカップを受け取り、軽く手を合わせてから、ハムのサンドイッチをつまむ。
毎週水曜日の昼休みに黒点観測をすることは、天文研究部の活動の一環だった。学校が休みの日と、天気が悪い日を除いて、僕と観月は二年間、ずっと黒点観測を続けていた。
そして、去年のちょうど今ごろから、観測のあとにこうして、二人で昼食をとりながら過ごすようになった。
去年の秋に入部した綾乃は、一度も参加していない。天文研究部と写真部のほかに放送部をかけもちしている彼女は、昼の校内放送の間は放送室を一歩も動けないらしい。そんなわけで、僕と観月の二人だけのランチタイムは、いまでも継続している。
僕と観月は、黙ったままで、サンドイッチを食べて紅茶を飲んだ。
心地良い沈黙のなかで、時間だけが過ぎて行く。
四月の空は、翳りひとつなく僕たちの上に広がっていた。
僕は、この時が、このままずっと続いてくれたらいいのにと思った。
玉子のサンドイッチを手にとった観月が、ささやくように言葉を紡いだ。
「私たちが卒業したら、終わりって……寂しいわ」
それは、春の風のような、耳に心地よい声だった。
なのに、僕の胸の奥は、きゅっと締め付けられるように苦しくなった。
僕たちの二年間が、意味も持たず、成果も残さずこのまま終わってしまうのだろうか。それでいいはずは、なかった。
けれど、僕の口をついて出たのは、気のない返事だった。
「しかたないよ」
観月は、小さくうなずくと、そうね、と答えた。
望遠鏡の影が動いて、観月の顔に翳りを作った。
陽光に温められた木製の床が、微かに軋んだ音を立てる。
やがて、昼休みの終わりを知らせる予鈴が、柔らかな音色を響かせた。